果て待ちの庭

倉橋玲

果て待ちの庭

 少女はいつもの通りにベッドの上で目覚めた。白い天井を見つめて数秒、ゆっくりと身体を起こし、ひとつ伸びをする。

 窓から外を見れば、変わらぬ青空が見えた。細く区切られた空の青さは、彼女が覚えている限り、一度も陰ったことがない。今日も良い天気であると頷くのも、またいつもの事である。

 起きて着替えた少女は、日課となっている植物たちへの水やりをすることにした。

 少女が世話をしている庭園は広い。ジョウロに水を汲んで、少しずつ水をやっているうちに、昼の頃合を過ぎていく。

 しかし、そんないつも通りが進行している途中で、ふと彼女は動きを止めた。その拍子に水が白いワンピースの裾を濡らしたのも気づかず、彼女はこてりと首を傾げる。

 少女が佇む庭園深部の、とある箇所。草木に隠れて非常に判りにくいが、そこの地面だけ、ぽかりと何も生えていないのである。

 さてこれはおかしい。この庭園は、いつだって草と木と花に囲まれた穏やかな場所だ。他にすることがないからいつも水をやって世話をしてはいるが、少女が何もしなくても、きっとここは変わらない。だから多分、ここに生えていたものが枯れてしまったわけではないのだろう。第一、彼女はこの庭園で、枯れ草というものを見たことがなかった。そして、この一部分だけ何もないというのは、どこか人の手を感じさせる。

 けれど、少女は何もしていない。少女はいつだって起きて水をやって、手が空けば陽を浴びて、夜になれば眠る。そんな日々を過ごしてきたのだ。

 ではこれは、一体なんだろう。丸く空いたスペースは、そんなに広くはない。少女の両足が収まる程度のものだ。

 少しだけ考えて、少女はジョウロをその場に置くと、一度家に引き返すことにした。どうにも気になって仕方ない。けれど掘り返すには道具がなかった。最悪手で掘ることもできるが、あんまり深いようなら少々骨が折れる。

 家のどこかに地面を掘れるものがあるかも、という希望的観測は、幸運にも当たっていた。

 そう広くない家の、少女が寝起きしている部屋のチェスト、その一番下に、子供が砂遊びに使うようなスコップがひとつ、眠っていたのだ。

 見覚えがないぴかぴかの赤いスコップは、手に取ると不思議なくらい少女の手に馴染んだ。吸い付くような心地とは、こういうことを言うのだろうか。

 少女は、あるべきものがあるべき場所に収まったような安心感と、首の裏がざわざわと落ち着かないような感覚とを同時に覚えて、なんとなく胸を押さえた。

 しかしその感覚も、二つ瞬きをする間には消えたので、気のせいだろうと片付ける。そんなことより、目下気になるのはあの場所だ。

 区切られた空に昇る日は、まだ高い位置にある。途中で投げ出した水やりが終わってはいないが、先に穴を掘って、それから水をやるくらいの時間はありそうだ。

 小走りに例の場所に戻った少女は、先程と変わらず何も生えていない地面に、何故だか少し安心した。そんな自分に内心で首を傾げつつ、地面の前にしゃがみこむ。

 さくり。スコップを突き刺してみると、意外と地面は柔らかかった。これなら掘り返すのも簡単そうだ。

 少女はそのまま、茶色い地面を掘り起こしにかかった。手や足、白いワンピースが、水を含んだ土の黒に汚れても、そんなことは気にならない。穴がえぐれていくほどに、胸がざわついて、苦しくて、どきどきした。彼女はそれら全てを、土の下にあるかもしれない何かへの期待だと認識した。

 暫くして、がちんとスコップの先が何かに当たった。さて何だろうかと思いながら、周囲の土を掻き分けて、埋まっていたものを取り出す。

 箱だ。

 少女の両手に収まるくらいの、小さめの箱だ。材質はおそらく金属だが、不思議な青色の光沢があって、土汚れの隙間から、僅かに光を反射している。

 これが、この場所に何も生えていなかった原因なのだろうか。

 しげしげと箱を眺める少女の胸は、相変わらず激しく鼓動を打ち続けている。

 箱には鍵がかかっていたが、どうにも壊れてしまっているようだった。とても頑丈そうな箱に相応しく、鍵もしっかりしたものだったようだが、長いこと土の中にあったことで腐食したのか、ぼろぼろになっていた。

 箱を草の上に置いた少女が、鍵にそっと触れる。すると、耐えきれないとでもいうように、鍵は掛金からぽとりと落ちてしまった。

 いつの間にか口内に溜まっていた唾液を飲み下して、少女は箱の蓋に手をかけた。興奮からか、その小さな手が震える。


――興奮、なのだろうか、……本当に?


 本当に、この胸騒ぎは、そんな甘いものから来ているのだろうか。

 疑問が少女の脳に閃いて、一層に手を震えさせる。けれど、そのときにはもう、少女は蓋を開けてしまっていた。

 きぃ、と蝶番を軋ませながら、呆気なく箱が開かれる。

 途端に、ぐるりと時が巡った。

 少女が驚く間もなく、一瞬で夜の闇が訪れる。しかしそれもまた一瞬で過ぎ去って、朝が来て昼が来て夜が来て。一日の一巡りが、まさにひと瞬きで終わってまた始まる。

 それに合わせて、庭園の木々も、草も、花も、恐ろしい勢いで成長しては枯れていった。そして枯れた傍からまた生えて、異常な速さで繰り返す。

 何もなかった、何も変わらなかった、ただただ日々が過ぎていくだけの場所が、箱を開けた、それだけで、何もかも変わってしまった。

 凄まじい勢いで巡る時の中、少女は呆然と箱の中に視線を落とした。

 その中にあったのはたったひとつ。赤い石の嵌った指輪だ。

 赤い輝きを目にして、彼女は思い出した。思い出してしまった。

 ここにこれを埋めたのは、他ならぬ彼女自身だ。いつまでも待ち続けようと誓って。どれ程の時が経っても、この想いが風化することのないように。鍵をかけて、しまっておけば、きっと大丈夫だと。自分の手でも触れないようにしておけば、何も変わることはないだろうと。

 箱に入れて、しまい込んだ。しまい込んで、埋めた。庭園の隅、少女がただひとりを待つための箱庭に。自分を閉じ込めて止めてしまうための鳥籠に。

 けれど、箱に閉じたせいで、少女はその想いを失った。失ったが故に、少女は己が何故ここに居るかも判らず、いずれは判らなかったことも忘れてしまった。

 何十年、何百年、何千年もの時間が、棺桶の内のような安寧をもたらしていた。

 けれどもう、終わりである。少女は正しく事態を理解した。

 彼女が思い出してしまったせいで、取り戻してしまったせいで、幾星霜と止まっていた全てが、再び動き出した。

 急激な変化に、箱庭が軋む。鳥籠は崩れる。如何に厳重に鍵をかけたところで、檻自体が壊れてしまえば、何の意味もない。

 少しずつ少女の身体が、少女から大人に、大人から老婆へと変わっていく。

 そうして枯れ木のようになった指で、少女だった彼女は、そっと指輪を手にした。指輪に嵌る宝石の輝きだけは、急速な時の流れにも変わることはなかった。

 それがなんだかとても嬉しくて、彼女は安心した。

「――――」

 彼女の口が何かを紡ごうとして、けれどその声も、過ぎる時に潰されて消える。

 くずおれた彼女の口に、小さく笑みが浮かんでいたようにも思えたが、そう時間もかからず肉を失ってしまえば、確かめる術はなかった。


 がしゃり。




「……鳥籠?」

 男が蔵の整理を頼まれたのは、暇を持て余していた以上仕方がない。それにしても、ずっと昔からあるという広い蔵の中は、多種多様なよく判らないものが詰め込まれていて、なんともげんなりする有様だった。

 そんな中で埃と格闘していた彼が見つけたのは、ひとつの鳥籠だった。正確には、鳥籠の残骸、である。

 変わった鳥籠で、底面には草木のミニチュアが置いてあったりして、箱庭のようでもあった。原型を留めていた頃は綺麗だったのだろうが、今はもうただ無惨なだけだ。

 なんでまたこんなゴミが、と思った彼が、ゴミ袋に鳥籠の残骸を詰めようとしたところで、ふと気づく。

 そのまま、そっと手を伸ばして、彼は気づいたそれを拾いあげた。そして、ぱちぱちと瞬きをする。

 指輪だ。

 赤い石の嵌った指輪は、サイズからしておそらく女性のものだろう。どうして鳥籠の残骸にこんなものが、と首を傾げたその手の上に、ぽたりと落ちるものがある。

「……なんだ、これ」

 ぽたりぽたりと続くそれの出処は、彼の両目だった。

 埃にでもやられたか、と思いながら目を擦っても、涙はまったく止まらない。それどころか、なんだか酷く苦しくて仕方がなくなった。

 首を捻りながら、彼は蔵の整理を一時中断することにした。とてもではないが、続けられそうになかったのだ。

 ぐしぐしと目を擦りながら蔵を出ていく彼はひとつ、ごめんな、と呟いた。

 一体何に対しての謝罪なのか。彼は自分が謝罪を口にしたことすら気づいていないようだから、もう誰にも判らない。

 ただ指輪の赤い石だけが、久方振りの陽の光に、きらきらと輝いていた。

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