死後の遺書

淡風

二度目のはじまり

失われた報酬_Lost Remuneration

 私は奇妙な依頼を受けた。五十余年の画家生活の中でも特に奇妙なものである。それはだだっ広い灰色のコンクリートの地面の中心にぽつんと建つ、一軒の円柱のなりをした建物を、深夜零時から二時の間に東側から描いてほしいという依頼だった。正直なところ、それをどちらから描こうが変わらないように思えた。それを先方に伝えたところ、しかし東側から描かなくてはならない、との回答を得た。それ以外であれば、既定の報酬を払うことはできない。

 わけが分からなかった。その建物が何であるかもわからないが、それを東側からのみ描く必要があるのか。ましてや深夜零時ともなれば、あたりはほとんど闇である。辛うじて月光が闇の中に灰色の何かがあることを教えるほどで、あえてそれに、絵にする価値を見出すことすらできない。

 けれども私はここ数年、仕事の量が明らかに減少しており荏苒とする日が増えていた。あまり仕事を選べる立場でないのは確かだ。


 あくる日、私は灰色の画材と一枚のキャンバスを抱えて円柱の建物の待つ敷地へ踏み込んだ。「それではどうぞよろしくお願いします。くれぐれも既定の時間を過ぎませんよう、ご注意ください」私をそこまで案内した男はそう言い残すと、静かに闇の中へと消えた。

 私は残暑も眠る中、虫けらも口を噤む無機質な世界で一人残された。小一時間どう描こうか悩みぬいた挙句、ついに筆を抜いた。


 私がその絵をほとんど完成させるのにはひと月ほどかかった。その間、その建物について、または私についてひどく考えさせられた。昔であれば画家としての役目を果たしているときはキャンバスに意識を向けることができたが、この世界ではどうもそれが許されなかった。ひどく興味を引く建物のことを考えさせられ、それを脳から追いやれば次には私自身のことが頭に浮かんだ。闇に溶ける建物と、あちらの世界からの遺失物の私は、決して交じりあわないように思えた。

 そしてついに残りわずかとなった。その日も例に及ばず私は無性に愛着の沸いて来た建物のことと、それに魅入られている私自身のことを考えた。およそしばらく前から気が付いていたが、少なくとも私は、この絵を描きながら死ぬことになる。今日強くそれを自覚した。私は画家として死ぬことになる。それは実に光栄な形をした絶望であった。私は最後の一筆をキャンバスから離すと、私は静かに灰色の建物に祈りを捧げた。



「これは素晴らしい」と、依頼人はその絵を見てかの画家を絶賛した。「彼をここに呼ぶことはできないか。直接礼を言いたい」

「申し訳ありませんがそれは出来ません。ちょうどこの絵を描き終えた朝方、彼は私のもとを訪れ既定の報酬を拒み、この絵を置いていきました。それから彼がどこへ消えたのかは知りません」

「そうか。彼には彼なりの考えがあるのだろう」

「それともう一つ。昨晩の三時ごろ、すなわち画家が絵を描き終わったのち、一匹の夜鷹が空高くから何か瓦礫の破片のようなものを落としていきました。それはちょうど硝子の塔にあたり、あれは硝子の瓦礫となりました」

「……そうか」

 依頼人はその手で報酬として用意していた金一封にライターで火をつけると、卓上で燃え尽きるまで見つめていた。

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