Rainy Days ―レイニー・デイズー

獅子堂まあと

Rainy Days<前編>


百年前 僕は、ここに無く、

百年後 僕は、ここに居ない。


* * * * * * * * * * * *


 「馬鹿いえ、冗談だろう。」

 相棒の黒猫トムは、すこぶる機嫌が悪かった。いつものことだが。今朝のホットミルクが熱すぎたのが癪に障ったのかもしれない。普段はぴんと張っている自慢のヒゲが、右側だけナナメ下に向いている。

 「まあ、そう言うなよ、GBトム。これは、れっきとした政府のお偉方からの依頼なんだ」

 「ふん。そのセリフは聞き飽きたね。じゃあ何かい。政府のお偉方ってのは、こぞって支払いを先延ばしにしたがるほど、予算に困っている連中なのかい」

 「そういう言い方は無いだろ、マイ・フレンド。君だって良く分かってるはずだ。僕らの仕事は非公式な調査・探求、および機密事項の保守。そんな気前良く右から左へ、おおっぴらに金を流せるもんじゃない。税務署に捕まっちまうよ」

 「だったら、今月のあんたの家賃くらいは早急に出して貰ったほうがいいね。先月分も、先々月分も」

GreatでBlackな黒猫トムは、ぴょんとテーブルの端から飛び降りて、尻尾をぴんと立てた。

 「とにかく、だ。オイラはやらない。ビデオテープの調査だって? まったく、冗談にも程があるよ。やりたいなら、あんた一人でやるんだね。」

言うだけ言って、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。

 まいったな、ご機嫌とりにも、さっぱり応じない。これは、やる気を出させるには、チョコチップクッキーだけでは済みそうにないぞ。

 「ああ、まったく。」

 僕はため息をついて、破れカウチに身を投げる。読みかけのまんま積み上げているマガジンが何冊か、埃もろとも滑り落ちたが、拾い上げる気も起きなかった。

 「いったい誰が、あんな聞き分けのない猫に育てたんだろう」

 「他ならぬあなたでしょ、ポール・マッカートニー」

見上げると、呆れ顔のマダムがそこに立っている。麗しのミズ・シンディ、我らがささやかなる探偵事務所の家主にして生活水準監視員。

 「それとも今日はジョージ・ハリスン? あら、机の上にあるのは”Coda”じゃない。じゃあ、レッド・ツェッペリンだ」

 「やあシンディ、今日のコーヒーは何?」

 「キリマンジャロよ。」

シンディは、サイドボードにティーカップを置いた。そして幸いなるかな、この町で最も優れたコーヒーの注ぎ手だ。

 「まあた”彼”からの仕事? よしなさいよ、もう。なんべん死にかけたら気が済むの。上がりだって少ないし――」

 「いやまあ、そんなことはないさ。そりゃぁ確かに、色々あるけどね。いわくつきな仕事ほど、僕は燃えるんだ。それに今回だって相場の倍以上の額で……」

 「そして危険度はさらにその倍。どうせ入院費と壊したものの弁償代でほとんど消えるわ。ねえ、そりゃあんたがここに事務所を開いた理由は良く知ってるわよ。そこらで浮気調査だの、迷子探しだのするためじゃないことは分かってる。でもね、トムのことも、少しは考えてあげたらどう」

 「まあ、あいつは、僕の唯一の肉親だからね」

力なく笑って、僕は起き上がる。

 極上のホットコーヒーを冷めないうちにといただきながら、僕はちらと、机の上に置いた、まだ封を切っていない大きな茶封筒に目をやった。

 消印はなく、宛名もない。封は特殊な蝋印で施され、決められた手順で開かなければ爆発する仕組み。もちろん無理に破いても駄目。ただし、火に放り込んでも燃えないし、積載限界ギリギリまで荷物を積んだ砂利運搬トラックに踏み潰されても潰れない。政府機密機関御用達、特殊素材で出来た、資料受け渡し用封筒。

 「あんなもの、突き返せばいいのに。」

シンディは、まだ、ぶつぶつ言っている。

 「あの人、あなたのこと、自分の手下か使いっ走りだと思ってるんじゃないの?」

 「少なくとも、信頼はしてくれてるさ。でなきゃ、レベルEの機密資料をこまめに送ってきたりはしない」

空になったカップをミズ・シンディに返し、ご馳走様を言った僕は、封筒を取り上げた。トムが何と言おうと、この手の依頼は、一度だって退くわけにはいかない。安全も何も、くそくらえだ。

 ドアを開け、部屋を出て行きながら、魅力的な我が家主殿は、困ったように、心から心配してくれている声で、言った。

 「忘れて生きればいいのに、あんたも意地ね。どうしてそんなにこだわるのよ、過去のことに」

 「あるいは未来も、そこにあるからだ」

僕は自分でもおかしいくらい、大まじめだった。

 「何かわかったら、真っ先に教えるよ、マダム」

 「はいはい。人間では真っ先に、ね。あとでトムにココアミルクと魚の頭を用意しておくわ。仲直りできるようにね」

ぱたん、と扉が閉まった。僕は、――それを確かめてから、封を切った。


 僕の時間で、今から十五年ほど前のことだ。

 その日は風も無く、空は晴れて真っ青で、雲ひとつ無かったと思う。海は穏やかで、宇宙から見ても地球には白い翳りが無く、山火事も地震も津波も無かった。世界中でそんなだった。おかしいですね、と、ワールドニュースも言っていた。たぶんそのとき、地球自身の時間が止まっていたのだと思う。

 突然、ある場所の空が割れた。見えたのは真っ暗な穴だった。あまりに突然のことで、人々は驚きの声も上げられなかったらしい。

 その場所は、一瞬にして消えた。

 数秒後、思い出したように時が動き出し、……その場所は、空いた穴を埋めるために流れ込んで来た海水によって、沈んだ。


 多分。


 そして気が付いたら、見知らぬ場所にいた、というわけだ。

 SFなんかで良くあるだろう、ほら、時空間転送装置だか、次元ワームホールだかに飲み込まれて、まったく別の、異世界に飛ばされてしまうような話が。僕の場合も多分、そうだった。ただ、どうしてそんなことが起きたのか、どうやってここへ来たのか、僕自身も、よく分かっていない。こちらでも空に裂け目は出来たらしいが、それは同時に、世界中の、あちこちの場所に開いた。そして、吸い込んだもの、建物とか、土とか、生き物とかを、てんでばらばらの場所にばら撒いた。僕はたまたま、テレビ中継車のまん前に、リポーターがスタンバっている、その頭上に墜落した。お陰ですぐに救急車を呼んでもらえ、おまけに身元も保証されたというわけだ。…異世界か、異時代の人間として。


 世界政府が把握している限り、事件の生存者は、僕一人…正確には、僕と、生意気に喋る黒猫トムだけ、らしい。

 残念なことに、僕の記憶は吹き飛ばされたショックでほぼカラッポになってしまったらしい。一緒にやって来たトムの場合は、カラッポになるどころか大いに記憶を得たようだ。たぶん僕の、吹っ飛ばされた記憶の一部だろう。黒猫が喋れるようになったのは、そんなわけだ。


 黒猫を抱きしめて土砂降りみたいに泣いている子供の僕を、彼らは容赦なく保健所に連れて行った。寄生虫や病原体の検査をするためだ。ついでに、エイリアンでないかどうかも。その結果分かったことは、僕が正真正銘の純地球産ホモ・サピエンスであること、トムが何の特徴もない雑種の野良猫であること。当時の僕は身長135センチでトムは35センチだったが、今や僕は179センチ、トムは88センチ(もちろん、尻尾の先まで計っている)だ。時は確かに動いている。だけど今だに若々しいトムの人生、いや猫生を見る限り、本当に、この世界の元の住人と同じ速さの時間かどうかは自信が無い。


 僕は飛ばされる以前のことを、何ひとつ覚えていなかった。しかも、僕の体には、真新しいことは何も無かった。地球上に百億もいる人間皆が持っている、既に解析済みの遺伝子しか持っていない。未知の病原体や治療痕、そう、虫歯の治療痕すら、見つからなかった。実に健康、そして医者にとっては、実に研究する甲斐のない体。

 だからすぐに解放され、居場所だけは明確にしておくことを条件に、こうして、何処とも知らない地球で市民権を獲得して細々と生きている。表向き探偵事務所という名目で事務所を借り、そして時々は、15年前から続けられている、政府の「多次元接続事象調査機関」に、協力しているというわけだ。


 結局のところ政府の関心は、僕らが何処から来たかよりも、自分たちが何処へ行くのかというところにあるのだろう。

 地球上に起きた異変は、何が原因なのか。今後もまた、起きるのか。僕らが未来から来たのなら、その事件は、今後起きるものとして防ぐことが出来る(かもしれない)。また過去に起きたものなら、今後起こらないという保証が出来る(かもしれない)。


 僕は封筒を開き、一本のビデオテープと、分厚い冊子を取り出した。テープは数年前、大陸の端っこの、次元ホールAE25-K跡で発見された残骸を、科学班が苦心して復元に成功したものだ。冊子はそれについての調査報告書。および発見時の状況、付近で発見されたその他の次元間移動オブジェクト。今回も、生物が移動してきた形跡は、無し。

 ビデオテープとは、ずいぶんレトロだ。やはり僕が居たのは、ここから過去の世界なのだろうか。いやいや、結論を出すのに焦るべきではない。この時代にだって、ビデオテープは、ある。博物館にも、中古品を愛用する人々の自宅にも、古物商にも。現に、僕の部屋にだって、10本はある。問題は中身、そう、中の映像だ。

 とにかくトムがいなくては始まらない。僕はそれらを元通り封筒にしまい、相棒を探しに表へ出た。

 一歩出ると、外はひどい匂いのする灰色の雨の中だった。実を言うと、ここ15年、雨は弱まりもせず、ひっきりなしに降っているのだった。そのくせ海は溢れない。どこかに水を吸い込む穴があるのだろう。僕は空を見上げ、そこにぽっかりと空いた暗い穴を眺めた。

 雨が降り出す前、そこからここへ落ちてきた。この、大通りのど真ん中、「町角デリシャス!」という、庶民向け食べ歩き番組の撮影中に。


 乾いていないと気がすまない、我がクール&ドライな相棒は、探偵事務所のすぐ隣にある、ミズ・シンディの洒落たカフェで、のんびりと手足を伸ばしてくつろいでいた。シンディの飼っているゴールデンレトリバーとイカした午後を過ごしていた彼は、僕がくしゃくしゃのコート姿で現れたのを見て、露骨に鼻頭に皺を寄せた。

 「なんだい、なんだい。その格好は。そんなみすぼらしい格好で同情を引こうったって、そうは問屋が卸さないぜ」

 「そりゃあさ、僕は人間だからね。君たちみたいに、黒だの金だのの立派な毛皮は着られないんだよ。」

 「そうかい、そりゃお生憎様。で、さっきの話なら、オイラは降りるぜ」

 「協力してくれよ、トム。お前だって元いた世界のことが知りたいだろう?お前だって、親兄弟がいたかもしれないんだぞ」

 「猫の親兄弟なんて、生後1年でサヨナラさ。乳離れしろよ、相棒。オイラは、ここで満足してるんだってば」

 「じゃあ、お前、僕がいなくとも一人で生きていけるのかよ」

前髪からポタポタ水滴をたらしながら、恨みがましく言いつづける人間を、トムは哀れむような目つきで見ている。いつものことだ、気にするまい。子猫の時から一緒にいるんだ、こいつの扱いは慣れている。


 ややあって、トムは、深い深いため息をついて、重たげに身を起こした。

 「分かった、分かったよ、まったく。人間ってのは、どうしてそう、厄介なのかね。ここでだって、幸せに生きられるってのに」

 「幸せとは、希望が満たされて初めて持てるもんだよ、相棒。そんなもの欲しがるのは人間だけだとは思うがね」

 「それも、あんたに特に強い傾向だと思うがね」

黒猫は素早く僕の肩によじ登り、爪でコートを引っ張りあげ、自分の頭に引っかぶった。

 「急いで戻ってくれよ、濡れないように。ヒゲに水滴がつきでもしたら、匂いでヤル気を無くしちまう」

 「そうだろうな、気をつけるよ」

雨の往来を歩く人など、ほとんどいない。こんな町に住んでいるのは、よっぽどの奇人か、のっぴきならない事情の人か。もしくは(僕のように)、破格の安価で住める宿を求める貧乏人か。


 部屋に戻ると、トムはテーブルに飛び乗って、くんくんと封筒の匂いを嗅いだ。

 「おい、触るなよ。爆発するぞ」

 「分かってるって。ちょいと嗅いでみただけさ。…おや、こいつジェネリーズの匂いがするぜ。事務所のポストに投函してったのは、彼女かな」

 「だったら、一声かけてきゃいいのに」

僕は濡れたコートを、トムの嫌がらない場所に引っ掛けながら、言った。

 「彼女には、保健所でずいぶん世話になったらな」

 「ふん、世話って、オイラが猫に化けたエイリアンじゃないかとか、脳にマイクロチップを埋め込んでやしないかとか、やたらとしつこく調べてくれたことかい。猫だって喋って何が悪い」

 「悪くはないと思うが、問題なのは、それがとても流暢な人間語だということだ。」

ようやく準備が整った。

 ダッシュボードの上のビデオデッキにテープを突っ込み、「Play」ボタンを押し終わると、僕らは揃って、破れカウチの上に胡座をかいた。

 まもなくブラウン管に人の絵が移り、それは――砂嵐の中で、ゆっくり、ぎこちなく動き始めた。世界が暗転し、僕は、いつものトランスに陥っていった。


 僕は、本当の名前が知りたいのだった。それと、もと居た場所が何処だったのか。ただそれだけが、政府機関に協力する理由と言っていい。

 覚えていたのは住所だけ、この世界、あるいは、この時代には、何処にも存在しない座標。そこが何処だったのか分かれば、今いる場所と、その場所をつなぐ正確な距離…時間…が、分かるはずだ。生きていれば帰れる場所なのか、あるいは、時間か次元かを越えて行かないと辿り着けない場所なのか。


 真っ暗な世界で、ビデオテープが回りつづける。どうやらそれは、テレビの娯楽番組を録画しただけの、ささやかな個人の所有物で、とりたてて重要な情報は入っていないようだった。番組の中で人々は笑いさざめき、また手を打ち合わせ、興奮したような目を正面に向けている。

 おや。あれは何だ。一瞬、ゲスト席に黒いものが走ったぞ。そう、トムだ。

 人々は猫に見向きもせず、司会の男が喋りつづけるのに合わせて拍手したり、笑ったりしている。黒猫はぐるぐる回る。カメラを構えている男。ジャンパー。STAFF…Y…YB…YBC。テレビ局の名前か、番組の名前? それから猫がまた歩いていく。大胆にも、司会の男の前を横切って、ゲストコメンテーターの席のほうへ。画像が悪い。所々、映っていない。コメンテーターの名札は、隠れている。顔もゆがんで、到底、美人とは思えない。彼女はずっと何か叫びつづけている。…そう、何かに向かって「それはアトランティック条約に違反していると思う!」と、叫びつづけている。顔色が変わった。ああ、怒っているのか。そうか、これは討論番組だな。こいつらは政治家か知識人に違いない。議題は…議題は、「自然破壊と生態系の保全について また人が地球と共存するために」。そう、これは覚えておこう。過去のテレビ番組表に記録が見つかるかもしれない。それにしても、このビデオの所有者は、何だってこんな憂鬱な内容をビデオになんか撮ったのだろう? そうか分かったぞ、本当は別の番組、たとえばドラマなんかを撮りたかったのに、番組の放映時間がずれて、うまく狙った番組を撮れなかったんだ。それとも、単にタイマーのセッティングミスかな。いずれにしても、面白い番組ではない。僕の記憶には何も、引っかからない。何も、だ。


 「おい、おいってば。相棒、しっかりしろ」

 「…う、ううん」

 「もう夜だぜ。いつまで寝てる。ビデオはとっくに終わってる」

 覗き込むトムの金色の目と、前足の肉球でつつかれる感触で、我に返った。窓の外は真っ暗、そして、相変わらず雨が降っている。

 トムはカウチの端からぴょん、と床に飛び降りて、僕が起きるのを待った。

 「見えたか?」

 「ああ、視えた」

 「そうかい。そいつは良かったな。オイラには、退屈な仕事だったよ」

黒猫は大あくびをした。ブラウン管には灰色のザーザーだけが映っている。デッキは、流し終えたビデオを無造作に吐き出している。僕はカウチから起き上がり、死体みたいにカチカチに固まった体を大きく伸ばした。

 「今回は、危険なことは無かったようで何よりだ。まったく、あんたときたら、どうしていつもはあんなに骨折りばっかりなんだね?」

 「自分でも良く分からないな。そうだ、レッドリバーに出かけたりしたのが悪いんじゃないかな。今回は、砂漠にも北極にも行ってないしさ」

 「これから行くんじゃないことを祈るよ」

猫は、またも大あくびをした。自慢の長い尻尾をくねらせ、前足をなめる。「で、何が見えたんだい。この、おんボロでほとんど色が踊ってるみたいにしか見えないビデオにさ。」

 そう、ビデオの中身は、僕にしか見えていないのだ。

 政府の科学班にも、ほとんど見えていないだろう。ノイズだらけで意味不明なこの手の異物、僕たちの<かつていた世界>から来るものについては、誰よりも、僕ら自身が、一番手っ取り早く、具体的で正確な回答を引き出せる。

 …とどのつまり、”彼”、ジョニー・デップこと「多次元接続事象調査機関」長官、親愛なるフォレスト氏を満足させる回答は、僕らしか出せない、というわけだ。


 「うひょう、見てみろよ。」

 トムはいつの間にか、机の上に飛び上がり、例の封筒をひっくり返している。分厚い資料の間から、ごくごく普通の長3型茶封筒を引っ張り出している。

 「何が入ってる」

 「カードさ。ほら」

黒猫は両手で封筒を挟んで、器用に揺さぶった。数枚のカードがぱらぱらと落ち来て、机と床の上に散乱する。

 「無期限パスに、ご招待券に、クレジット・カードだ。オイラ最後の一枚だけは気に入ったね。幾ら入ってる? さっそくATMで見てみようぜ」

トムは上機嫌だ。僕は、3枚のカードをそれぞれ人間の手で拾い上げ(猫には散らかすことは出来ても、片付けることは出来ない)、表と裏をじっくり眺めた。

 「何してんだよ。早く行こうぜ。」

 「ああ、ちょっと待って」

無期限パスというのは、ある一定の身分を持つ人々の御用達、メトロでもバスでもタクシーでも、好きなときに好きなだけ乗り回せる夢のような魔法のカード。そしてもう一枚は、政府調査機関ビル入り口の厳重警戒エントランスを一度だけ通り抜けられる素敵な使い捨てチケットだ。

 「よからぬことになると思うんだけどな。これは。」

僕はトムには聞こえないくらいの声で呟き、ドア脇の杭に引っ掛けてあった、よれよれのコートを肩に掛けた。


 その、僅か10分後、僕らはシンディのカフェにいた。

 「なるほどね。それは確かに、よからぬことだわ」

受け取ったカードを物珍しそうにひっくり返してみながら、彼女は美しいブロンドの下で眉をひそめた。落としている最中のコーヒーがコポコポと音を立て、香ばしい匂いが辺りに充満している。それだけで幸せな気分になれる、コロンビア豆の魔法。

 「何でもいいや、人間のことなんて。それよりオイラ、疲れたんで甘いものが食べたいな。クリームちょうだい」

 「虫歯になるわよ、マイ・ディア」

 「そりゃ歯磨きしないからだろ。オイラは違うぜ、最高に文明的な猫なんだ」

 「はいはい。--あなたはいつものツナサンドでいいの、ジミー・ペイジ?」

 「今日は本当はどっちかっていうと、ヤードバーズな気分なんだけどな」

 「じゃあエリックって呼ぼうか?」

僕はどうでもいい、というように手を振って見せた。シンディが返そうとするカードも、受け取らなかった。

 「とっといてくれよ。どうせ部屋に置いといたら、埋もれてすぐに行方不明だ」

 「あら、いやよ。こんな大金預かっておくなんて」

 「ここ数か月分の家賃と、むこう半年分の家賃、それにここのツケ代を引いたら、大した金額は残らないだろ。」

 「それに今回の食事代ね。」

シンディはカードをレジスターに潜らせ、カチカチ数字を打っている。普段ならとっくに店じまいしている時間なだけに、他に客は誰もいない。表は真っ暗、街灯の火が侘しく雨に馴染んでいる。シンディが注文の品をカウンターテーブルに運んでくると、トムは歓声を上げて皿一杯の生クリームに鼻面を突っ込んだ。

 「あんまり勢いよくやると、顔だけ白猫になっちまうぜ」

忠告はしたが、聞いちゃいない。

 僕の前には淹れたてのコーヒーとツナサンド。カウンターの向かいには、興味津々のシンディ。

 「それで? 何か分かったの」

 「大して、何も。誰かが録画し損ねたテレビ番組のビデオだった。地球環境についての討論会だって。馬鹿馬鹿しい」

 「あら、それじゃ、あなたたちの居た地球っていうのは、それなりに先進的だったってことね。少なくともGlobalizationって言葉を悲観的な意味で使えるくらいには」

 「どうかな。同じことを何百年も繰り返し議論し続けて、結局結論の出ないまま退化していった世界かもしれない。それに、あと2枚の魔法のカードのことも、気になるよ。これは、受け取ったら来いって合図だと思う?」

 「日時の指定は無いの」

 「在れば良かったんだが。」

いつもなら、報告が完了した時点で支払いは指定口座に振り込まれ、わざわざ出向く必要は無かった。”招待状”を受け取るのは、今回が初めてだ。

 「オイラはごめんだぜ。政府のお偉方のいるところには、行きたくないんだ。あんた一人で行って、ついでに定期健康診断でも受けて来いよ」

 「冗談だろう。お前がいなきゃ始まらないんだ、トム。お前だって、僕になにかあったら、ただじゃいられないんだからな」

 「知ったこっちゃないね。ただのお出かけだろう? 憂鬱な気分になるのは、一人でだって十分だ」

いつものやり取りを聞きながら、ミズ・シンディは苦笑いしていた。

 「やれやれ。難儀な体ねえ、あなたたちは。」

そう、難儀な問題だ。僕らの心臓は、どうやら、どこかで繋がっているらしいのだ。


 この世界に紛れ込んで間もない頃、僕とトムは別々の場所に連れて行かれ、それぞれ検査を受けていた。

 調査を依頼された科学者たちは、喋る猫、トムをたいそう不思議に思ったらしい。そこで、電気ショックを与えたり、採血したりしてあれこれやった。科学者が物事を明らかにすることに使いそうな、ありとあらゆる実験を。そしてトムに麻酔をかけて解剖しようとしたところで、僕の心臓が止まり、危うく死ぬところだったのだ。

 応急処置のお陰で僕は息を吹き返したが、これは大問題だった。猫を殺すのは罪にならないが、人を殺すのは罪になる。トムが呼吸困難に陥るだけで、連れの人間が死にかかると分かってからは、怖くて誰もトムに手を出さなくなった。

 ちなみに、この話にはもう一つおまけがついていて、僕が水疱瘡で寝込んだ時には、トムの体じゅうの毛が、ごっそり抜けてしまったのだ。おあいこさま、僕らは運命共同体。奇跡の一卵性双生児の如く、どちらか一方が不幸に見舞われれば、もう一方も幸せではいられない。

 それだけではない。トムが側にいない時には、<かつていた世界>から来るものがどんな記憶を秘めているのか、僕にも全く”視え”ないのだ。心臓だけじゃなく、脳のどこかも繋がっているのだろう、多分。

 それにしても、人生のパートナーが猫だったのは、幸運と言うべきか、不幸と呼ぶべきか?

 「なぁ、例の報告書、ちゃんと読んだのか?」

 クリームでべたべたになった前脚を丁寧に舐めながら、黒猫が聞いてきた。

 「あの、ビデオと一緒に送られてた分厚い紙の束さ。あんたのことだから、斜め読みすらしてないんだろ。ちったぁ、説明書を読む癖つけたほうがいいと思うぜ」

 「ああ、分かった、分かったよ。この間の電子レンジの件は悪かった。生き物を入れないでください、って注意書きを読み忘れて、うっかりお前を突っ込みそうになったのは謝る。だが、それとこれとは話が別で――」

 「オイラが怒ってんのは、あんたが天然記念物級のお人よしのくせに、殺人的ギャグを真顔でやりそうなところだよ。たとえば、自分の心臓をレンジでチンして自殺するとかね」

 相変わらずトムの言うことは難解でよく分からないが、腹がくちくなったことで、なんとかご機嫌は持ち直したらしい。

 僕も自分の皿を空にした。コーヒーもお代わりしたし、心残りは無くなった。

 「美味しかったよ、ごちそうさま。」

 「どういたしまして。それじゃ、おやすみなさい」


 湿っぽい事務所に戻ると、僕は早速、テーブルの書類に向かった。まともに椅子に座るなんて、そうざらにあることじゃない。トムはさっさと自分の寝床に向かったようだ。寝床と言っても、台所の隅にある、古びたワインの木箱なのだが。歯を磨くことは、どうやら忘れてしまったらしい。さっきの誓いをあっという間に忘れるあたり、まるで、小学生の子供のようだ。

 「勘弁してくれよ。虫歯の痛みは、肩代わりしてやれないんだからな」

呟いて僕は、薄暗いテーブルライトで報告書を照らす。文字の津波。無数の蟻の行列だ。僕がこの世界に来てから覚えた、ほぼ唯一のもの。それは「書き文字」というものだ。何しろ、こちらの地球に来た時、僕はまだ、小学生以前だったのだ。

 報告書は、お決まりの形式で無愛想に始まっていた。

 AE25-K次元穴は、15年前に世界中のあちこちに出来た次元の穴の中でも、最も調査が困難とされていた場所だ。標高6000メートルの高山の頂上近くにあるため、つい最近まで近づくことも容易ではなかったが、政府は調査のために、わざわざ世界で最も標高の高いベース・キャンプを建設した。そうして回収されたものが、このビデオテープというわけだ。

 強い風と吹雪のため、他に価値あるものが紛れ込んでいたとしてもとっくに四散してしまっている。巨額を投じた調査結果がこれでは、テープの解析に躍起になる気持ちも分かるというもの。僕には、フォレストの顰め面が見えるような気がした。「奴を呼べ。政府のお偉方を納得させられるだけの資料を提出させろ。」さて、金と政治にしか興味の無い連中に、地球環境について憂える討論会に出席したレポートが、喜んでもらえるかどうか。

 報告書の後ろ半分に添付された専門的なデータ集と白黒写真は、ぱらぱらと捲って流した。時計の針は、いつの間にか2時間も進んでいる。疲れてきて、重たい紙の束を、机の上に放り出した。トムときたら、とっくの昔の夢の中だろう…

 「アトランティック条約。アトランティック条約、ね」

すぐ側で自分以外の声がしたことで、ぎょっとして、椅子の背もたれから身を起こした。

 「トム、――」

 「おいおい、そんな、幽霊でも見たような顔するんじゃない。オイラまだ生きてるぜ」

 「そうじゃない、もう寝てると思ったんだ」

 「歯磨きを忘れてたことに気が付いてね」

なるほど。トムの口元から、ほんのり爽やかなスペアミントの匂いが漂っている。

 「なあ、どうなんだ。アトランティック条約、2105年、NATO加盟国が締結。こいつはちょっとステキな情報だと思うが」

 「そこが問題なのさ、トム。いま何年だ?」

 「ああん、2120年に決まってるだろ」

 「じゃあ、僕らはアトランティック条約の結ばれたまさにその年に、空に吸い込まれてここへ来たわけだ、すごいね。その年、この地球上で何があったか、覚えているかい?」

 「もちろんさ。消えた町なんか一つも無かった。吸い込まれたんじゃなくて、吐き出されたってわけだ。…たくさんのガラクタが世界中にね」

僕とトムの視線が、かっちり合った。そういうことだ。この資料が正しければ、親愛なるフォレスト氏がビデオテープを送りつけてきた意図は、一つしかない。

 「行くしかないな。これで決着がつくんならしめたものだろう?」

 「まぁ、な。あんた一人じゃ、何も出来ないだろうし。」

黒猫は気取って、ミントの匂いのする舌でヒゲをしごいた。

 「それはともかく、夜が明けるまで一眠りしようぜ。オイラ、夜行性じゃないんだ」

 「猫のくせに。」

言われなくても、夜中に動く気など、さらさら無かった。僕は久し振りにまともに文字を読んだせいで疲れていたし、一刻も早く、ベッド代わりの破れカウチに横になりたかった。テーブルライトを消し、資料を片付け、雨の音を聞きながら横になる。トムはいつものワイン箱に。

 頭の片隅で、声の低い男性ヴォーカルが、憂鬱とも爽快ともつかない声で熱心に歌っている。


 ♪Rain Rain Rainy Days, Rainy Night, Rainy Morning......

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