仮面の騎士―次の仕事が魔女と戦う騎士だとしても俺はやるしかない

長月輝夜

仮面の騎士1 蛮勇の騎士

第1話 ツノ無し(1/4)

ビルの照り返しが、ひどく眩しい日だったのを覚えている。

慣れというのは恐ろしいもので、入社して半年たったくらいから、通勤なんてのは殆ど無意識に行っていると言っても過言では無いくらいだった。が、その日の事だけは何故か鮮明に、まるで昨日のように詳細に覚えている。

きっと匂いがしたからだ。足が浮き立つ程の良い匂いが。

――吐き気がするくらい。

俺は電車を待っていた。音割れしたアナウンス、緩みかけの靴紐、やわな鉄骨のホームを揺らす程の雑踏。普段と何ら変わらない通勤の風景。それが不自然に余所余所しく感じるほど、良い香りの風が吹き抜けた。まるで夏終わり、初めての通学の時に嗅いだ金木犀のような、どことなく懐かしく切ない香り。それからまもなく体が宙に浮き、耳をつん裂く警笛が鳴り響いた。鈍い音と共に半身に鋭い痛みを感じたところで、記憶は途絶えている。

意図せずストレスが溜まっていて、向こうの世界に魅せられたのかも知れない。そう思うのは簡単だ。

しかし冷静に考えてみると、二十代も後半、貯金も未来もまぁまぁある俺に死ぬ動機など到底見つからない。

きっと誰かに押されたのだ。

――誰かに。

そう思うと、背中を押されたような感覚が、あるような、無いような。

いや、ここは俺の勝手な想像だろう。


「……おーーーーい」

酷く頭を打ったみたいだ。意識が霞む。なんとなく声が聞こえるが、返事を返す余裕も無い。なけなしの呻き声を上げて、応答する意思があることを伝える。

「あら、意識はあるのか。救命士を呼ぶまでも無さそうだね」

万力で挟まれたかのように、ズキズキと頭が痛む。呼ぶまでも無いって言ったか?自力で何とか出来る範囲には思えないが……。可能なら、救急車を呼んで貰いたい所だ。

「すぐ楽になるからね〜〜〜」

――どっちの意味だ?!

「……ま……て」

「なに?待てって?待たないよ!」

突然の出来事に頭が回らない。必死の抵抗も虚しく、額に温かい手が当てられる。このまま首を折られるか?!そんな焦りを他所に、一瞬強くなった痛みが流れ落ちるように消えていった。

「どうなってるんだ……?」

霞んだ視界が徐々にクリアになるにつれ、状況も明らかになってきた。どうも俺はそこそこデカい道のど真ん中で倒れているらしい。俺を避けて通る雑踏や、道路に沿って走る鉄道の撓む音が、地面を通して聞こえてくる。

「なんで私が救命士でも無いのに回復できるのか……って質問かな?」

少し顔を上げると、端正な顔立ちの少女がこちらを覗き込んでいた。それにしても……まるでドイツの民族衣装のような、風変わりな服だ。片側を編み上げて耳に掛けたショートボブが、見慣れない服によく似合っている。

「ふふーーん。それはね、私が偉大な魔法使いだから……じゃなくて。先週大学で救急救命の授業を取ったからだよ」

彼女は自慢げに微笑んで立ち上がると、手を差し伸べる。感謝の言葉を述べて手を取ると、薄々感じていた違和感が一気に目に飛び込んで来た。

「何だ……ここは」

道路脇に所狭しと並んだ配管に、見慣れない服装の人々。天に聳える建物たちは所々湯気を吐き出し、ガスの灯りが道を照らしている。

「さっきから質問ばっかりだねぇ」

少女は呆れたように俺を見上げると、やれやれと首を振る。

「汽車で田舎から来たのかな。そんで興奮して乗り出して落ちちゃった?」

いかにも当たり前そうな様子だ。まるで、この世界は昔からそうだったかのような。その態度は、不覚にも俺を一瞬にして悟らせた。

ここは、俺の知っている世界ではない。

昔よく読んだ厨二病系ラノベでよく見た、異世界転生ってやつだ。

……しかし、中学生の頃なら受け入れられたかもしれないファンタジーが、大人になるとこうも易々と受け入れ難くなるとは。すっきりとした気持ちで新天地を迎えられず、つい矛盾を探してしまう。

アニメやゲームを追い切れなくなったのも全てこの現実主義のせいだ。いつの間にか休日の友が酒と惰眠しか無くなっていた事を思い出し、少し切なくなる。

「悪い、頭を打って混乱しているみたいだ。何故ここにいるのか良く思い出せないな」

「えーーー!私の治療は完璧な筈だけどな!!」

「すまない……」

取り敢えずその場しのぎの言い訳をする。転職しても地方に飛ばされても、その適応力でしたたかに生きてはきた。きっと異世界でも、対人スキルは生かせるだろう。こんな時に必要なのはまず怪しまれない事であるのは間違いない。全てを打ち明けるよりは、正しい判断だ。

「何で謝るのさ。とにかく、あれでダメなら先生に診てもらうしかないよ」

少女はおもむろに俺の手を取ると、ずんずんと歩き出す。しかし不思議だ。見たことのない世界の筈なのに、何となく懐かしさを感じるような。

「先生って?」

「私の大学の先生。育ての親でもあるから、きっと見てくれるよ」

栗色の髪を風になびかせ、迷いなく進む少女。その風に混じる硫黄の香りに、懐かしさの答えを見出した。

「ここ、温泉街に似てるな」

「えーっ、東統府が〜?似てないよ!」

「東統府って言うのか、ここ」

「そこまで分かんないんじゃ重症だね!この国最大の都市だよ!!」

取り敢えず、温泉街は通じるらしい。カルチャーショックは少ないに越したことが無いから、少し安心する。そんな落ち着きも束の間、色とりどりのランプを売る店や古書店、薬屋と思しき未知の店を横切り、再び不安がよぎる。

しかし……どうしたものか。ここは知らない世界の訳で、今持っている通貨が使えないのは明白だ。いつまでもこの子に頼るわけにもいかないから、ここで仕事を探す必要がある。ただ、なにかしらの情報を得るにはこの子に聞くのが手っ取り早いか……

「静かに!」

急に彼女が足を止めた。周りにいる数人も、同じように足を止めている。風が吹き込んだかと思うと、一気に空気が冷たくなった。

「今騎士を呼ぶからね」

彼女は胸元を探ると、首にかけていた小瓶を取り出し、握って高く掲げた。するとその手から光の筋が出て、空に向かって高く伸びていく。不思議な事に、群衆の中でも同じような事をしている人が散見された。

「……なにが起きたんだ?」

「魔獣だよ。ほら、植え込みの影」

彼女が指さした、その刹那。

植え込みの影が素早く動いた。手を掲げた通行人の一人が高く撥ね上げられ、鈍い音を立てて地面に落ちる。

――何だ、何が起きた?

鋭い絶叫。集っていた人々は散り散りになり、場は騒然とし出した。理解する暇もなく、影は伸びて人型になる。

全ての光を通さないほど、真っ黒の体。

あまりの恐ろしさに、冷や汗が止まらない。

「肩に狼の頭。ムリエルの魔獣だ」

肩の獣の顔が、ぐりぐりと辺りを見回す。こっちを見るな。こっちを見るな。心の中で叫ぶ。

が、獣はそんな願いもお構いなしに、少女に目を止める。

「危ない!!」

少女を突き飛ばす。背中に鋭い痛みが走ると共に、空に投げ出される。壁に激突すると、腰が鈍い音を立てた。

「大丈夫?!」

少女が小声で叫ぶ。身体中が痛い。痛い。息を吐き捨てると、混じった液体が手を赤く染めた。

少女を見ると口に指を当てている。静かにしろ、という事らしい。魔獣は邪魔されたのを大分怒っている様子で、ゆっくりと少女に歩み寄っている。

マズい。これでは少女が俺を助けたばかりに、死んでしまうことに……!

「何か投げて……こっちに気を……」

俺はどうせこの世界の人間ではない。もしかしたら、死ねば元の世界に戻れる可能性だってある。それが詭弁でも、ここで俺を助けた心優しい少女が、死ぬ理由にはならない。

「クソッ!」

綺麗に舗装された道は小石一つない。何か。何か無いか。ポケットに膨らみを見つけ、手を探り入れる。硬いものだ。これを投げれば。指を伸ばす。もう少し、もう少しで……

『……魂を、寄越せ…』

心臓が跳ねる。まるで両耳の耳元で囁いたような甘い声が、ポケットの中身に触れる何かから指を伝って聞こえてくる。

『……お前の命を私に預けろ……』

「何の事だ畜生!」

ポケットの中身を引っ掴む。小瓶だ。少女の物とは比べ物にならない程黒く、禍々しく、宝石のように煌めく小瓶。価値のありそうな物だが、今はそれどころでは無い。

「こっち向きやがれッ!!」

瓶を投げようと振りかぶる。砕けた腰が鋭く痛む。咄嗟に瓶を持った手で腰を庇うと、瓶が激しく熱を帯び始めた。

「何だ?!」

「静かにって!もう!」

騒いだからか気を逸らすことには成功したようだ。魔獣と呼ばれたそれは腹立たしそうに、こっちにズカズカ歩いてくる。

『それがお前の価値観か……良いだろう』

瓶は激しく熱を帯びながら、黒い煙を吐き出した。立ち込める黒煙に、辺りにいる人も息を飲んでこちらを見ている。

『与えます。この身体、この運命』

瓶が唸る。黒い煙が黒い炎となり、俺の体に纏わりつく。遮る視界が晴れた時、瓶は静かに低い声で囁いた。

『バイザーを下げろ。お前は今日から、騎士だ』

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