最期の扉
@pola199006
最期の扉
長い廊下の突き当たりに一つの扉がある。そしてそこに伸びる廊下の両面にも、規則正しく扉が無数に並んでいた。初めは全ての扉は開いていた。しかし段々と僕の意識がはっきりするにつれ、僕の手前の扉から順々にそれらは閉まりだしていた。どこかの扉に入らねばならない、漠然と僕がそう思うようになると、僕はゆっくりと歩き始めた。既に間近にある扉は閉ざされていた。歩けども歩けども扉には間に合わなかった。閉ざされた扉のそばを通るたび、僕はある一つの事柄に気が付いた。突き当たりの扉だけはいつまでたっても閉ざされる気配がない。僕の意識はやがて閉ざされゆく両側の扉より最後の扉に向くようになった。相変わらずゆっくりとした足取りではあるが、僕は最後の扉に向かって歩みを続けていた。
僕は最後の段ボールにガムテープで封をした。色々と処分したものもあったが、それでも捨てきれなかった本や彼女との間を象徴するちょっとした小物などを合わせると、段ボールが10箱くらいにはなっている。それらはリビングの端に整然と積まれており、不用品が整理された部屋は少しだけガランとしていた。僕の手元には一つのボストンバッグだけが残されていた。最近のネット通販というのは便利なもので、注文したものの大抵は翌日には届く。僕の現在の手荷物の殆どは昨日か一昨日に届いたもので、これを僕の同居人である彼女が見た事はない。ボストンバッグの中には小さな折りたたみ式の椅子、太さが丁度よく手触りがサラサラしたロープ、鋭利な包丁、簡易的な遺書などが入っていた。簡易的な遺書には僕の死は自殺であり事件性はない事、また、ショッキングな場面に立ち会ってしまった第一発見者達への謝罪、医師へのこれまでのお礼と謝罪などが簡潔に書かれていた。
もうそろそろ出発してもいい時刻だと思いながら部屋を眺めていると、彼女のものが整理されてある棚にアルバムを見出した。僕は自分の写っている写真が嫌いだったから、アルバムは彼女の管理するものとなった。僕は荷物を整理する時にアルバムも処分してしまおうかとも思ったが、アルバムは殆ど彼女のものなので勝手に処分するのはやめておいた。珍しく手がアルバムの方に伸び、気がつけばリビングの椅子に腰掛けアルバムをペラペラと捲っていた。
彼女、吉田愛との出会いは三年前の事になる。新入社員を歓迎する飲み会の席で僕らは近くの席に座っていた。段々と場の空気が温まり、各々が勝手にそれぞれ話し出すと、彼女だけが余り人と話していない事に気がついた。彼女に話しかける人がいない訳ではなかったし、彼女が全くの無愛想だという訳でもなかったのだが、彼女は妙に生真面目なのか、冗談にも塾考して返答し、挙げ句の果てには相手を質問攻めにして驚かせてしまったりしていたのだ。それで徐々に彼女に話しかける人はいなくなっていったのだった。僕も飲みの席は嫌いではないが、騒がしい馬鹿話の輪に入る気にもならなかったので、一つ彼女に話しかけてみる事にした。
「飲み会の席は苦手ですか?」
「いえ、そんな事はありません。お酒も会話も基本的に嫌いではありませんから。どうしてですか?」
「いや、あんまり人と話してないし、そこまでお酒も進んでるように見えませんからね。」
「人とは多少話しましたよ。それと私、ビールはそこまで好きではないんです。お酒はちびちび飲むのが好きでして。」
「そうですか。何か面白い話は聞けましたか?」
「面白い話? そうですね、さっき話しかけてきた方が女性らしい口調ではないと仰ったので、女性らしい口調とは何かについて考えておりました。」
僕は会社でやっていく上でのちょっとしたヒントの様なものが得られたかについて聞こうと思っていたのだが、彼女は自身の興味関心に忠実らしい。とても好感が持てる。それから僕らは女性らしい口調とは何か、女性らしさとは何か、女性は女性らしくあるべきか、そもそも人間に何々すべきという権利を持つものが存在するのかなどについて意見を交わし、概ねの合意に達した。
「久しぶりに楽しい会話ができました。山城さんも変わり者なんですね。」
「も、ってことは君にも変わり者の自覚があるんですか?」
「ええ、飲み会の席で相手を質問攻めにすれば浮いてしまう事くらい分かっている積りです。」
そうなんだと言って僕は苦笑した。彼女との会話のおかげで、普通の飲み会では得られない満足感を得た僕はその日は上機嫌で帰ることができた。
彼女の部署は僕のそれとは違ったが、社内のちょっとしたベンチだったり、昼食時にたまたま近くにいたりすると一緒になって会話を重ねて行った。いつの間にか連絡先を交換し、気づくと休みの日に会ってまたあの「実りある議論」をする様になっていた。
出会ってから凡そ一年経ったある日のこと、彼女は何ということもなく切り出した。
「山城さん、私たちお付き合いしませんか? せっかくなら同棲もしましょう。」
「ずいぶん急な話だね。どうしたの? そりゃあ、一番仲がいい女性は君だけどさ。」
「私ずっと理解者が欲しかったんです。昔は孤独でも構わないと考えていましたけど、孤独に耐える力が薄れているのを感じるんです。」
そう言う彼女はどこか遠い目をしている様だった。
「それにこれまで見ていて感じましたけど、山城さんも結構、孤独な方ですよね。それに孤独に飽きている。私たちぴったりじゃないですか。あなたは私を多少なりとも理解できるし、私もあなたを多少なりとも理解できる。お互いの孤独を埋めるのに最適じゃないですか?」
彼女の言う通り僕は孤独にうんざりしていた。年々強まる空虚感に対抗するには、孤独を埋めるしかないのではないかと実際考えていたのだ。
「君が結構、突飛な事を言うのは知っていたけど。まさかここまでとはね。しかし君の言う事にも一理ある。それでは一つ、宜しくお願いします。」
こうして僕たちの恋人としての関係が始まった。普通のカップルの様に色んな所に行ったが、いつも場の中心になるのはあの「実りある議論」だった。
彼女は楽しそうだった。ある時、海に落ちる夕日を見ようと海岸沿いにドライブしに行ったことがあった。初めは夕日を見ながらレイリー散乱—-空が青く、夕焼けが赤い理由の物理現象—-の話などをしていたのだが、夕日が海にまさに沈まんとする時、彼女は黙った。そして彼女は一枚だけ写真を撮ると、再び黙って日が沈みきるまでずっとそれを眺めていた。
「夕日がこれほどまでに綺麗だとは思いませんでした。」
「そうかい。」
「ええ、私、景色でこんなに感動した事は今までありませんでした。」
それ以来彼女は僕と一緒に景色の良い所に行っては写真を撮ると言う習慣ができた。写真は撮るのだが撮った後はしばらく黙ってその景色をじっくりと味わうのであった。そして必ず僕に「こんなに美しいものがあったなんて知らなかった。」と言う様な事を言うのであった。彼女はその撮った写真のアルバムをよく見ていた。僕は話の流れで一度見せて貰った事しかなかったけど。人の心を勝手に推測するのは嫌いなのだが、彼女は僕といて幸せである様にさえ見えた。
そろそろ目的地に行った方が良い。思い出に浸りすぎたかもしれない。僕はアルバムを棚に戻すと、家を後にした。目的地は歩いて二十分くらいの所にある寂れた神社だ。参拝客はおろか、神主というか神社の管理人というかそう言う人さえ今まで見たことがなかった。また、境内の一角には外からも中からも見えづらい死角になっている所があって、なおかつ都合の良い事に、そこには一本の枝振りの良い立派な木が立っているのであった。首を吊るにはうってつけの場所であった。神社に直行しても良かったのだが、そう言う気分になれなかった。まだ迷いがあるのだろうか。幸い、愛が大学時代の友人との旅行から帰ってくるまでにはまだ時間があるはずだ。彼女の手の届かないところで自殺しなくては彼女に自責の念を与えてしまうかもしれない。だから時間には余裕を持たせた積りだ。そこで僕は家と神社の間にある喫茶店に行く事にした。そこは彼女と「実りある議論」をよくしていた場所だ。最後にそこでコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせるのも悪くないかもしれない。
喫茶店に入りいつもの席に座る。すると隣の席からすっと人が立ち上がり僕の目の前に座った。愛であった。僕は多少混乱しつつも平然を装った。
「どうしてここに? 旅行から帰るのはもう少し後のはずだよね?」
「早めに切り上げたんです。」
そして立て続けに言った。
「そのカバンを見せてください。」
「大したものは入ってないんだけど、ちょっと見せたくないかな。」
「大したものが入っていないなら見せられますよね。」
「ここでカバンを開けるのは憚られるよ。」
「じゃあ、中に何が入ってるか教えてください。」
白を切れる様子じゃない。僕は観念した。
「ロープと折りたたみ椅子、それから… 包丁。」
「やっぱり。まあ、包丁は意外でしたが。」
やっぱり? 彼女はこの事を予見していた?
「私、変な所で感がいいんです。旅行を計画した段階からなんとなく、天寧君が何か変な事を考えてるんじゃないかって予感はあったんです。いえ、もっと言えば変な事じゃなくて、失踪とか自殺とか、そんな事を考えているんじゃないかって予感がしてたんです。」
確かに彼女は勘のいい女性だった。何故かこちらのしたい事を先回りしてお膳立てしてくれるような事は何回もあった。だが、僕も自殺なんて悟られずに実行できるよう気をつけている積りだった。彼女は元居た席からコーヒーを持ってきて、改めて僕の前に座り直した。
「さあ、どこからお話ししましょうか? 天寧君?」
彼女はいやに落ち着いて居た。しかし、この落ち着き方は彼女が何かに対して不服な時のそれだ。僕はどうすればいいだろう。彼女は僕の言葉を待っている。しかし、僕は言葉を持っていない。
「天寧君? 黙られると困っちゃうんだけどなあ。何か言う事があるんじゃないんですか?」
「ごめん。」
「ううん。謝罪を求めてる訳じゃないですよ。そりゃあ、私を置いて死のうとするなんてとってもショックだけど。でも、理由があるんですよね? 私はそれが知りたいんです。」
「理由。理由か… 分からない。」
「分からない? 分からないのに死のうとしたのですか?」
「死ぬ理由はある。でも、それは理由と呼ぶに値するものなのか、君を納得させるに値するものなのか、それが分からない。」
「ならとにかく話して下さい。私はあなたを否定しません。それくらいの信頼関係は構築してきたと思っていいですよね?」
そうだ。確かに彼女は人の話を遮らない。最後まで聞いた上で意見を言ってくれる。そう言う人だ。でも、僕は僕が死ななくてはならない理由を理路整然と話す自信がない。彼女はため息をついた。
「私知ってますよ。君が時々、虚ろな表情をして何かを考えていた事。それは何か、君の病的な根幹に関わる事だって事。それがあなたを苦しめていた事。それを私に話してくれませんか?」
僕の病的根幹か。僕は公式にはASDと双極性障害を患っている。それは彼女も知っている。だがそれらとは別に、僕には何か僕を苦しめる何かがあった。それは言語化されない何かであった。確かに存在するのだが、言葉による分析を受け付けないのだ。
「とても言葉にするのは難しいのだけど、それは空虚感かな。」
「空虚感? いつも虚しく感じていると?」
「そうだね。いつも僕は虚しい。」
「でもそれなりに充実した仕事をしていたのではないですか。もちろん、君が元々は哲学がしたくて、でもできなくて今の仕事に就いた事は知っています。でも今の仕事だって他の人が知らないような専門知識で社会問題に分析を加えるような、意義深い事をしてるじゃないですか。それが虚しいんですか?」
「仕事の社会的意義は認めるよ。でも僕にとっては虚しいんだ。まず…」
「それは君にしかできない訳ではない?」
「そう。この仕事は言ってしまえば誰にでもできる。相応の知的訓練さえ受ければ誰だって勤めることができる。だから僕がやらなければならない本質的な理由がない。でもそれは主要な理由ではない。」
「じゃあ、何が…」
「退屈かな。仕事自体の退屈さの話じゃないよ。まあ、日々の代わり映えのしない作業にうんざりすることもあるがそれは置いておいて。僕の仕事が社会問題を変えるかい? 僕の仕事は名目上は、社会問題を分析し、その提言を公的機関に提出する事で、社会の改善に寄与する事になっている。しかし実態はどうだろう? 僕らの仕事で何か良くなっただろうか? 僕らは仕事上、社会の中でも恵まれない人たちの証言に触れてきた、その苦しみに触れてきた。だが僕らがまとめたレポートには彼らの血は流れていない。彼らの叫びはレポートの提出先には届かない。僕らがしていることときたら、苦しい人々の叫びを集めて、それを役人たちが読みやすいように整然とした言葉で纏め上げる事だけだ。これが虚しくなくて、退屈でなくてなんであろうか。僕らは悩める人々と役人との間のクッションに過ぎない。」
「でもそれは仕方のない事ではないかしら。社会運営に携わる人に適切な資料を用意することも立派な仕事でしょ?」
「そうだよ。僕の虚しさは単に仕事の性質だけからくるものではない。君は僕が貧困家庭から障害を抱えて大学院まで進んだ事を知っているね。僕にとっては、社会の下層で悩み苦しめる人たちというのは決して他人ではない。その苦しみは自分の事の様に伝わってくるんだ。なのに僕は、彼らの声を砂糖玉にくるんでお上に提出して、それで平均的な生活ができるくらいの給料を得ている。これは一種の裏切りなのではないだろうか。こんな事をしていていいのだろうか。僕だって運命の歯車が一つでも狂えば社会の下層で悶え苦しんでいた一人だったかもしれないのに、僕はのうのうと彼らの叫びを加工してお役人に読みやすい形に整える仕事をしている。この無力さが虚しくなくてなんなんだろう。」
「ええと、冷たい返答をしますね。君は自分を過大評価しすぎよ。出自がどうであれ、一人の人間にできることなんて限られてる。君一人で君の「同胞」を救うなんてできるはずがない。君はできもしない事を夢想して挫折して空虚感を抱いている。違う?」
「そうかもしれない。」
「なら話は簡単だわ。君は目を覚まして、過ぎた願望を捨ててこれまで通り生きるの。自身に出来る事を自覚して、その範囲で社会の役に立てばそれでいいじゃない。その何がいけないの。それだって立派すぎるくらい立派なのに。」
「それじゃあ足りないんだ。」
「なぜ。英雄にでもなりたいの?」
「違う! そんな言葉でよりによって君が茶化さないで! そんなちっぽけな意義では、僕の苦しさに釣り合わないんだ。」
「君の苦しみ?」
「そう、僕の苦しみだ。」
そう言って僕は俯いた。僕の苦しみ。これもまた、言語化するのが難しいものの一つであった。愛が言った。
「今日は長丁場になりそうですね。いくらでも話を聞きますから。ちょっとケーキとコーヒーのおかわりでも頼んで気分をリフレッシュしませんか?」
僕は頷き、いつも頼んでいるセットを頼んだ。セットが来るまでの間、僕は俯き続け、彼女は何か考えている様だった。
「相変わらずここのチーズケーキは分かっていますよね。下手に洒落っ気のあるものよりこうしたシンプルなものの方が私は好きです。」
セットが来ると彼女は早速ケーキに手をつけた。僕もとりあえずガトーショコラを口に運ぶ。
「どうですか。何気無いいつもの美味しさが身に沁みたりしませんか?」
「甘くて美味しいよ。コーヒーにもよく合う。だが率直に言うと、これは幸せでもなんでもない。」
「さっきの話からするに、日常の些細な喜びは君の苦しみを帳消しにするだけの幸せではあり得ないと言いたいのですか?」
「そうだね。甘いとか美味しいとかそう言う感覚は理解できる。でも幸せは感じない。もう何年も感じた事が… いや、生まれてこのかた幸せなんて感じたことはない。」
「日常の些細な幸せを否定するか… じゃあ君は幸せに関して贅沢なんですかね。君の言う幸せの定義は?」
「幸せの定義… いくつかあるな。苦しみが一切存在しないこともそうだし、或いは、生まれて来る事が生まれて来ない事よりより良い状態の事を幸せというのかな。」
「やっぱりある種の贅沢じゃないですか。苦しみが一切ないだとかなんだとか。」
「本当に贅沢かな? 君は一切れのチーズケーキを幸福と呼んだね。じゃあ、毎日それが約束されているからと言って人生のあらゆる苦痛を我慢できるかい。それが人生の苦痛の代償になるかい?」
「それはまあ、ならないでしょうが。」
「そうなんだよ! ありとあらゆる肉体的な快楽、即ち、美味しい、楽しい、気持ちいいと言ったものは人生の苦痛の埋め合わせにはならない。だから、僕の言った、幸福とは苦痛のない事であると言う定義は決して贅沢などではない。肉体的快楽を幸せだと言っている人々は、自分自身を欺いているに過ぎない。パン、チーズ、ステーキ、ワイン、ブランド服、高級車、豪邸などなど、いくら並べたところでそれらは人生の苦痛を埋め合わせる代償たり得ないだろう。」
「分かりました。確かに、そう言った物質的なものを並べるだけでは幸せとは言えないかもしれません。しかし、私と一緒に食べるケーキはどうですか? さっき毎日チーズケーキで不幸が乗り越えられるかって聞かれた時、そのケーキをあなたと一緒に楽しめるなら私は不幸を乗り越えられる気がしました。つまり、自分で言うのも恥ずかしいですが、愛する事のできる人と一緒に何かを楽しむ事は苦痛の埋め合わせになりませんか?」
これは苦しい質問であった。それはつまり、あなたは私があなたを愛する様に私を愛していますかと言うことに他ならないではないか。僕は彼女を愛している…つもりだ。だがそれも愛の定義による。僕と彼女の間では愛の定義が違うのではなかろうか。それでも僕は彼女に愛していないなどと言いたくはないのだが。
「確かに、君と一緒に何かをする時、その喜びは何倍にも膨れ上がる。それは事実だ。仮令美味しくないレストランだって君と行けばいい思い出になる。それは認める。だがそれは人生の意義ではない。」
「人生の意義って何?」
「つまり生まれて来ると言う苦痛の代償になるものさ。意義のある人生があって初めて、愛する人との一時は意味を持つ。愛や友情でさえも、人生の意義ではあり得ない。」
「ならあなたにとっての意義はなんなの?」
「崇高なもの。初めは哲学がそれだと思っていた。でもその道は閉ざされた。その他の学問や芸術にも価値はあるが、僕はそれらに対して消費者としてしか相対する事ができない。結局僕は、価値あるものに奉仕する事ができない。僕は無力だ。」
「ならあなたにとって大半の人々は無価値なのかしら。」
少し冷たく彼女は言った。
「それは違う。価値は主観的なものだ。愛情を糧に乗り切っていく人生だって立派なものだろう。」
「だったら…」
「だがそれは僕にはできない。さっき言った様に、僕にとって愛情はそれの基礎になる価値があって初めて成立するからだ。しかし僕は無力だ。僕が価値があると思うもの、正確には、思っていたものに奉仕する力はない。しかしそれに気付いた時、別のある事にも気が付いたんだ。それはね、すべてのものは無価値だと言うことさ。学問や芸術さえも無価値なんだ。それらも永遠の時の中で所詮朽ち果てる。有限の生しか持たない人類には世界の真理など到達不可能だ。いや、いや、いや、そんな大げさな話は必要ないかもしれない。たとえ何を知った所で、何を身につけた所で、何を表現した所で、そんなものは無意味なのさ。どんな才気も人を孤独にする。そして孤独な才人が何をして何ができたとて、それがなんになる。誰の記憶にも留まらずただ消えていくのみだ。すべての努力は失敗に終わり、すべての期待は失望に変わる。」
「つまり君はもう、生きるに値する全ての理由を失ったと言いたいの?」
「そうだね。」
彼女の顔が曇った。
「私のアルバムって君、何回くらい見たことあったっけ? あれは私たちの幸せの記録だからとっても大事にしてるんです。でも君はあんまり見てくれなかったよね。それは何故?」
「ある思想家がね『愛する女性とともに美しいものを享受したためしのない男性は、そう言うものが与えうる魔術的な力を心ゆくまで味わった事がないのだ』と言うことを言っていたんだけどね、僕も君と絶景を見た時、その魔術的な力を味わえるんじゃないかと期待していたんだよ。けれども、実際はそれほどまでの感動は襲ってこなかった。僕の感受性があまりにも鈍いためだと思うが一方で、このことが僕が君を愛していない証拠になってしまう気がして怖かったんだ。僕は君を心の底から愛している積りなのに。」
「意地悪に聞こえるかもしれないけど、天寧君はやっぱり私の事を愛していないんじゃないかしら? だから、文字通り死ぬほど追い詰められた君の力になってあげられないのではないかしら?」
珍しく彼女目には涙がうっすらとだが浮かんでいた。
「それは違うよ。僕は愛が生きる理由にならないとは言ったが、君を愛してないなんて一言も言ってない。僕がもし君を失ったら、誰に対して心を開いてこんな話ができるだろう。君以外の誰にだってこんなに心を開ける事はない。君を愛さないとしたら僕は地球上の誰も愛さない事になる。ただ、そんな愛があってもなお、生きて行けない程に僕は疲れたんだよ。ごめんよ。」
「そうなのね、君は私を愛していて、それでももうこれ以上生きる事に耐えられないと言うのが結論なのね。」
「そう。だから、このコーヒーセットが片付いたら僕たちはさよならだ。残される君が心配だけど、その辺の事は家に置いてある遺書にまとめて書いたから読んでみて欲しい。」
そしてケーキ皿とカップを片付けてもらう。
「じゃあ、さよなら。お元気で。」
長い沈黙の後、席を立とうとした。
「待って、まだ行かないで。最後に話を聞いて。」
「僕の考えが変わらない事はわかるでしょ。」
「わかるよ。だからこそ聞いて欲しいの。」
ひとまず座り直した。
「天寧君が生きて行けないくらい深く傷ついて、そしてそれを癒す術がない事もよく伝わったわ。そして同時に、それでも私の事を愛していると言うのも信じます。だからこそ、最後のお願いを聞いて下さい。」
「今の僕に聞ける事なら。」
「私を君の死に付き添わせて下さい。もちろん、心中するんじゃないよ。私は君みたいに絶望してないし生きるのもそんなに悪くないと思ってる。そりゃあ、君を失った後の幾らかは悲しみで押しつぶされるだろうけど、他の人の様に死別だって乗り越えられると思う。そうじゃなくて、君が人目のつかない所で、たった一人で後ろめたい人がやる様にこっそりとこの世を去ると言うのが許せないの。私が君の自死を認めた以上、今日の議論はいつもの「実りある議論」を楽しんだだけ。君はいつもと同じ様に手を繋いで私と喫茶店を出るの。ただ、今日は君が行く所があるから少しだけ寄り道するの。寄り道の間も他愛のない議論をしようね。そして目的地に着いたら君は事を成す。最後まで私が手をつないで見届けるから、君は包丁で念を入れる必要もないし、孤独でもない。君の最期まで私が一緒にいてあげる。だから、私を君の死に付き添わせて下さい。」
僕は驚愕した。確かに、安楽死が合法化された国では死の直前にさよならパーティーをやって死を見送ると言う事もあると聞くが、まさか彼女がそこまでの事をしてくれるなんて。お膳立てされた状況ではなく、自殺がタブーなこの国で、彼女自身も辛かろうに、それでもこんな提案をしてくれるなんて。そんな彼女を置いて行く事に惜しい気持ちも生まれかけたが、結論は変わらなかった。
「ありがとう。本当にありがとう。それじゃあ最期の旅路に付き合って下さい。」
お会計を済まし、二人で喫茶店を出た。道中の「実りある議論」はこの国で生きる事についてだったが、短い時間では到底合意に至る事はできなかった。
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