第9話「とある母の話」
◇◇◇
生後1歳未満の乳児にハチミツを与えてはならない。
これは出産する際に病院で説明される内容だ。
私が子供を産んだ当時も病院で説明を受けた。
他にも育児雑誌や乳児の予防接種時に待合室で一緒になったママさんとの雑談などでも話題に上がった。
子供がまだ1歳に満たない頃、夜泣きに、授乳にと疲れ果てていた私に、同居していた義母が大きな瓶を見せてきた。
「子供は甘いものが好きなんだから、ハチミツをミルクに混ぜて飲ませなさい。ハチミツは栄養が高いし子供も喜んで飲むから。夜泣きが治らないのは貴方の家系の問題とお腹が空いているからよ。貴方の母乳、まずいんじゃないの?私が母乳をあげてやりたいくらいだわ。子供はお腹が空いていれば泣き止まないんだから少しは工夫するとか、考えられないの?」
そう言って、埃の被った箱から、金色の液体の入った大瓶を取り出し、それを差し出された。
私は受け取らず、「1歳未満はハチミツはやらないでと病院で説明された」と感情的にならぬように淡々と返答した。
他にも言いたいことはあったが、話をしたくない人間と押し問答を繰り広げる体力は、その時の私には無かった。抱っこ紐から布団へ下ろすとまた泣き出す為、私はほとんど子供を布団に下ろせない状態が続いていた。何せ部屋で子供が鳴き声を上げようものならば、「専業主婦の癖に子供を泣かせて放置した」と義父母、夫に責め立てられるからだ。そして授乳を促され、義父が間近から離れない状態になるのだ。本当に気持ちが悪かった。
私は病院で説明されたことを告げただけだったし、テレビのニュースや新聞でも時々取り上げられている話だった。
しかし義母は、金切り声で怒り出した。
「そんな話はね、聞いたことが無いの!嘘をついても直ぐに分かるからね!私は毎日ちゃんと新聞を読んでるんだから、アンタよりもなんでも知ってるの!私の子供はアンタの子供みたいに病院にしょっちゅう行ったりしなかったしね。一回も病気にさせたことは無いし病院にも一回も連れて行った憶えは無いんだからね!」
本当に一度も病気になったことが無いのだろうか。
全て自然治癒の能力か何かで完治させたのだろうか。
私は子供の夜泣きにかかりきりになると、夫が「腹が痛い」「腰が痛い」「肺が痛い」と言い出してくるのが厄介でたまらないのだが。
それから冬に遊び歩いてインフルエンザに罹患した時も最悪だった。
予防接種を申し込んだが、順番が来た瞬間に病院からトンズラしたのだ。周囲の人も驚きの行動である。その後に罹患し、次には薬が苦くて飲めないからアイスクリームに混ぜて出してと来た。
確かにその時も「注射なんて一度もしたことがない」「医者から出された薬なんて一度も飲んだことが無い」と言っていたが。
大人になってから病気にかかる身体になったということなのだろうか。
いや、大人になっても義母の子供であることには変わり無いのではなかろうか。
しかし、「注射=痛い」「医者の薬=苦い」の図式はどこから入手したのだろうか。
実際に体験しなければ分からないと思うのだが。
私はもう考えるの止めた。
多分無表情で立ち尽くしていたと思う。
義母は怒って巨体を揺らして廊下に出ると、電話を掛け、私に聞かせたいのだろう、大声で「嫁に虐められている」と誰かと話していた。
義母を虐める嫁のレッテルを貼られても、とりあえずハチミツを子供の体内へ入れることは阻止できたのだ。気にもしてない表情で私は玄関から外へ散歩へ出かけた。
だが、実際気にしていない訳が無い。
疲れもあり、悔しくて悲しくて、晴れた外路を眠った子供を抱っこし、歩きながら泣いた。
◇◇
その数日、驚くべきことが起こった。
いつもの如く、子供を背負い洗い物をしていた私に、義母が大声で話しかけてきた。
「アンタ!まさか子供にハチミツなんか飲ませてないだろうね!?1歳過ぎないと、飲むと死ぬかもしれないんだよ!?私みたいに新聞を読んだりニュースを見たりしてないから知らないでしょ!?私はちゃんと知ってるから、アンタに教えてあげてるんだよ!?」
いやいや数日前のあの埃を被った箱に入ったハチミツはどうした。
自分が手で持って来たことすら記憶に無いのか。
私はどう反応すれば良いのか分からず、呆然としていた。
義母は数日前の出来事など無かったかの様に、今度は乳児におけるハチミツの危険性について喚き始めた。その危険物を飲ませろと言ったのは自分なんだという記憶はごっそり削除されている様だった。
私はどうしてこの家を選んで嫁いでしまったのだろう。
しかし自分で決めたのだから責任は取るべきだ。
子供が保育園に通う歳になったら働こう。
子供が小学生になるまでお金を貯めよう。
そして子供とここから旅に出よう。
そうだ、こうして耐えて、私は子供と旅に出よう。
海賊王にはなれないが、貧乏で幸せな母親にはなれるかもしれないのだ。
◇終
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