第17話 四辻荘妖怪一行の温泉旅行
ある冬の夜、四辻荘の夜。101号室こと共有部屋の居間では酒呑童子の伊吹、土蜘蛛の八束、雪女の銀花がくつろいでいた。伊吹は3DSでゲームをして、八束と銀花は温かいお茶を飲んでいる。そんないつも通りの彼らの休日だ。
ふと、何かを思い出したかのように顔を上げ、八束が同じ空間にいる二人に声をかけた。
「伊吹が福引で当てた北海道旅行のこと、そろそろ話し合った方がいいんじゃないか?」
それを聞いた銀花は顔を上げて驚いた顔をした。
「そう言えば…!四辻荘のことでバタバタしていてすっかり忘れてました!」
彼らは数日前まで、住処である四辻荘を追い出される危機にあった。四辻荘を取り壊そうとしていた人物に交渉……という名の武力行使が成立し、今もこうして年季の入った建物で生活できているが、四辻荘取り壊しが彼らに伝えられる前に伊吹が手にした北海道旅行券をどうするかという話題は、住処を追われる危機の前に流れかかっていた。
「俺は冬休みだから問題ないがお前らはどうなんだ」
伊吹はゲーム機に目線を落としたまま言った。手元は依然細やかに動き続けている。
「年末年始は問題ないぜ!」
「私も大丈夫です!尾咲さんはどうでしょうか?L*NEで聞いてみますね」
それに対し八束と銀花は問題がないと答えた。銀花は今この場にいないもう1人の四辻荘の住人、九尾の狐の尾咲にL*NEを送った。通っている中学及び大学が年末年始休みになった伊吹と銀花、昨日に仕事納めを終えた八束と違い、大手グループ所属の中堅企業で働く尾咲は今日も今日とて夜遅くまで残業中だった。
30分後。銀花はスマートフォンの画面に目を落としながら声を落とした。
「……全然既読つきません…」
八束がその様子を見て声をかける。
「残業してるんじゃないか?年末進行に追われてるとか」
「大丈夫でしょうか……最近全然共有部屋に来ないので心配です」
不安そうな顔をした銀花に、ゲームを終えた伊吹が話しかけた。
「帰ってきた時に聞けばいいだろ、そろそろ寝る」
短く言った後、伊吹はそのまま共有部屋を出た。時刻は間もなく午後10時、現代の人間社会に飛ばされてからすっかり夜に寝て朝早く起きる生活に慣れた妖怪3人は、その言葉を最後に自分たちの部屋に戻った。
翌日の早朝。仕事を終えたらしい尾咲が四辻荘の103号室に入ろうとする。そこに、朝食を共有部屋で取ろうと出てきた銀花が鉢合わせた。
「………」
銀花は余程疲れているのか、顔は俯いたままで隣の部屋から出てきた銀花に気づかない。
「あ、尾咲さん!お疲れ様です、連絡無かったので心配しましたよ!」
銀花はそんな様子の尾咲に声をかけた。声をかけられた限界OLは、顔を上げて声の主を見る。
「あー、銀花……ちょっと仮眠とるから1時間後に起こして……あと」
「?」
心配そうに見つめてくる銀花に、尾咲はゆっくりと腕を上げ、手でグッドサインを作ってみせた。
「年末進行終わらせたから…私も北海道連れて行きなさい」
「…!はいっ!」
それを見た銀花は顔をほころばせて頷いた。
数日後、北海道は新千歳空港。
羽田空港発の飛行機から降りた4人の妖怪たちが、各々の荷物を受け取ってロビーに集まった。
「到着!室内だけど寒いな〜さすが北海道!」
現代に飛ばされる前から日本中を旅して回っていた八束は普段よりも高いテンションで辺りを見回している。
「あんた来たことあるの?」
4人の中で最も大きいスーツケースに腰掛けている尾咲は、手持ちの鞄からストールを取り出しながら尋ねる。
「いや、昔旅してた時は本州止まりだったから初めてだ!そういう尾咲は?」
「私も初めて来たわよ……で」
一見すると年の瀬を水入らずで過ごすために北上してきた美男美女カップルのように見えなくもない2人は、少し離れたところにいる残り2人を見つめる。八束は苦笑いで、尾咲は呆れ顔で。
2人の視線は、顔面蒼白で蹲り、ロビーの壁にもたれかかっている伊吹に向けられていた。
飛行機に乗った直後までは涼しい顔で窓の外を見つめていた彼だったが、離陸した途端離れていく地上を見て「おい、これ本当に落ちないか?この大人数を乗せているのに絶対に落ちないなんてことがあるのか?いやないよな?」と隣の席の八束に不安を吐露し始めた。しかし、話しかけられていた八束は移動中に眠っておくタイプであり、かつ寝付きが良いタイプだったため、伊吹の助けを求める声に全く気づかなかった。尾咲と銀花は通路を挟んだ席におり、尾咲は八束より先にアイマスクとマスクで外界を遮断し、銀花は機内モニターの操作に苦戦していた。誰にも助けを求められないと知った伊吹は、数時間初めての飛行機に対する不安と孤軍奮闘するしかなかった。飛行機酔いはその不安に起因するものだろう。他の3人が気絶寸前で虚ろな目をした伊吹に気づいたのは、着陸前アナウンスを聞いて着陸準備をしようとした時である。
隣でそんな伊吹を介抱しているのは、最初に彼の異常に気づいた銀花だった。機内サービスで映画を観終わった後、感想を尾咲に伝えようと横を見てしまったのが彼女の運の尽きだったのかもしれない。眠っている尾咲の更に奥、窓際の席で普段は絶対にしない真っ青な顔をした伊吹に気づいてしまった。普段は頼れる大人2人を起こすのも忍びないと思った銀花はすぐにCAを呼び、以降付きっきりで伊吹の面倒を見ている。
「…………」
「い、伊吹さん大丈夫ですか…?酔い止めのお薬とお水はコンビニで買ってきました、飲めたら飲んでくださいね……?」
「……すまない……」
伊吹は銀花から錠剤とペットボトルの水を受け取ったが、それらを口に含む様子はなく、項垂れ続けていた。
「何であいつ高所恐怖症でもないのに飛行機酔いしてる訳」
彼の回復を待たされている尾咲は溜息を吐きながら言った。基本的に世話焼きな彼女は(嫌いな相手故に嫌々ながらも)銀花にばかり介抱させる訳にいかないと手伝おうとしたのだが、「ここは私一人でも大丈夫ですので!」と力強く断られたため遠巻きに見つめることしかできないのだ。
「俺に聞かれても…あいつ俺と会う前からあまり遠出しないタイプだったらしいけど、ここまで乗り物がダメだったとは思わなかったよ。この後宿に行くのにバスに乗るんだけど大丈夫かな?」
「治ってもらわないとこっちが困るわよ、チェックインまで時間あったからそこら辺観光したいと思ってたのに…」
旧知の仲だった八束ですら知らなかった伊吹の意外な弱点が発覚した瞬間だった。
「観光か〜。せっかくの北海道だし、壱子も来れればよかったんだけどな。家族水入らずで過ごすのなら仕方ないか」
八束は未だ回復の見込みのない伊吹を尻目に、自分たちの住居の管理人である中学生の少女のことを思い出していた。四辻荘の存亡の危機に遭う前から、家の手伝いをしなければならないからと壱子は旅行券を住人の4人に譲っていた。その後四辻荘の取り壊しに関する問題が発生し、彼女の父親との親権問題も浮き彫りになり、旅行どころの話ではなくなってしまったのだろう。八束がL*NEで改めて誘った時も壱子はやんわりと断り、「皆さんには四辻荘のことでご迷惑をおかけしましたから、年末年始はどうかゆっくりと過ごしてください」と言葉を添えていた。
「あのクソ野郎が恥知らずにも実家に帰ってきたなら一切の容赦なく追い返しなさいって言っといたから大丈夫でしょ」
「だな、そこは俺も心配してない。むしろ壱子がこれ以上こっちに遠慮してこないよう、楽しんでるぜって伝えないとな!観光…は難しいとして、とりあえず北海道に上陸したってL*NEしよう!」
「グロッキーになってる伊吹の写真送り付けてやりましょう、どういう反応するか知りたいわ」
「絶対に後で伊吹に怒られるからやめとけ」
八束はスマートフォンを取り出して、四辻荘住人の共有グループに『北海道に上陸!伊吹が飛行機酔いで動けなくなってるけどそれ以外はみんな元気だぜ!』とメッセージを送った。すぐに既読が1つつき、『お疲れ様です』とパンダがお辞儀をしているスタンプが送られてきた。
ちょうどその時、銀花が自分のスーツケースに伊吹のスポーツバッグを乗せて戻ってきた。伊吹はその後ろを重い足取りでついてきている。
「お待たせしました。伊吹さん、だいぶ落ち着いたみたいです」
「旅館行きのバスを待たせているんだろう?ひとまず移動して休む。バスなら飛行機よりはマシだろうからな…」
伊吹の声はまだ本調子では無さそうだが、着陸直後よりは顔色が戻っていた。
「ありがとうな銀花。伊吹の荷物は俺が持つから、2人は先にバスに荷物積んでてくれ」
「分かったわ。銀花、行きましょう」
「は、はい…」
銀花は心配そうな顔のまま尾咲について行った。尾咲が真っ先に離れたのは、伊吹が八束に文句を言いたそうな目をしているのを察してのことだった。
女妖怪2人との距離が離れた後、伊吹は普段以上に不機嫌な目で八束を見上げた。手には壱子との個人チャットの画面が映ったスマートフォンを握っている。
「余計なことを言うな。さっきから管理人からのL*NEがうるさい」
壱子からは伊吹を心配するメッセージと、飛行機酔いに効く情報が載っているWebページのURLがいくつも送られていた。
「わりぃ…反応がスタンプだけかと思ったら、個別で送ってたんだな壱子のやつ」
「今は怒る気力すらないから行くぞ。荷物もよこせ、それくらい自分で持てる」
伊吹はスマートフォンを上着のポケットにしまい、八束に持ってもらっている自分の荷物を取り返そうとしたが、八束はやれやれと言いたげに彼の手を躱した。
「こんな時でも強がるのかよ…病人なんだから無理すんなって、お前の荷物軽いから平気だよ。バス停までそんなに離れてないしな」
「病人と言われる程重い症状では無い」と伊吹は言い返そうとしたが、言ったところで八束が荷物を返してくれないことを知っているので言葉を飲み込んだ。代わりに出たのはぶっきらぼうな彼なりの礼の言葉だった。
「…悪いな」
「楽しい話した方が気分も上がるって!俺、日本の最北端ってやつに行ってみたいんだよな〜、初日の出が綺麗に見えるスポットもいくつか調べたから、早く治して明日朝イチで行けるようにしような!」
「…昔お前にあちこち連れ回されていた頃を思い出す。俺は美味い酒が飲めるのならどこでもいい」
「その度に美味い酒が飲めれば〜ってお前が言うのもお決まりだったよな。酒を美味しく飲むためにもちゃんと体調治すんだぞ〜」
自分たちが死ぬ前のやり取りを思い出しながら、旧友2人は空港の外で待つ女性たちのもとへ向かった。
空港から小型バスを貸し切り、山道を40分ほど進んだ先に、彼らの泊まる旅館はあった。運転手は「来年3日の朝10時にお迎えに上がります、良いお年をお過ごし下さい」と事務的な挨拶を済ませ、都会道へと戻っていく。
荷物を旅館前に下ろした銀花は、目の前に広がる清廉とした佇まいの建築物に感動していた。
「わ、わぁ…!綺麗な旅館ですね!ここ全部私たちの貸切なんてすごい…!」
「時代が進むにつれて数が減ってるって聞いたけど、こんな奥地に残ってるものなのねぇ」
後に続いた尾咲も、スーツケースを転がしながら感心している。
「伊吹〜大丈夫か〜?もう着いたぞ〜?」
女妖怪たちが宿の外観に目を奪われる中、八束は乗り物酔いが再発した伊吹を背負っていた。自分の荷物は既に旅館前に降ろしてもらっている。移動中、雪一色で変わらない窓の外の景色に飽きた伊吹はバスの中でゲームを始めたのだが、下を向き続けて10分後には飛行機に乗っていた時の顔色に逆戻りしていた。
「……もう絶対に乗り物には乗らない…」
現代に飛ばされてから電車や乗用車に乗ったことがない伊吹だったが、すっかり乗り物全般に苦手意識を持ってしまった。
「乗ってる間ずっとゲームしてるから…って言いたいところだけど、ここまで来ると同情するわ…」
尾咲もソーシャルゲームの年末年始イベントを進めるためにスマートフォンをいじっていたが、気分が少しでも悪くなったら休み、回復したらまた進めるのを繰り返していたため、彼ほどのダメージは受けていない。
「えっと…とりあえず、旅館の方を待たせてしまっていますし、入りましょうか…」
帰る時はどうするつもりだろう、という呟きをぐっと堪えて、銀花は3人に声をかけた。
「そうだな、入ろう入ろう。―ごめんくださーい!ってあれ、こーいう旅館だとすぐ女将さんが出迎えてくれるんだが…」
八束は一旦伊吹を地面に下ろし、自身のボストンバッグを片手に、空いている方の手で引き戸を開いた。しかし、玄関には女将どころか、人の気配が全くしない。室内履き代わりのスリッパだけは、人数分整然と揃っている。
「誰もいませんね…」
初めて旅館に来た銀花は、きょろきょろと周りを見回しながら靴を履き替える。
スーツケースを受付らしいカウンターまで引っ張ってきた尾咲は、机上に置かれた2つの鍵と数冊の小冊子に目をやった。
「…あ、でもこれ、私たちの部屋の鍵よ?色々案内とかもついてる…システム的にはホテル寄りなんじゃない?無人受付はさすがにどうかと思うけど」
一番最後に入った伊吹は、カウンターから離れたソファーを見つけ、半ば倒れ込むような形で荷物と自身を投げ出している。
「どうでもいいが早く休ませろ…」
「待て待て伊吹〜、せっかく来たんだから早速温泉入るぞ!」
尾咲から男子部屋の鍵を受け取った八束は今にもその場で寝てしまいそうな伊吹を起こすために声をかける。
「一人で行けばいいだろ…」
行きの道中で体力と気力を大きく失った伊吹は力なく返したが、それを予想して八束は旅館のパンフレットらしい小冊子を手に取って読み始めた。
「お、ここの温泉熱燗の持ち込みOKみたいだぜ?しかも地酒」
「行く」
地酒という単語を聞いた伊吹は飛び起きて即答した。
「立ち直るの早…私は部屋に荷物置いてくる。その後は中庭の散歩でもしようかしら」
その変わりように驚きながら、尾咲は女子部屋を探しに客間に続く廊下へ進もうとした。銀花も自分のキャリーケースを持ってついて行く。
「あ、私も行きます!」
「おう!また後でなー!」
従業員が一人もいないという異常事態には誰も触れないまま、4人の妖怪たちは男女で二手に別れた。
伊吹と八束は荷物を部屋に置き、備え付けの浴衣と入浴道具を持って大浴場に来ていた。地酒の入った徳利は脱衣所の出入口近くで適温に湯煎されてあり、ぐい呑みも2人分揃っていた。八束は片方の手で徳利とぐい呑みの入った桶を抱え、もう片方の手で露天風呂への引き戸を開けた。
「おおー!広い露天風呂!景色もいいし、最高だな!」
伊吹はかけ湯で身体を洗い流し、近くの化粧台の前に座っている。
「早く身体洗って地酒を飲むぞ」
旅行に殆ど行かない伊吹でも、温泉でのマナーは心得ていた。外の景色を一通り堪能した八束は、一旦伊吹の隣の化粧台の前に腰掛けた。
「はいはい、って伊吹さらっと変装解けてるぞ?」
八束の指摘通り、伊吹は脱衣所で服を脱いだ頃から鬼の姿に戻っていた。
「人間の姿で飲むのは酒に失礼だろう。貸切だから他に見る奴もいないしな」
「ほんと酒好きだなーお前は」
伊吹は備え付けのシャンプーで頭を洗いながら平然と答えてのけた。人間の従業員に鉢合わせたらどうするつもりなんだ、と思った八束だったが、酒を飲むためとはいえ能動的に動いてくれているので野暮なことを言うのはよそうと自分もシャワーを浴び始めた。彼も現代に飛ばされてから初の旅行で普段よりテンションが上がっており、早く温泉に浸かりたい気持ちで一杯だった。
身体と使った化粧台を洗った後、2人は露天風呂に出て湯船に浸かった。地酒入りの徳利は温泉の湯が入った桶の中で湯煎して温め直している。
「湯加減もちょーどいいな、気持ちいい〜!」
広々とした温泉の中で、八束はうんと手足を伸ばした。普段はカラスの行水の伊吹も、湯船に肩まで浸かっている。
「確かに…身体に染み渡っていくのを感じる」
「だな!さーて、いよいよお待ちかねの…熱燗だな!そろそろあったまっただろ!ほい、伊吹!」
八束は徳利を風呂桶から出し、片方のぐい呑みに酒を注ぎ、伊吹に手渡した。
「ああ、八束もぐい呑みを貸せ」
伊吹は酒の入ったぐい呑みを傍の石の上に置き、徳利ともう片方のぐい呑みを手渡すようにと手を伸ばした。慣れた手つきで酒を注ぎ、八束に手渡し、再び自分のぐい呑みを持つ。
「サンキュ!それじゃあ、北海道の景色と地酒に…乾杯!」
「乾杯」
2人は互いの酒器を鳴らして乾杯し、熱燗を一口含んだ。
「──はーっ、美味い!露天風呂ってシチュエーションも相まってより美味しく感じるな!」
「そうだな…やはり酒は日本酒に限る」
八束は味わうようにゆっくりと酒を楽しみ、酒好きの伊吹は一気にぐい呑みの中身を飲み干した。
「はやっ、もう空になってるし…もう一杯いくか?」
「ああ、ありが──」
八束が伊吹のぐい呑みに酒を注ごうとしたその時、2人が持っていた酒器がひとりでに浮かんだ。旅先で…正確には普段でも有り得ない怪奇現象に、伊吹と八束は警戒を強める。
「な!?」
「酒が勝手に…!?って、この感じはまさか…!」
しかし、この光景に2人は覚えがあった。ここ数日出くわすことは無かったが、彼らが四辻荘取り壊しの危機に遭うまではほぼ毎日やられていた、先住民による悪戯。
「ごくごく…美味っ♪」
その例に漏れることなく、宙に浮いた半透明の少年が、伊吹のぐい飲みに入った日本酒を勝手に口にしていた。
「「零也!?」」
「?……あ、やべ」
数日ぶりの再会に、妖怪2人は驚きの声をあげていた。一方幽霊少年の方は無意識に姿を見せていたようで、今の状況に気づいて気まずそうな声を出した。しかし手に持った酒器を離すことはなく、傍の大きな岩に腰掛けた。
「お前…今までずっと何してたんだよ!?ってか地縛霊だから四辻荘の外には出れないんじゃなかったのか!?」
八束は今まで不在だった零也を問い詰める。彼の指摘通り、零也は今から16年前病死した幽霊であり、自分を放置していた両親や四辻荘そのものに対する恨みによって地縛霊と化していた。実の父親によって四辻荘が取り壊されると発覚した時、妹の壱子が管理人としての責務から解放されるという安心感と、本人はそれを望まない、漸く増えた住人達が離れていくという不安との間で板挟みになり、一時は悪霊になりかけた。過去の出来事を4人の妖怪達に吐露した後、零也は姿を消していたが、今こうして遠い北の地に現れたこと自体、彼の立場とは矛盾する不自然なことだった。
「あと酒を返せ」
伊吹は最初こそ零也の登場に驚いたものの、すぐに奪われた自分の酒を取り返す方に思考を切り替え、彼を睨みつけていた。
そんな妖怪2人の視線に刺された零也は、最初こそ気まずそうにしていたものの、すぐに普段の飄々とした表情に変わって話し始める。
「あー、あんたらがクソ野郎のことこてんぱんにしたって分かったらなんかすっきりして、悪霊もどきの地縛霊から無害な浮遊霊に昇格したみたいなんだよねー。ありがとさん」
クソ野郎とは先述した彼の、壱子の父親のことである。姿を現さなかっただけで、ことの一部始終も全て見ていたようだ。
「みたいなんだよねーってお前なぁ…呼んでも全然出てこなかったから心配したんだぞ!」
「四辻荘の外に出れるようになってから、色んな所飛んで回っててしばらく空けてたからな」
八束は零也の言葉を聞いて安心したのか、肩を撫で下ろした。零也の方は心配されていたことを悪びれる様子もなく堂々とした態度で酒の入ったぐい飲みを手で揺らしている。
「まあそのまま成仏してくれても良かったんだがな、悪戯に悩まされないで済むし。あと酒を返せ」
伊吹はほぼ毎日零也の悪戯の被害に遭っていたため、口では悪態をつきつつ零也から酒器を取り戻そうと手を伸ばす。零也はそれをいち早く察して空中に逃げ、残った酒を一気に飲み干した。
「やーだね。壱子が大人になるまでって言ってたけど、こうなったらずっと居座ってやるしお前らだけ温泉と熱燗堪能するなんてずりぃ」
空になったぐい飲みを伊吹に投げ返し、今度は八束が持っていた徳利とぐい飲みまでも取り上げた。放り投げられたもう片方のぐい飲みは伊吹の頭にクリーンヒットし、湯船の中に沈んでいく。
「痛っ…零也ぁ!!八束手伝え、酒を取り返すぞ!!」
「落ち着け伊吹、新しいのもらってくるから!風呂場で暴れると滑って転ぶぞ!」
酒器をぶつけられた伊吹はすぐにキレて湯船の中で暴れ出す。しかし相手は浮遊霊、いくらでも空中に逃げられるためあまりにも分が悪く、妖怪2人のために用意された熱燗はあっという間に零也の胃袋に収まった。八束は湯から上がって脱衣場に戻りながら忠告したが、空しくも伊吹は足を滑らせ、頭から熱い湯を被る羽目になった。
(…クソ野郎に対する恨みつらみから解放された一番のきっかけは、伊吹が持ってきたおれの昔の写真だけどな。入院してた病院でいつの間にか撮られていたのを何でクソ野郎が持ってたのかは知らないけど…伊吹の言う通り、あのクソ野郎も少しはおれのことを想っていたのかも知れないって一度感じた瞬間、生きてた頃から背負ってた重荷がすっと消えたんだ。直接は言わないけど──感謝してるよ、伊吹、皆)
伊吹からの罵詈雑言を聞き流しながら、零也は口にすることのない感謝を心の中で伝えていた。妖怪や幽霊という生き物たちは、一部の例外を除いて素直に自分の気持ちを伝えることをしない習性がある。それが特に顕著な伊吹と零也が心から和解することは当分ないだろう。しかし、故にこそ構築される人間(この場合は人外)関係もあるものだ。
「…はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
酒を取り返すためにひとしきり暴れた伊吹は、疲れて湯船の中に腰を落とした。
「何で温泉入ってるのに疲れてんだよお前、馬鹿じゃねーの」
「誰のせいだと思ってる…」
すっかりいつもの調子に戻った零也は、空になったぐい飲みと徳利を器用に風呂桶に戻しながら伊吹を嘲笑っていた。伊吹は恨めしそうに零也を睨みつけながら、肩まで温泉に沈めていた。
「まあまあ、折角だから3人で乾杯しようぜ!スマホで尾咲と銀花にも零也のこと伝えたから夕飯時にも改めて祝わないとな!」
脱衣場から新しい日本酒を持ってきた戻った八束は、そんな2人をいつも通りに宥めながら、3人分の酒を猪口に注ぎ直していた。
「え〜、今更祝われるような事でもないし尾咲にくどくど説教されそう…」
それを聞いた零也は少し嫌そうな顔をする。伊吹と似た者同士な尾咲に捕まれば今以上に厄介なことになることをわきまえているのも、今まで姿を現さなかった理由の一つだ。
「自業自得だろう、諦めろ」
伊吹はふん、と鼻を鳴らしながら、八束から猪口を受け取る。
「だな!それじゃ改めて、零也が浮遊霊になって帰ってきたことを祝って──」
「「「乾杯!」」」
八束の音頭に合わせ、3つの猪口が小気味良い音を鳴らした。
一方その頃、部屋に荷物を置いて備え付けの浴衣に着替えた尾咲と銀花は、宿の建物に囲まれた中庭を散策していた。
「従業員が誰も居ないから不安だったけど、庭園の細かい所まで手入れが行き届いてるわね」
溶けずに積もり残った雪を被った椿の生垣に手を伸ばしながら、尾咲は感心する。
「パンフレットにも『お客様に心の底から寛いで頂けますよう、細心の注意を払って運営しております』って書いてありましたしね」
霜の張った地面を慎重に歩きながら、銀花は風景を楽しんでいる。
「そのお陰で半分変化解いた状態で過ごせてるとはいえ…ここまで私たち以外人がいないと不気味になってくるわね…」
自分たち以外に人がいないのをいいことに、尾咲もまた変化を一部解除していた。頭に狐の耳が生えた、一見コスプレのようにも見える状態だ。銀花も髪の毛先が薄らと青く染まっており、軽く変装を解いて気を緩めているのだろう。
ふと、数歩先を歩く足を止め、尾咲は後を付いてきている銀花の方に向き直った。
「ねぇ…もしかして銀花、伊吹のやつが飛行機酔いした時すぐに起きなかったの、まだ根に持ってる…?」
その目線は珍しく、相手の機嫌を取ろうと様子を伺う者のそれだった。北海道に着いてからここまで、銀花に微妙に距離を置かれているような気がすると、彼女はずっと考えていた。銀花は数刻キョトンとしていたが、やがてクスリと笑って言った。
「大丈夫ですよ尾咲さん、もう怒ってないですから。確かに八束さんと尾咲さんが寝ぼけ半分で頼りにならないなぁと思って1人で何とかしようとしましたけど、伊吹さんももう回復したみたいですしね」
普段温厚な銀花は怒らせると最も恐ろしいというのは四辻荘の住人たちの共通認識だったが、彼女がそのような憤懣を引きずることは滅多になかった。空港で尾咲の申し出をキッパリ断ったのも、腹を立てていたためというより、普段世話をかけている年上の妖怪2人に頼りすぎるのは良くないと判断したためというのが大きかった。
「そ、そうなの?良かった…バスの中で話しかけても妙に素っ気なかったからちょっと怒らせすぎたかと思ってたのよ」
「あれは山道の景色が懐かしくて見とれてただけですよ。尾咲さんがゲームするのを邪魔するのもなと思いましたしね」
「あぁ、あんた元々は雪国暮らしだったものね…なぁんだ、ほっとしたわ」
銀花の心遣いに安心した尾咲は緊張した態度を緩めた。その時、2人が持ち歩いていたスマートフォンが同時にL*NEの通知音を鳴らした。
「──あれ?八束さんからL*NEです」
「同じ建物にいるんだから会った時伝えれば良くない?緊急事態かしら?」
疑問に思いながら、尾咲と銀花はそれぞれのスマートフォンの画面を確認した。通知は四辻荘の住人のグループチャットから来たようで、八束からのメッセージが一言表示されていた。
『零也が浮遊霊になって帰ってきたぞ!』
続けて写真が送られてくる。伊吹が虚空に浮いた徳利に向けて風呂桶を構えて攻撃しようとしている様子が写っている。
「…」
尾咲は、空港の時とはやや異なる、安心も含んだ呆れ笑いを浮かべた。
「尾咲さん、これって──!」
一方銀花は明るい表情になって写真の映った画面を見せる。
「ええ、そうね。写真は心霊写真だけど…私たちにとっては十分な証拠になる」
「良かったです…!」
「零也のやつ、散々心配かけさせたんだから後でたっぷり文句言ってやらないとね…♪」
「程々にお願いしますね、尾咲さん」
零也の予想通りに文句を言う気でいる尾咲を、銀花は苦笑しながら諌めた。
「さて、暗くなってきたし、そろそろ部屋に戻りましょうか」
尾咲の言葉を合図に2人はスマートフォンをしまい、来た道を戻り始めた。
途中、今度は銀花が足を止め、先を歩いていた尾咲も足音が止んだのに気づいて再び後ろを振り向く。
「…あの、尾咲さん」
「うん?何かしら」
銀花は申し訳なさそうに話を切り出した。
「お風呂に入れない私に付き合わせてしまってすみません…温泉、入ってきていいんですよ?」
雪女である銀花は炎や熱が苦手だった。当然、普段の入浴は水風呂または冷たいシャワーに限られる。そんな自分に合わせて中々温泉に入ろうとしない尾咲に気を遣わせているのではないかと、銀花は先程までの尾咲以上に気に病んでいた。
「何言ってんのよ、あんたのそれは体質なんだからどうにも出来ないことでしょ。私は全然気にしてない」
「でも…」
せっかく温泉旅行に来たのに、と銀花が言葉を続けようとしたその時、尾咲は別方向に目を留めた。
「──?ごめん、ちょっとタイム。あそこの竹やぶ…不自然に隙間ができてない?」
彼女が指さす先には、確かに不自然に隙間の開いた竹藪があった。思わず銀花も話を中断し、件の場所を探す。
「え…?どこですか?」
「ほらあそこ…近くに立て看板もあるわね…」
2人は舗装された小路から外れ、足元に気を配りながら竹藪に近づいた。傍にぽつんと立ててある看板にはこのように書いてあった。
『この先 当旅館所有の秘湯
疲労回復・ストレス解消の他、妖力回復の効能あり
予めお身体を清潔にしてからお入りください』
看板の文を見るなり、女妖怪2人は訝しげな顔になった。
「えぇ…妖力回復って…」
「…見るからに怪しい。あからさまに私たち向け過ぎる。硫黄の香りに乗って、微かに妖力が流れてくる感じもするわ」
しかも、その看板は一見すると見落としてしまいそうな、殆ど山道に差し掛かる場所にあった。見つけられるのは余程の観察眼の持ち主か、僅かな妖力の流れでも感知できる、嘗て大妖怪と畏れられた尾咲くらいだろう。
「どうしましょう…調べてみますか?」
「ええ、一応ね…と、部屋に戻ってシャワー浴びてからね。わざわざ看板に書くくらいだから、立ち入る資格のない奴を弾く結界の一つや二つは張っているでしょう」
銀花と尾咲は顔を見合わせ、半信半疑のままタオルや着替えを取りに行くためにも部屋に戻った。
看板の指示に倣い、部屋に備え付けのシャワーで身体を洗った後、尾咲と銀花は着替えとタオルを持って竹藪の隙間の中へ入った。裏山に入っていく道は竹林になっていたが、人が通ることを想定しているのか、道はある程度舗装されていた。数分歩いただろうか。2人は開けた場所に出た。湯けむりで視界が霞むが、そこは確かに旅館の露天風呂より一回り小さな温泉だった。
「…竹林を抜けた先にこんな広い源泉があるとは思わなかったわ…」
尾咲は驚きながら水質を調べるために近づく。後に続いた銀花が恐る恐る温泉に手を近づけると、一際驚いた声をあげた。
「…!嘘…!?」
「どうしたの銀花?」
「尾咲さん、このお湯私が触ってもなんともありません…!」
雪女の銀花は少しでも火に近づいたり、風呂程度の温度のお湯に触れたりするだけで身体が蒸発してしまうのだが、その彼女が温泉に入れた右手は形を保っていた。それどころか、湯に触れる前よりも肌の潤いが増している。
「私でも入れるのかも知れません!」
「本当?まさか本当に妖怪を癒す力がこの秘湯に…?──!!」
尾咲も続けて自分の手を湯の中に突っ込んだ。次の瞬間、彼女の身体から白い煙が上がる。湯気に混じって掻き消えた頃には、彼女の変化は完全に解け、九本の尻尾が生えた大きな狐に変わっていた。
「わっ!尾咲さん、変化完全に解けちゃってますよ!?」
銀花の指摘を受け、尾咲は狐の耳と尻尾を残した女性の姿に戻りながら先程以上に驚いた顔をする。
「え、ええ。手を入れた途端急に力が湧いてきて…」
「わ、私も入ってみていいですか…?」
「いいけど…無理だと思ったらすぐ上がるのよ?」
「分かってます…!」
2人は周囲に誰もいないことを確かめ、浴衣を脱いで温泉の中に入った。
すぐに声を上げたのは銀花だった。全身を温泉に浸けても彼女の肉体が溶けることはなく、初めての温かい湯の感触に驚きながら、全身を湯の中で伸ばしている。
「──!気持ちいい…!」
「大丈夫?身体何ともない?」
「全然平気です、寧ろほら…!」
心配そうに声をかける尾咲を安心させるように笑い、銀花は上空を指さした。尾咲が頭を天に向けると、先程まで冬晴れだった空には灰色の雲がかかり、細かな白い粒が落ちてきていた。
「雪が降ってきた…雪女の銀花がこの秘湯に入ったことで妖力が戻ったから…?」
「きっとそうです!うわぁ、温泉ってこんなに気持ちいいものなんですね…!」
空と自分が入っている湯とを見比べながら尾咲は推測している。旅行に来ても自分が温泉に入ることになるとは思ってもいなかった銀花はすっかりはしゃいでいた。
「仕組みはよく分からないけど…良かったわね、銀花」
暫く妖力回復の源泉を眺めて唸っていた尾咲だったが、妹のように可愛がっている少女の妖怪が嬉しそうにしているのを見て、今はひとまず温泉を楽しむことにした。
「はいっ!」
銀花は満面の笑顔で頷き、雪景色と妖力回復効果のある秘湯を楽しんでいた。
ガサガサッ
そんな彼女たちを警戒態勢に戻したのは、2人が来たのとは別方向から聞こえてくる、草木をかき分ける音だった。
「え!?誰か来る!?」
「あ、もしかして仲居さんとかが来たんじゃないですか?…ってどっちにしろ大変です!」
2人とも妖力が全快して、一目見れば妖怪と分かる状態だった。仮に人間の従業員が風呂場の掃除に来たのであれば、何としてでも追い払わなければならない。それが男性だったら尚更だ。
「銀花下がって!ここは私が──!」
尾咲は素早く湯から上がり、傍に置いていたタオルを身体に巻き付けて左手で押さえ、もう片方の右手を音のする方に向けた。音の正体がもし人間であれば、記憶や認識を操作する妖術をかけられるように。銀花も下がりつつ、いつでも妖術が撃てるように構えている。
しかし、彼女たちの心配はある意味杞憂だった。音の主はこれまで姿を全く現さなかった旅館の従業員などではなく、同行者である2人の男妖怪と、途中から加わった幽霊少年だった。
「おー、マジであったな妖力回復の秘湯!近くにいるだけでも妖力が湧いてくる!」
「ここでもう一杯飲むとするか」
「お前ら大晦日だからって飲みすぎじゃね…?夜にぶっ倒れても介抱してやんないからな」
彼らも秘湯の噂を聞きつけてやって来たのだろう。温泉に入れない幽霊の零也以外の2人は、2回目の温泉にすぐにでも入る準備を整えてやって来ていた。
そう。全裸で、小脇に風呂桶と日本酒を抱えてやって来たのである。
「え…?」
「え?」
「あ?」
女湯に男が入ってきた時の女性達のリアクションは大きく分けて2つ。1つは湯に沈んで身体を隠す、もう1つはタオルで自身を守りつつ全力で追い出そうとする。銀花は前者であり、既にタオルを巻いていた尾咲は後者だった。
尚、2つの共通点としては、主に人を呼ぶため、今回は単純な条件反射で、大声で叫びながらそれらのリアクションを取るということである。
「きゃああああああああああああああああ!!!」
「何で全裸で入ってくるのよおおおお!!!」
尾咲はタオルをしっかりと左手で押さえながら、落ちていた石を3人に投げつける。幽霊の零也には効果がないという思考は完全に抜け落ちている。
「ちょ、痛い痛い痛い!ってか何でお前らがいるの!?」
男達の中で最初に悲鳴をあげたのは八束だった。心底驚いた顔で飛んでくる小石を避けながら、当然の疑問を口に出す。
「それはこっちのセリフよ、なんであんたたちがここに入ってきてるわけ!?」
質問を質問で返しながらも、尾咲がそこにある物を投げる手を止めることはない。
「露天風呂から上がったら中庭の竹やぶ抜けた先に秘湯があるって張り紙見つけたから…って痛ぇ!?」
「ならせめてタオルを巻きなさいよタオルを!」
「違っ、ここに来るちょっと前に開けた場所があって、着替えや荷物はここに置いてくださいって立て看板もあったんだって…本当にィ!?!?」
石が無くなった尾咲は予備で持ってきたタオルを八束に投げ当てる。普段共同生活を送っているとはいえ、さすがに全裸で女性の前に出るのに罪悪感があったのだろう、八束は必死で弁解した。しかし彼の弁明が全て終わるよりも先に、脳天に尾咲が妖術で放った雷が落ちた。
「じ、事情は分かりましたから、早く出てってください〜!!」
銀花は湯船の中で逃げ回りながら伊吹に妖術を当て続けようとしていた。いつもはそこまで威力のない氷弾も、妖力回復の秘湯に浸かっている今は巨大な氷の塊になっていた。
伊吹は走り回ってそれらを躱し、時には鬼火で焼き溶かしながら反論する。
「だったら氷漬けにしようとするのを止めろ!というかお前らの裸なんて誰も興味なッ!?」
「それはそれでデリカシーが無さすぎるのよ!!」
八束に制裁を終えた尾咲が伊吹の反論を聞いて別の意味で怒り、落ちていた石鹸を顔面に投げつけた。
「おい雌狐今石鹸投げたな!?目が染みる!顔面に石鹸投げるやつがあるかァッ!!?」
石鹸で視界不良となった伊吹が銀花の妖術で氷漬けになった。普段大抵の妖術にはかからない伊吹だったが、今回は風呂場で油断した状態だったため、抵抗する間もなかった。
「あーあー、こうなると思ったけど容赦ねーな…混浴って張り紙や看板に小さく書いてあったのにあいつら読まないから…」
それらのやり取りを上空で眺めながら、零也は両耳を手で塞いでぼやく。もちろん、彼の小さな呟きを聞き逃す尾咲ではなかった。
「今なんて言ったのかしら零也…?」
「え?だからこの秘湯混浴って…痛っ!?」
尾咲は手を細かく動かし、呪文の詠唱無しで零也に妖術をかけた。数週間前に覚えた、霊を実体化させる陰陽術の応用技だ。一時的にただの人間と同じ状態となった零也は、地面に落ちて尻もちを着く。
「なるほどねぇ…気づいた上で入ってきたってことは確信犯になるけど何か申し開きはあるかしら…?」
姿勢を直そうとする零也の手を足で踏み、尾咲は逃がす気はないという顔で彼を見下ろす。
「ちょ、妖術で実体化させるのは反則…っつーか前から言おうと思ってたけどさ…」
「何よ?」
「…尾咲最近ちょっと太っt」
バリバリバリバリッ!!
零也としては一瞬でも尾咲の気を紛らわせて逃げ出す隙を作りたかったのだろうが、振った話題の内容は最悪だった。
後に北海道では、局地的に降雪と落雷が観測されたとちょっとしたニュースになったという。
「最低変態死ねこのエロガキ!!行きましょ銀花!」
「は、はいぃ…」
尾咲は覗きなど全くする気の無かった男妖怪2人と、黒焦げになった幽霊を罵倒しながら立ち去り、銀花も半べそをかきながらそれに続いた。
この後、八束の主張通り彼らの来た方向には脱衣場代わりの荷物置き場があり、さらに看板にも張り紙にも小さな文字で混浴と書いてあったため、4人はお互いに謝った。気づいた上で言わなかった零也は一日飲酒禁止令及び女子部屋入室禁止となった。
「なんかどっと疲れたな…温泉来たのに」
「部屋に戻って休みたい…」
落雷と氷漬けから回復した後、改めて妖力回復の秘湯に入った八束と伊吹だったが、精神的な疲労から酒を楽しむ心の余裕もなく、早々に旅館まで戻ってきていた。
「賛成…ちょっとお互いに頭冷やしましょ…」
普段なら「オッサン臭い」と呆れる尾咲も、ほぼ全力で妖術を使い続けたためぐったりしていた。
「ですね…あれ?来た時こんな看板ありましたっけ?」
銀花もすっかり変装している時の見た目に戻り、とぼとぼと歩いていたが、中庭からラウンジへの入口近くに立て看板が立っているのを見つけて立ち止まった。
「いや、なかったと思うけど…なんて書いてあんの」
まだ所々焦げている髪の毛を労りながら、幽霊状態に戻った零也は看板を覗き込む。
『四辻荘御一行様
お食事の準備が出来ましたので、「木蓮の間」までお越しください』
「食事の準備…俺たちが風呂に行っている間にやっていたのか」
伊吹は看板前に集まる大人の背丈の3人の間から顔を覗かせて言った。
「いや、それは無いよ。おれ、伊吹と八束が露天風呂行くまでの間にざっとこの建物見て回ったけど…おれら以外誰もいなかった。人間だけじゃない、おれの同類もな」
零也は伊吹の推測をすぐに否定した。この建物には従業員どころか、幽霊すらもいないのだと。
「それはそれで大問題じゃないか!?え、でもじゃあこの看板は一体…」
「そ、それに、私たちが四辻荘に住んでること、何でこの看板を作った人は知ってるんでしょうか…?人なのかどうかも怪しいですけど…」
八束はその事実に驚き、目の前の看板から離れる。銀花は逆にまじまじと看板を見つめながら、文章の不審な点をさらに指摘した。
「…………」
謎は解けないまま、10秒ほど沈黙が流れた。無言を先に解いたのは尾咲だ。
「…いずれにせよ、行って確かめるしかないみたいね。『木蓮の間』ってどこにあるのかしら」
「地下にある宴会場みたいだぜ」
尾咲が指定の場所を探そうと辺りを見回すと、下見を終えていた零也が地下の階段がある方向に飛んで4人を呼んだ。
「案内しろ、零也」
伊吹の声に続き、4人の妖怪と1人の幽霊は地下1階の宴会場へ向かった。
階段を降りてすぐの所に、木蓮の花が描かれた襖が閉じているのが見えた。ここが件の木蓮の間だろう、伊吹が先陣を切って襖の両扉に手をかけた。
「開けるぞ。……!」
全員に確認した後、一気に襖を開く。
室内を見た全員が息を飲んだ。畳の敷かれた100畳ほどある大広間は、天井のライトや壁掛けの間接照明で明るく照らされていた。最奥には垂れ幕がかかっており、時間によっては出し物もあるのだろうと思われる。その真ん中に、真冬にはこたつ布団を敷いているのだろう机と、5人分の座布団が置かれており、机の上には肉料理から魚料理まで、豪華な食事が用意されていた。
「お、おおぉ…すげー豪華な料理!俺らだけで食べれる量かこれ!?」
真っ先に机に近づいた八束は、高級料理の数々に目を輝かせる。
「本当に色々揃ってるわね…伊吹、プランの詳細把握してなかったの?」
「食事がついてくるとだけ書いてあってここまで豪勢とは思っていなかった」
尾咲は一つ一つの品をじっくり眺めながら座布団のうちの一つに座り、福引で旅行券を当てた本人に尋ねる。その本人すらもここまで豪華な食事付きだとは知らなかったようで、驚きながら席につく。
「あ、ちゃんと5人分の座布団がありますよ!」
「え、おれの分も?おれは別にいいんだけど…ん?何か書いてある紙が置いてあるけど」
銀花の言葉に驚きつつも、招かれざる客である零也は机に近づき、料理の端に置かれた紙を見つけた。
「見せろ」
伊吹がそれを渡すように手を出すと、零也はポルターガイストにより紙を中に浮かせ、手元まで運んだ。紙を手にした伊吹の元に他の者達も集まる。
『四辻荘御一行様
本日は真宵雅旅館にお越し頂きまして誠にありがとうございます。当旅館の主…もとい、当旅館そのものである『迷い家』でございます』
「旅館そのものが、迷い家だと…!?」
「迷い家…訪れた者に富をもたらすとされる家の姿をした妖怪ね。まさか北海道で妖怪に出会えるとは…」
伊吹と尾咲は、突然自己紹介を始めた迷い家、もとい真宵雅旅館に驚きの声をあげた。人が誰もいない中でこれほどの準備を進められたのも、今まで絶妙なタイミングで男妖怪たちの元に日本酒が用意されていたのも、建物自体が妖怪だったと分かれば全て合点の行く話だった。
「!おい見ろよ、字がどんどん書き足されてくぞ!?」
八束の言葉に、全員が再び紙に視線を落とす。ついさっきまで書いてあった文章が消え失せ、みかんの汁で書いた文字を火で炙って浮かび上がらせるように、新しい文が書き足された。
『私は古き時代からここにあり続けていましたが、時が経つにつれ人里離れたこの土地に足を踏み入れる人間は少なくなっていきました。そこで人間のお客様に親しみやすくなるようにと旅館に形を変えましたが、効果はありませんでした』
(昔からここに…ということは俺たちの同類ではないのか)
5人の中で唯一、此処が妖怪たちが生前住んでいた世界では無いことを知る伊吹は、声に出さずに考え込む。死後この世界に飛ばされてきた妖怪であれば、何か元の世界に戻る手がかりを掴んでいるのではないかと期待したが、そう上手くはいかなった。
「えっと、それでどうして私たちが四辻荘に住んでいることを知っていたんですか…?」
銀花が紙に向かって質問すると、再び文字が消え、答えるかのように文章が浮かび上がる。
『私の種族は日本列島各地に根を張っておりますゆえ、東京に住む同胞から情報を得ておりました』
「ああ、確かにこの旅館の系列施設、全国にあるものね。ってことはあれ全部迷い家なのね…」
旅行前に事前調査をしていた尾咲は、日本全土に迷い家のネットワークができている事実に驚いた。
「じゃー、おれのことはどうやって知ったわけ?伊吹たちが書いた旅行の申込書には、当たり前だけどおれの情報はなかったよな」
今度は零也が質問をぶつけた。人外ゆえに零也の存在を知覚することは出来たのだろうが、その方法を知りたいようだ。
『御一行様がいらっしゃった時、零也様がこっそりと入ってきたのを感知して急きょ用意を足させて頂きました』
「ふーん、お見通しだったわけだ。悪いことしたな」
『とんでもありません。挨拶が遅れて皆様を驚かせてしまい、申し訳ありませんでした。お詫びと言っては何ですが、年末年始の間はどうかごゆっくり、当旅館でお寛ぎ下さいませ』
紙を通して真宵雅旅館との会話を終えた零也は、ふぅと息を吹きかけて紙を机の上に戻した。
「なるほどな。そういうことならお言葉に甘えて、料理や温泉を楽しもうぜ!」
「そうだな。同じ妖怪相手なら気苦労しなくていい。美味い地酒もあるし」
「結局酒なのねあんたは…ま、私も仕事疲れを癒すとしましょう」
「ありがとうございます、迷い家さん!滞在中はよろしくお願いしますね!」
「やれやれ、いつも通りのバカ騒ぎになりそうだな…ここに壱子が居ないのは残念だけど、おれもたまには羽根を伸ばすかな」
5人はそれぞれ宴会料理を楽しもうと席に着く。伊吹、八束、尾咲のコップには日本酒が、銀花と零也のコップにはオレンジジュースが注がれたのを確認すると、八束が伊吹の方を向いた。
「よし伊吹!音頭よろしく!」
「何故俺が…まあ今日くらいはいいか。零也の復帰と迷い家によるもてなしを祝って、乾杯」
「乾杯!!」
伊吹の音頭に合わせて4人の妖怪と1人の幽霊はグラスを鳴らし、夕食を堪能したのだった。
数十分後。
「はー食った食った!幸せだな〜!」
「ああ、酒も美味かった」
食事をたらふく食べた男妖怪たちは、幸せそうな顔で宴会場から部屋に戻っていた。
「あんたら未成年の銀花がいるのに飲みすぎよ…もう少し遠慮しなさいよね…」
「い、いいんですよ尾咲さん私は別に…未成年と言っても表の社会での年齢ですから…」
尾咲もある程度酒を嗜んだものの、彼らほど酔っ払ってはいない。気を遣われた銀花は困り顔でそれを宥めていた。
「ふわぁ、食ったら眠くなってきたな…ん?ここ卓球台あるんだな」
ふわふわと宙に浮きながら、零也は欠伸をする。幽霊にも眠気というものは存在するらしい。寧ろ浮遊霊に昇格したことでよりそれを感じるようになったのかも知れない。そんな彼が、ラウンジの隅のゲームコーナーに、卓球台が2台置いてあるのを見つけた。
「卓球!面白そうだな、やろうぜ!」
「一人でやってろ、俺は部屋でもう一飲みする」
「なんだなんだ逃げるのか〜?」
「は?上等だ叩きのめしてやる」
酔っ払い2人は早速そちらに向かい、台の上に置いてあるラケットとピンポン玉を手に取る。
「うっわ、あいつら酔って変なテンションになってるわね…どんだけ飲んだのよ」
「あ、あはは…でも、楽しそうですし私たちもやりませんか?」
「そうね、腹ごなしには丁度いいかしら。零也、審判よろしくね」
女妖怪2人も苦笑いしつつ、もう片方の台の上のラケットを手にした。尾咲が零也に審判を頼むと、零也は嫌そうな顔をする。
「えーおれもやりたいんだけど」
「どうせあんたピンポン玉弄ったりするでしょうが」
「ちぇっ、見抜かれてた」
幽霊であり、ポルターガイストを自在に起こせる零也にフェアプレーができないことを尾咲は指摘した。実際にそうするつもりだった零也は舌打ちし、脇にある得点板を並べ始める。
「──ところで尾咲、卓球ってどうやるんだ?」
尚、言い出しっぺの八束が卓球のルールを知らないことは、誰も考慮していなかった。尾咲は溜息をつき、続いて零也の方を見た。現代生活が一番長い九尾の狐は、スポーツには興味がなかった。零也がさらに溜息をつき、伊吹のスマホを勝手に抜き取って卓球の試合動画を見せた。4人がひとしきりルール確認を終えてから、第1回四辻荘卓球王者決定戦個人の部が開催された。
1時間後。
「…ふっ、勝負あったな雌狐…この戦い、俺が頂く」
酔いがすっかり抜け、全身から汗を流している伊吹が、鋭い目付きでサーブの構えを取る。
「アホ抜かしてんじゃないわよクソガ鬼…あんたのショットは全部見切ったわ…」
対する尾咲も額に汗を滲ませながら、レシーブの構えを崩さない。
「行くぞ──!」
伊吹が打ったサーブを尾咲が打ち返す。伊吹が返した球を切り返そうとした尾咲のラケットは──空振った。
「ちっ、中々やるわね…ならこれはどうかしら!」
今度は球を拾った尾咲がサーブを出す。伊吹が返し、尾咲が打ち返した球は──卓球台ではなく伊吹の額に当たった。
「痛っ!くそ、もう一度だ…!」
所謂、最下位決定戦である。一方隣の台では。
「よっ…と!」
「わっ…!」
1デュースでサドンデスに入った八束対銀花の決勝戦。開始からわずか数分でコツを掴んだ八束がスマッシュを決めた。
「はーい、11対9で八束の勝ちー」
零也が八束側の得点を更新し、試合終了となった。
「よっしゃ!」
「あはは、負けちゃいました…強いですね、八束さん!」
「いやあ、銀花もいいセンスだったよ!ありがとな!」
決勝まで残った2人はお互いの健闘を称えあった。
「うんうん、あっちの下手くそ2人より遥かにまし。…で、あれいつ切り上げる?」
審判役の零也は、決勝戦サイドの得点板とラケット、ピンポン玉を元の場所に戻しながら隣の台を指さした。伊吹対尾咲のサドンデスは、既に15デュースを超えている。
「2人とも、集中してて全然こっちに気づきませんね…」
卓球の善し悪しをよく分かっていない銀花は、息を飲みながらその様子を見守る。彼らの卓球センスが皆無であることには、幸運なことに気づいていないようだ。
「ほっとけほっとけ、そのうち飽きるだろ。俺たちはテレビでカウントダウン見ようぜー」
「だな」
「スポーツは大抵なんでもできるアイツにこんな弱点があったとはな〜、面白いもん見れたよ」
八束は最下位決定戦がまだまだ続くだろうと予想し、先に部屋に戻ろうと提案した。零也も審判役を放棄してそれに追随し、鼻で2人を笑った。伊吹対尾咲の勝負は朝まで続き引き分けで終わったという。
翌年、1月3日の夕方。羽田空港に札幌発の飛行機が着陸した。
「いやーあっという間だったなー!三泊四日の北海道旅行!」
八束は出発時と異なり、両手に土産の紙袋を数個ぶら下げながら楽しげに歩いていた。
「はい、とっても楽しかったです!」
銀花は大学の友人に頼まれていた白い恋人の紙袋を持ち、もう片方の手でスーツケースを転がしながら笑顔で答えた。
「初日は凄く疲れたけど、札幌まで出てショッピングできたし全体的には良かったわ。明日から仕事と思うと憂鬱だけど…」
4日から仕事始めの尾咲は、その事実を思い出して気落ちしながら4人の中で1番多い買い物袋を運んでいた。
「まあまあ、切り替えて頑張ろうぜ!…伊吹ー大丈夫かー?もうちょっとで帰れるぞー?」
「…少し休ませろ」
3人がそれぞれ旅行を振り返りながら談笑する中、少し離れた所で伊吹がよろめきながら歩いている。行きの時よりはましなものの、帰りでも彼は飛行機酔いしてしまった。学校で友人を作らない伊吹が買った土産は自分用の地酒だけだったが、それも今は八束が代わりに持っている。
「最後の最後までだっさいわねぇ…」
「黙れ雌狐…」
普段なら2倍返しで噛み付く尾咲の言葉も、力無く振り払うことしかできない位に伊吹は弱っていた。
「おれは先に四辻荘に戻ってるわ」
帰りの移動という概念が無い幽霊の零也も、4人とともに飛行機に不法搭乗していた。伊吹の飛行機酔いを知らなかった彼は、機内で散々伊吹を馬鹿にして笑っていたが、それにも飽きたのか、最後にもう一度鼻で笑ってから姿を消した。
「また悪戯するんじゃないぞー!…伊吹、俺たちこの辺りで待ってるから便所にでも行ってこい?」
「…分かった…」
悪戯好きの幽霊に釘を刺した後、八束は伊吹を気遣って彼の荷物を回収する。伊吹は顔を下に向けたまま、男性用トイレの方向にゆっくりと歩いていった。
「伊吹さん大丈夫でしょうか…ふらふらしてますけど」
「ただの飛行機酔いだしほっとけば治るでしょ」
その後ろ姿を見守りながら、女妖怪の2人も空港の柱のそばで立ち止まった。
3人から離れた後、伊吹はトイレの前でしゃがみこんだ。吐き気は特になかったのだが、未だに気分が悪く、動けなかった。
(……まだ目が回る…もう二度と飛行機なんぞには乗らん…)
周りの人々の哀れみの視線を気にも留めず、伊吹は体調の回復をじっと待っていた。
そこに、長い茶髪を下ろしたスーツ姿の女性が通りかかり、彼と目線を合わせて話しかけた。
「…坊や、大丈夫?」
紫がかった2つの瞳が、濁った黒い瞳と合わさる。
「…坊やと呼ばれるような年齢ではない…」
伊吹は顔を逸らしながら子どもであることを否定する。実際彼は妖怪4人の中で2番目に年上だったが、他の人間にそんなことが分かるはずもないという考えが浮かばない程、彼の思考は止まっていた。女性はそれを聞いて数秒瞬きをした後、肩にかけていたカバンから錠剤と飲料水を取り出し、彼に手渡した。
「…酔い止め。私も飛行機は苦手だから持ち歩いてるの。あと水も」
「…?あぁ…」
「それじゃあ、私次の飛行機だから。お大事にね」
普段なら「人間からの施しなど受けるか」と断る伊吹だったが、女性の有無を言わさない雰囲気に思わずそれらの品を受け取った。彼が次の言葉を考えるより先に、女性は搭乗ゲートの方向へ歩き去っていた。
(…あの人間の女、どこかで見たような…)
そんな女性の後ろ姿が見えなくなった後、伊吹は手渡された錠剤を観察する。錠剤に添えられた説明書には『乗車前に1回2錠』と書いてあった。
「…この酔い止め、乗り物に乗る前に飲むものじゃないか…阿呆なのか」
伊吹がため息をついた時、L*NEの通知音が鳴る。差出人は八束だった。
『今壱子がじいちゃん連れて迎えに来てくれたぞ!四辻荘まで車で乗せてってくれるみたいだから、元気になったら戻ってこい!』
渡された薬に今の気分の悪さを治す効果はなかったが、これからの移動でさらに体調を悪くするのを防ぐ効果はあるようだった。
「…飲んでおくか」
酔い止めを服用した後『すぐ行く』と返信し、伊吹は帰途についた。年末年始の北海道旅行は、こうして幕を閉じた。
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