第5話 四辻荘・後編
『――人喰い鬼の○○○、お前に妖力封じの枷を付け、霊山の結界内に無期限追放する……』
何だ……誰かの、声 ?
所々かすれて、近づいたり遠ざかったりする声。その声の主に、俺は心当たりがない。
八束ではないな……あの建物の家主の女でも、かつて俺を殺した武士どもでもない……誰の声だ、これは?
『……にたいのかい、あんた。よりにもよって、あたしの前で』
また別の声が聞こえる。俺の知るどの人物とも異なる声。だが、聞いているとどこか懐かしいような気がする声。俺はどこかで、この声を聞いたことがあるのか…… ?
声の正体が知りたくて目を開く。眼前にはどこまでも暗く深い闇が広がっていた。声の主を探すために歩みだそうと思ったが、身体が動かない。周りの闇が体中にまとわりついて、俺を飲み込もうとしてくる。
最後に海に入ったのはいつだったろう。今の感覚は、その時と似ている。どこまでも暗い海の中に沈んでいくような感覚。漆黒の海の中で、俺は呼吸することも声を出すこともできず、ただ流れのままに深く沈んでいく。誰のものか分からない声を聞きながら。
『――キヒヒッ。これでオマエとオレサマは一心同体だ。せいぜい美味い妖怪を斬って、オレサマに食わせてくれよォ ?』
まただ……また別の声がする。
最初の声は、慈しみと憐れみに満ち溢れた声。
次の声は、失望の中に希望を見出したような声。
その次の声は、悪意と渇望でこちらを飲み込んできそうな声。
3つの声は、それぞれ別の人物のものだろうか ?今の俺には分からない。
考えているうちに、声が遠ざかっていく。
目の前の闇の中から数本の巨大な鎖が現れ、俺の身体を縛っていく。
いよいよ身動きが取れなくなった俺は、暗い海の底まで加速度的に沈んでいく。
――今は、全て忘れて眠りなさい。
いずれ、思い出さなければならない時が来るでしょう。
貴方の力が発揮されるべき場面が訪れるでしょう。
ですが、その時までは、どうか安らかに―――
意識を失う直前、今まで聞いたどの声とも異なる声が、そんな言葉を紡いだ気がした……
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遠くの方で物音がして、俺は目を覚ました。
起き上がろうとすると、身体にかかっていた何かがずり落ちる。
なんだろうと思い見てみたら、厚手の布のようなものだった。
辺りを見回してみる。
見たことのないものが沢山並んだ居間……四辻荘の一〇一号室の中だ。
俺は不思議な長椅子の上で寝ていた。いつの間にか眠ってしまったのか。
すぐ近くの床では八束が寝息を立てている。俺と同じ厚手の布が身体にかかっている……こいつが出したわけじゃないのか。
なら一体誰が……。
「──あ、おはよう大江くん。起こしちゃってごめんね」
少し遠くから聞き覚えのある女の声がした。
「……この布はなんだ」
「あ、毛布 ?夜寒いかと思ってかけておいたんだけど……畳んで隅の方に置いておいてくれる ?」
「違う、何故俺たちにかけたんだ。布団は要らんと言ったはずだ」
「うーん、でも心配で……ごめんね」
俺が尋ねると女は困った顔で答え、また台所に戻った。
どれだけお節介な奴なんだ、と思ったが毛布とやらを取ると結構寒い。俺は起きつつ、身体を毛布で覆うことにした。暖かい。
窓の外はまだ薄暗い。今何時くらいなんだろう。
あの女は、昨日と同じ格好をして台所で作業をしている。昨日の藤田という男の話では辰の刻には学校が始まるらしいから、それより前にここに立ち寄った、ということなんだろうか。
しばらくじっとしていると、魚の焼ける匂いがしてきた。
「大江くん、食器出すの手伝ってもらってもいいかな ?」
女が台所から俺に話しかけてきた。
「なんで」
「朝ごはん作ったから。出し終わったら、八束さんのことも起こさなくちゃ」
「俺は要るとは言ってないぞ」
「自分の分作るついで。昨日帰った時、おばあちゃんにも言われたから。作ってあげてきなさいって」
言葉とは裏腹に、腹の虫がなく音がする。
俺は仕方なく、台所に向かった。
二つの椀に白米と味噌汁が、皿には焼いた鮭の切り身が盛り付けられる。
千年前俺が好んで食べていたものばかりだ。喉の奥から出てきた唾をごくりと飲む。
そろそろ寝ている八束を起こそうと、俺はあいつの頬を叩いた。
「おい、起きろ。朝だぞ」
千年前、こいつが屋敷に上がり込んで来た時は大抵俺が起こされていたことを思い出した。
普段朝まで酒を飲んで昼まで眠っている俺を、こいつは容赦なく叩き起してくるのだ。
「うーん……伊吹…… ?朝 ?ここどこだ ?」
「寝ぼけるな、女が案内した宿の中だ。朝食ができたからさっさと起きろ」
「……へぇ ?おー、今起きる……」
昨日よほど重労働を課せられたのだろうか、珍しく寝起きが悪い。
そもそもこいつの寝起きに立ち会ったこと自体そんなになかったな、朝は苦手なのかもしれない。
「おはようございます、八束さん」
「おはようさん、壱子……おお ?朝食お前が作ってくれたのか?ありがとうなー」
「はい、お口に合えばいいんですが……じゃあ、いただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
俺たちは朝食を前に手を合わせた。味噌汁を一口すする。わかめと豆腐が入った白味噌の味噌汁だ。美味い。
「んー、朝食も美味いな !」
八束は白米と鮭の切り身に手をつけている。
「よかったです。二人ともここに来る前どんなものを食べていたか分からないから、味付けとか少し不安だったんですけど」
「昔の方が薄味だったけど、俺はこっちの方が好きだな !目が覚めるし力が湧いてくる !」
「ありがとうございます……大江くん、美味しい ?」
女が無言で食べていた俺を見てきた。
「あ ?……美味いと言えば満足か」
「……ならよかった」
女は俺の返答を聞いてほっとし、自分の分の食事を食べている……が、なんだか昨日よりゆっくり食べているように見える。
食べながら、なにか別のことを考えているという様子だ。
「……あの」
やがて、俯いたまま口を開いた。
俺と八束は食事の手を止め、女を見る。
「昨日の今日でこんなことを言うのは、図々しいってよく分かってるんですけど……二人にお願いがあるんです。ここに……四辻荘に、住んでくれませんか ?」
女は顔を上げて、俺たちをまっすぐに見て言った。
この建物に住んでくれ…… ?この女はそう言ったのか?
「……どういうことだ、壱子 ?」
理由があると感じた八束が女に聞いた。
「この四辻荘は、私の父方の祖父の代からある下宿なんです。でも建物が古くなったり、都市部の開発が進んだりしてだんだん人が住まなくなっていって……今は両親が管理しているんですが、それだけでは生活できないから、二人とも働きに出ていて……。一人でも人が住んでくれれば、両親の助けになるしこの建物もなくならなくて済むんです。ついこの間、取り壊しの話まで出そうになるくらいで……お願いします、ここに住んでください…… !」
壱子は、この建物の事情を細かく説明し、頭を下げた。
俺と八束は顔を見合わせた。
「……俺は、いいかなと思ってる。仕事場からの距離がそんなに離れてないし、住み心地も良さそうだし。それに今の話を聞いて断るってことは、俺には無理だな。……でも伊吹が嫌だって言うなら、俺はここ以外を探すよ」
八束はゆっくりと、そう言った。
あとは俺次第、ということか。
もう一度女の方を見る。
女は俯いたまま、返事を思い詰めて待っている、という様子だ。
「……顔を上げろ。いいか、人間」
俺に言われた女は顔を上げた。
俺は女と目を合わせ、手に持った箸を向けて言った。
「俺たちは住処と食事に困っていて、お前は住人が居ないことに困っている。利害が一致した、理由はそれだけだ。お前を認めた訳ではないからゆめゆめ勘違いするなよ」
この部屋の居心地や、女の作る飯の味が悪くないということは言わないでおいた。
「大江くん…… !お箸を人に向けちゃだめだよ ?」
「な、おい人間、せっかく俺が住んでやってもいいと言っているのにその態度はなんだ !」
「……ごめん。でも、本当にありがとう…… !」
女は今までで一番の笑顔になり、俺に礼を言った。目には涙が浮かんでいる。
「八束さんも、ありがとうございます !本当に助かります…… !」
「いいっていいって !これからよろしくな、管理人さん ?」
八束は女に右手を出した。
女はそれを見て一瞬驚いたが、おずおずと自分の右手を差し出し握手を交わした。
「管理人さん、なんてちょっと恥ずかしいな……実際の管理者は両親なんだけど……」
「遠方で働いて帰ってないのであれば実質お前が管理者だろう。俺たちが住むからには毎食作りに来いよ、管理人」
「う、うん。それはおばあちゃんたちに聞いてみる……。──え?今私の事『管理人』って…… ?」
俺が食事を再開しながら話すと、女……管理人は呼ばれ方が違うことに驚いた。
「おお、よかったな壱子 !こいつが人間を『人間』以外で呼ぶってことはよっぽど気に入られたってことだ !」
「はぁ !?別に気に入ったわけじゃ……」
「そ、そうなんですか…… ?」
「違うからな !ここの管理人だからそう呼ぶことにしただけだ !」
八束の誤解を招きかねない発言を急いで訂正する。俺がこの管理人を気に入っただと ?ふざけるな。
「あはは……分かったよ。とにかくこれからよろしくね」
管理人は笑いながら俺に右手を差し伸べてきた。
握手をする気は起きなかったので、俺はその手を右手で叩いた。人間の脆い手のひらの骨が折れない程度の力で。
食事を終えた後、俺たちは食器を片付けた。皿洗いは昨晩と同様、俺と管理人が行う。
「あ、そろそろ学校行かなくちゃ……大江くん、洗い終わったお皿を拭いて戸棚にしまっておいてくれる ?」
食器をほとんど洗い終えた後で、管理人が頼んできた。
「ああ」
「部屋の鍵は帰ってから渡すのでもいいかな ?それまではこの共有部屋にいてね」
「分かった」
俺は返事をしながら残った箸を洗った。
「もう出るのか壱子 ?今何時なんだ ?」
「えっと、朝七時半くらいです」
「……すまん、千年前と時間の言い方が違うみたいだ。これにも書いてあるんだがよく分からなくてな……」
八束は管理人に時間を尋ねた。朝というのは分かるが『七時』という言い方はしなかった。
「八束、なんだその薄い板切れは」
俺は八束が取り出した薄い板切れを見て聞いた。
千年前にはなかったものだが何故こいつが持っているんだろう。
「これ、この時代に来た時からずっと持ってるんだよなー。使い方がよく分からないが……伊吹も持ってないのか ?」
八束は板切れを手に持って眺めながら言った。
言われてから俺は自分の身の回りを探ってみた。
服の奥の方に、八束が持っているのと同じような板切れを見つけた。八束のは黒色だが、俺のは青色だ。
「それ、スマホです !最初から持ってたんですか ?すごい……」
管理人は俺たちが持っていた板切れを見て驚いた。
「すまほ ?」
「えーと……これを持っている人同士で、遠くにいても会話できたり、メール……手紙を送れたり……他にもいろいろな事がこれ一台でできるんです。時間を見ることもできますよ。……あ、そうだ。ちょっとそれ、貸してもらってもいいですか ?」
この薄い板切れは『すまほ』というらしい。よく分からないが人間にとっては便利な物のようだ。
管理人は八束の『すまほ』を借りて何か操作している。
やがて、何かを見つけたような顔をした。
「えっと、昔の時間の言い方では今は……卯の刻と辰の刻の間ですね」
「卯の刻と辰の刻の間…… ?うわ、俺もそろそろ出ないと !」
八束は管理人から時間を聞いて慌て出した。こいつも辰の刻に仕事場に行かなければならないのか。
「わりい伊吹、俺も壱子と一緒に出るわ !留守番頼む !」
「あ、ああ」
「お昼ご飯、冷蔵庫に入れて置いたから昼……午の刻くらいになったら食べてね !八束さん、これお弁当です !」
「ありがとうな、壱子 !じゃあ伊吹、行ってくるわ !」
「戸締りだけよろしくね !」
俺が言葉を挟む間もなく、二人はあっという間に出て行った。
さっきまでどたばたとしていた部屋が急に静かになった。
食器を戸棚にしまった後、俺は改めて共有部屋を見回してみた。
今日からここに住むことになるのか。
使っていない透明な湯のみを取り出し、蛇口から水を出した。
一口飲むと、冷たい水が身体を通っていく感覚を覚える。
こんな時は酒でも飲みたいんだがな。帰りに八束が買ってきてくれないものか。
俺はぼんやりと考えながら、湯のみの水を飲み干した。
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現世妖怪異譚
序幕『妖怪転生』閉幕
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