余命半年と言われた。だから君と恋人になった

飛鳥休暇

第1話 余命半年と言われた。

「最悪の場合、半年ほどかもしれません」


 僕の目の前に座っている医師がそう言った。

 僕は医師の発言が一瞬理解できず、彼の着ているタートルネックのセーターの色が茶色なのかクリーム色なのかとか、そういうことを考えていた。


「堂前さん?」


 医師の呼びかけにハッとして顔を上げる。


「ショックなのは分かりますが、大切なことなのでしっかりと聞いてください。ご家族はお近くにお住まいですか?」


「いや、……家族は遠方にいます」


「そうですか。とりあえずこれからの治療のこともありますので、一度ご家族とも相談してみてください」


「……はい」


 僕はぼやけた思考のまま、医師の話を聞いていた。


 ******


 初めは軽い気持ちだった。

 最近下痢が続くことや、腹痛がひどくなってきたため念のためといった形で訪れた病院だった。


「ちょっと精密検査をしてみましょう」


 そう医師に言われた時でさえ、あまり深刻に考えることはなかった。


「申し上げにくいですが、悪性のようです」


「……悪性?」


「簡単に言うと、がんです」


「……癌」


 その瞬間だけは、まるでドラマのワンシーンのようだななんて思ってしまった。

 笑い話でよく聞くような「ガーン!」みたいなボケも実際自分の身に起きてみるととっさには出ないみたいだ。


「治るんですか?」


 僕の言葉に、医師が眉間に皺をよせた。


「またちゃんと正確に検査をしないといけないですけど、ちょっと色んなところに転移しているかもしれません」


 そうして医師から出てきたのが冒頭の言葉だ。


 ――最悪の場合、余命半年。


 わけがわからなかった。

 確かにちょっと腹痛は続いたが、それが癌で、しかも最悪の場合あと半年で死ぬなんてことを急に言われても、とうてい受け入れられるものではなかった。


 その日はとりあえず病院を出て、すぐにまた精密検査とこれからの治療に関して説明をしてもらう予定を組んでもらうことにした。


 病院を出てからも頭の中は疑問符だらけだった。


 ――癌? 死ぬの? こんなに元気なのに? 半年? なにそれ。


 つまらない人生だと思った。

 部活に青春を捧げたこともなければ、友人たちと夜な夜な遊び歩くようなこともしたことがない。

 女性と付き合った経験もないし、それゆえ当然ながら童貞だ。

 何かを一生懸命がんばったこともない。

 そんなつまらない人生が、何も成し遂げていない人生が、あと半年ほどで終わる。


 そんなことを考えながらとぼとぼと歩き、気がつけば大学に着いていた。

 僕は頭が真っ白なまま、とりあえずサークルの部室へと向かう。


 扉を開けると、案の定そこには道陰凛みちかげりんの姿があった。

 いや、そもそもほとんどの時間彼女くらいしかここを使っている人を見たことがない。

 八畳ほどの小さな部屋の中心には長テーブルが二台置いてあり、その片面に二脚ずつのパイプイスが並んでいる。

 彼女はそのうちのひとつ、入り口から向かって右側の奥に座って文庫本を読んでいた。


 僕の気配を感じた彼女は、顔を上げると少しだけ微笑んで会釈した。


「時間つぶし?」


 大きめの丸眼鏡の奥の彼女の瞳が僕を映す。


「ああ、いや、……うん」


 曖昧に返事をしてから、僕は彼女のはす向かいのイスに腰掛けた。

 僕がイスに座ると、彼女は再び本に目を落とす。


 僕は悟られないように、彼女の読書姿を観察した。

 ショートボブの黒髪は首の傾きに合わせるようになだらかな曲線を描き彼女の頬を隠している。

 熱心に文字を追うその目の上の長い睫毛が、目の動きに合わせて上下に揺れる。

 面白いシーンなのだろうか、時折わずかに彼女の薄い唇に力が入る。

 そのすべてが、僕にとっては魅力的だった。


 僕が所属しているのは「文芸サークル」で、とは言っても年に数回の部誌を発行する以外は集まることもほどんどなく、今日のように部室は閑散としている。

 高校の頃から小説が好きだった僕は二年前、興味半分でこのサークルに入った。

 自己紹介がてら短編を提出しろと言われた僕は、ろくに執筆経験もないまま見よう見まねでなんとか一つの作品を書き上げた。


 ――不評だった。


 僕の書いた作品は突如地球に謎の寄生虫が現れたという話で、その寄生虫に寄生されると、なぜかどんどんアゴが長くなっていくというものだった。

 最終的には腰の長さまでアゴが伸びた人類がそれでも前を向き生きていこうという、オチもへったくれもないような駄作だった。


 当時の部長をはじめ、先輩たちも言葉を選びながらではあるが感想を述べてくれ、それは総じて言い換えると「つまらない。意味が分からない」というものだった。


 元々出来るとは思っていなかった僕ではあったが、さすがに全員からそんな言葉をもらってしまうと、心にくるものがあった。

 いや、本当はちょっとした自信のようなものがあったのかもしれない。

 小説くらい自分にも書けると、根拠のない自信がほんの少し隠れていたのだろう。

 だからこそ、みんなから感想をもらっているときは消えたくて仕方が無かった。

 これ以上自分を辱めないでくれといった感情でいっぱいになっていた。

 そうしてその自己紹介作品のお披露目会が終わった後、肩を落とす僕に声をかけてくれたのが彼女――道陰凛だった。


「とてもおもしろかったです」


 そんな言葉も、はじめは社交辞令にしか受け止められなかった。


「なぜアゴなのか。寄生虫というからには生物の本能である繁殖が理由としてあるはずなのに、この作品では寄生した生き物のアゴを伸ばすだけ。ここに様々なメタファーがあると思うんです」


 呆然とする僕の目の前で凛はしゃべり続ける。


「あ、答えは言わないでくださいね。こういうのは自分自身で読み取ったときが一番気持ちがいいので」


 何も言おうとしていない僕を制するように彼女が手を突き出してきた。 僕はというと(いや、そんな大した意味は含ませてないんだけどな)なんて思いながらも、ぶつぶつと自分の作品について考察を巡らせる彼女を見つめていた。


「また、書いてくださいね」


 ふいに顔を上げた彼女がそう言ってきた。


「堂前くんの作品、もっと読みたいです」


 窓から差し込む光が彼女の眼鏡に反射して、僕は思わず目を細める。

 その時の彼女の表情はちゃんと見ることが出来なかったけど、彼女のその言葉だけは心に残っていた。


 言いようのないモチベーションが湧き上がってきた僕は、それから何作かの短編を作っては、一番に彼女に見せるようになっていた。


 あれから二年。二人の関係にこれといった進展はなかったけれど、新作を見せるたびに嫌がることなく読んでくれる彼女の存在は僕のなかでどんどんと大きくなっていった。


 いつかはちゃんと告白しよう。


 そう思っていた矢先の余命宣告だった。



「どうかした?」


 凛の言葉に、僕は我に返ったように顔を上げた。


「なんかぼーっとしてたから」


 彼女が心配そうに僕の顔色を伺ってくる。


「あぁ、いや、別に」


 どのくらい時間がたっていたのかも分からないが、たぶん明らかに様子がおかしかったのだろう。凛は訝しげにこちらを見ている。


「あの、さ……」


 これから吐き出す言葉を思ってか、鼓動が異様に高まっている。


「癌なんだって」


「がん?」


 僕の言葉が理解できない様子で凛がきょとんとしている。


「……今日、病院で言われた。最悪の場合、半年も生きられないんだって」


「えっ」


 ようやく僕の言っていることが分かった凛は、分かったうえで目をまん丸に開いたままフリーズしていた。


「そんな……」


 そう呟いてから、凛は持っていた本をぱたりと机に落とした。


「あのさ」


 僕は言葉を続ける。凛も僕の言葉を待つかのように僕の顔を見つめている。


「僕さ、余命半年だから、……だから、良かったら一日だけ、僕の彼女になってくれない?」


 そう言って僕はにへらと笑った。

 史上最低の告白の言葉だと思った。

 思ったところでもうどうしようもなかった。

 今までろくな恋愛経験もない男が、初めて女性を口説いた言葉が「余命半年だから」なんて、これ以上ないくらいにダサかった。

 それでも、自分でもどうすればいいのか分からなかった。

 彼女に思いを伝えるための方法が、今の僕にはこれしかなかったのだ。


「……一日だけ?」


 思案するように彼女が机に視線を落とす。


「うん。一日だけでいいから。最後の思い出として。……ダメかな?」


 僕は半ば懇願するように声を出す。

 もはや体裁なんてどうでもよかった。

 どうせ死ぬのなら、せめて彼女と一日だけでも恋人になりたかったから。


 凛はもうしばらくだけ黙り込んでから、僕と目を合わさずに「いいよ」とだけ言った。


 本当は分かっていた。

 君は優しい人だから。

 余命宣告を受けた人間からのお願いなんて、断らないだろうと思っていた。

 そんなことを思う自分がどうしようもなく情けなく、また、そんな情けなさすらどうでもよくなっていた。


「じゃあ、明日。明日デートしてくれる?」


「……うん」


 凛は俯いたまま返事をし、それから僕が部屋を出るまで一度も顔を上げることはなかった。

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