闇の中
ふゆ
闇の中
①のボタンが、血で汚れた。
高速エレベーターの扉が、ゆっくりと閉まるのが、もどかしく感じられた。
俺は、床にしゃがみ込んで、興奮している身体を落ち着かせた。
「とうとう殺ってしまった。こうなったのは、お前のせいだ。自業自得なんだよ」
数分前に起こした凶行の正統性を、自らに言い聞かせるように、つぶやいた。
会社の上司である課長が住む、このマンションの高層階の部屋に宅配業者を装い侵入した俺は、無防備で玄関に出てきた課長の胸に隠し持っていた包丁を、間髪を入れず突き立てた。
「グェッ」っと、うめき声を上げた課長は、白目を剥くと、ドミノのように部屋の中へ仰向きに倒れた。ゆっくりと玄関扉が閉まっていった。
俺は、二、三歩後ずさりすると一目散にエレベーターを目指し、乗り込んだのだった。
エレベーターの階数表示が、秒読みしているように減っていくのに合わせて、少しずつ落ちつきを取り戻していった。
厳しい就職活動を経て、やっと内定を勝ち取った今の会社に入社したものの、上司の課長からの激しいパワハラにさらされた。
一年間、辛抱して働いたが、とうとう鬱病を発症してしまった。
休職を申請したが、「この忙しい時に、なめたことを言うんじゃない。休みたいのは、お前だけじゃないんだよ!」と、相手にして貰えなかった。
親に相談は、できなかった。同僚も同じ悩みで苦しんでいた。毎日が地獄であった。
そして、俺が、この闇の世界から逃れるために出した結論は、課長の殺害だったのだ。
突然、「ガタン!」とエレベーターが停止し照明が消えた。
建物が上下左右に激しく揺れているのが分かった。地震が発生したのだ。
俺は焦った。早く逃げないと捕まってしまう。非常電話で連絡しようとしたが、俺が、ここにいる証拠を残すことになると思い止めた。
薄暗い箱の中で、なす術がなくなり、茫然と立ち尽くした。
「俺は、何てバカなことをしてしまったんだ…」
ふつふつと後悔の念が、沸き上がってきた。
思い返せば、課長自身も部長から激しく叱責されていることを、見聞きしていた。かくゆう俺も、新入社員に対し、同じように厳しくあたっていたかも知れない。会社全体が、恐怖政治に似た体制で成り立っていたのだ。
公的機関に相談する手もあったではないか。
俺は、血に染まった手を見つめた。自然と涙が溢れてきた。
確か、課長には離婚した女性との間に幼い女の子がいて、月に一度は会っていた筈だ。
「何て事をしてしまったんだ…」
俺は、頭を抱え、再びその場にうずくまった。
ワイヤーのきしむ音だけが響く闇の中で、絶望的な時間を過ごした俺の心は、徐々に浄化されていった。
「そうだ。無事に表に出ることができたなら自首しよう。罪を償って、やり直すんだ」
そう決心した時、再び「ガタン!」と音がすると、エレベーターが動き出した。
揺れが収まり、システムが復旧したのだった。
ほどなく、一階に到着した。
腹を決めていた俺は、慌てることもなく、ゆっくりと左右に開く再スタートの扉を見つめた。
そして、一歩を踏み出そうとしたその時、俺は凍り付いた。
目の前に、胸に包丁が刺さったままの、血まみれの課長が、荒い息をしながら鬼の形相で立っていたのだ。
「あっ!」と思った次の瞬間、胸から包丁を引き抜いた課長が突進してきた。
金縛り状態になっていた俺は、 逃げることができず、この事態を受け入れざるを得なかった。
「課長、私があなたを刺した時と立場が逆転しましたね。あの時の課長の気持ちが、何となく分かります。もし私が生き残ることができたなら、きっと、お互いの気持ちが分かり合える、いい上司と部下になれるような気がします」
胸に刺さった包丁の先が、あばらを砕き、心臓を貫くのが感じられた。
「あぁ、また闇に包まれる…」
闇の中 ふゆ @fuyuhara
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