第79話 蠍の一撃

「ハガガガ!」

 鼻を強打したことでわしを羽交い絞めにしていた拘束が解けた。すぐさま回し蹴りを入れると、西野の身体が吹き飛び、床の表面を滑るように叩きつけられた。


(やったか? いや、間合いが近すぎて蹴りの威力が半減した)


 床に仰向けになった状態から肩と首の力だけで跳ね起きると、西野はハハハアと笑いながら、履いていたガーターストッキングの片方だけ脱ぎ始めた。そして填めていた金属製の腕時計を外すと、ストッキングの開口部からそれを入れ込む。それを投石器のように頭の上でヒュンヒュンと回し始めたのだった。


投石紐スリングか。考えたな」


 ストッキングに仕込んだ腕時計は男性物思しき代物で形状は大きく固く、あれに当たればカポエイラで鍛えた儂といえども無事では済まない気がした。


 西野の手にしっかりと握りしめられたスリングの先端が、額めがけて投げつけられた。わしは上体を90度にひねり寸前でかわす。 


 西野はコツを掴んだのか、命中に失敗しても何度も何度も額を執拗しつように狙う。


 西野の腕の長さと伸縮性のあるストッキングの組み合わせは、わしの脚部の射程よりも長く、その攻撃に苦戦した。幾度も攻撃をかわしステップを踏みながら西野との間合いを掴もうとするも、格闘技の特性を熟知しているせいか、西野は一定の距離を保ち続けることに固執こしつした。


 何度かその攻撃をもらい、わしの額から血が流れた。破壊力は変異者のパワーを得た分、常人が振り回すより遥に大きいのだ。


 ストッキングでの攻撃が止むことなく、形勢は不利な状況へと追い込まれた。そして徐々に追い詰められ、船室のガラス窓へと背中を付けた。もう逃げ場はない。


「クタバレ小娘!」


 西野の一声と共にスリングが放たれた。わしは腰を落としてかわすと前方へと前転をした。背中を床に着地させる前に腕を伸ばし逆立ちの状態になる。身に着けている制服のスカートが広がるのもいとわず、前転で近づいた距離分のアドバンテージを獲得したまま脚を伸ばして攻撃に転じた。


「メイア・ルーア・ジ・コンパッソ(半月輪)!」


 その蹴り技が西野の顔面に直撃し、彼女が掛けていた眼鏡が大きく吹き飛んだ。しかし、転んでもタダでは起きぬといったところか、倒立状態の儂の足首に手にしていたスリングを巻き付けたのだ。


「クッ」


 巻き付けたストッキングをグイと引っ張り上げ、わしは床へと倒されてしまう。右脚の自由を奪ったストッキング生地が、感覚が無くなるまで足首を締め上げる。それを地引網漁のように西野は手繰り寄せていく。


 じりじりと彼女の方に引っ張られて行くわしは、西野のさらなる凶行を目にした。髪留めに使用していた玉かんざしを指の間に挟み握りしめたのだ。


(その突起物で、眼球をえぐろうというのか?)


 その場に踏みとどまろうとはしたが、変異者と化した西野の力の前では赤子も同然であった。


(どうする?)


 片脚の自由を奪われた儂はカポエイラの足技で西野を攻撃することはほぼ不可能。立ち上がることすらできず、ただ引き寄せられていくだけの状況。身体の一部でも掴まれたなら、変異をきたしたあの怪力には敵わないであろう。


(何か手段はないか?)


 咄嗟にブレザーのポケットに手を入れる。そこには山科から譲り受けた、直江と一緒に写った写真があった。


 それを指で挟むと、上体を起こしまるでトランプマジシャンのように西野の顔を目掛けて投げつけた。


 円盤のように回転しながら写真は、眼鏡を吹き飛ばれた西野の眼球に突き刺さった。


「ヒヤアアアアアアアアア!」


 うめき声を上げ、西野は片眼を手で押えた。その瞬間、わしを拘束していたスリングが解けた。


 まさに電光石火の動き。片手を床に着けたまま片足を伸ばしてコンパスのように円を描く。


「足払い《ハステイラ》!」


 伸ばした足の甲が西野の軸足を刈り取り、彼女をよろけさせる。儂は両手片膝を地に付けた状態で、背を向けたまま地面すれすれから加速させた足の踵を、西野の腹部に打ち付けたのだ。


エスコルピオン!」


 それはさそりの毒尾に似た一撃だった。


「ボヘエエエエエエ」


 うめき声と一緒にアルコール臭い胃液を吐くと、西野はその場でうずくまり動かなくなった。蹴りの威力が最大になる射程距離、そして鳩尾という急所への蹴撃。もう戦意は微塵も残っていないだろう。


「どちらにしろ、飲酒運転の時点で貴様は免職だ。恥を知れ!」


 写真を拾い大事にブレザーのポケットにしまうと、山科の元に駆け寄った。

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