花ひそやかに

koto

花ひそやかに

 我が家の近所には県下に名高い名門校がある。私は幼いころからその周辺を行き交う人々を見てきた。門に吸い込まれていく彼や彼女は私にとっては賢そうでさわやかで元気そうな姿に見えて、きらきらした木漏れ日をまとうような輝かしさを感じていた。

 幼い日からの憧れはいつしか姿を変え、中学生の頃にはわたしもその一員になりたいと願うようになっていた。それは子供じみた思いが積もり積もってのことでもあったけれど、中学3年になってすれ違う人の中にもう一つの憧れを見出したからでもあった。

 癖のある長い黒髪をかきあげる長い指先。笑うと細くなる目。柔らかなソプラノ。中学と高校では朝の登校時間が異なるけれど、家の近くを歩く時間が大体同じせいで見かけやすいその人は、いつだって優しい声で友人と思しき人たちと笑っていた。

 校章の色から今年の一年生、つまり自分の一つ上の先輩だと分かるその人に会いたくて。同じ場所で一緒に笑い合いたくて。

 私は星を掴むような無謀さを笑われながら一歩ずつハードルをクリアしていった。

 それは親をも巻き込むことだから、周囲からも色々言われたし心無い教師からは鼻で笑われたりもした。幸い担任の先生が親身になってくれたので、私は彼女の言葉を支えに必死で足掻いたのだった。

 雪降る頃、決戦に臨み。

 桃の節句の頃、ずっと望んでいた切符を手に入れた私は天にも昇る心地だった。


 身を凍えさせる雪が解けて、お日様が雲間から顔をのぞかせたら、わたしも花を咲かせよう。福寿草のように明るい色の花を。そう心に誓いながら真新しい制服をクロゼットにかけて、袖を通す日を夢見た。

 ――必死に勉強して、どうやら合格圏内に入れたかもという模試の結果を抱いて泣き笑いした。

 自分よりできるように見える人々の群れの中で身を削られるような思いをしながら孤独に戦った。

 朝の光の下でまばゆく輝く掲示板に自分の受験番号を見つけて文字通り飛び上がった。

 こころの花のつぼみは期待と不安に揺れつつも、光を受けて広がっていく。

 その花の名前が判るような判らないような曖昧なままで、私は学び舎の門をくぐることになった。


「新入生はこちらへ」

 そして入学式の朝。

 ああ、なんということだろう。憧れの彼女が今そこにいる。入学式の受付に座って、こちらに手を伸ばしている。あからさまに動揺している私を見て、緊張していると思ったのだろう。ふんわりと笑んでもう一度声をかけてくれた。

「大丈夫、そんなに緊張しないで? さ、お名前をどうぞ」

 震える声で答えると、彼女はあの優しいソプラノで私の名前を復唱し、長い指先で名簿を辿る。

「ああ、3組ですね。あちらの昇降口から入ってください。体育館に3組の席がありますから、式が始まるまで座って待っていてください」

「はいっ」

 不必要なほどに大きな声で返事をしなかっただろうか。声が裏返っていなかっただろうか。不安と羞恥で顔を染める私の腕に彼女はそっと触れて

「大丈夫。すぐ慣れるから。行ってらっしゃい」

 消え入るような声で礼を言って昇降口へと駆けだす。受付を待つ人の波に逆らいながら抜け出し、足を止めると、今起きたことに信じられないような思いで震える手を見つめる。

 触れた。あの人が私に触れた。本当にあの人の指が私に。

 制服越しのその指はすぐ離れたのに、今でもたおやかでしなやかな感触を肌に残している。感激と驚きと喜びで震える体。のぼせそうなほど赤く染まった頬。うっすらとぼやける視界。自分の変化のすべてが、彼女を感じたことの証左だった。


 入学式は滞りなく終わった。新しいクラスへと案内されたのちに教科書を受け取って昇降口を出る、いささか味気ないほどの始まりだったが、そんなことは全く気にならなかった。私にとっては今日から始まる学校生活は輝かしく幸せな時間だと約束された気分だった。大量に受け取った教科書の重さも気にならないほどだ。

(ああ神様。今日のすべてに感謝します。なんて素敵な春なんだろう。頑張って良かった!)

 そんな浮かれた気持ちで教科書の入った紙袋を振りながら正門へ続く階段を下りる。そのたびに紙袋がきしむ。家が近いし薄い紙袋でも問題ないと踏んでつめこんだそれは、次の瞬間耳障りな音を立てて破れ、どさどさと真新しい教科書が階段を転げ落ちる。

「わぁっ」

 慌てて拾い集めるが、入れるための袋がない。教科書を傍らに積みながら一冊ずつ手に取っては山に重ねつつ途方に暮れていると、頭上から声がかかった。

「あっ、大丈夫?」

 穏やかなアルトが私の耳に届いた。焦げ茶色の髪がふんわりと揺れて、しゃがみこんでいる私の頬をくすぐった。

「拾うの手伝うよ。新一年生でしょ? 初日の教科書重いよねー」

 彼女は手際よく教科書を拾って、階段を転がり落ちたものも取りに行って戻ってきた。その時に視線が合う。

(うわあ、綺麗なひとだ)

 明るい茶色の瞳はくりくりとしていて、溢れる生気に輝いていた。顔の周りで軽やかに焦げ茶色の髪が躍る。日差しを受けて輝く校章は一つ上の学年を表していて、この学校の先輩はみんな素敵なひとばかりなのか!? と衝撃を受けるほどだった。

「もう、いきなり新入生をナンパしてるの? ごめんね、この人かわいい子に目がないから」

 階段の下方向、焦げ茶色の髪の先輩をみていた私にまた頭上から声がかかる。その声には聞き覚えがあった。肩が震える。ゆっくりと振り仰いだその先には「彼女」が立っていた。

「あれ、あなた朝の……大丈夫だった? 緊張してたからちょっと心配だったの」

 黒髪をなびかせながら彼女も散らばった教科書を拾い、整えてくれる。呆然としたために手が止まっていたことに慌て、教科書を拾い集める作業に戻った私は、この幸運に何といっていいのかわからないまま激しくなる鼓動に身を任せていた。

(か、かわいいって言った! あの人が私をかわいいって言った!) 

 お世辞でもなんでも、声をかけてくれた上にそんなことを言われて、舞い上がらないはずがない。私が必死に重ねてきた時間は、とうとう本当に報われたのだ。こころの花は春の日差しの下で咲き誇る時が来たのだ。そんな埒もないことをコンマ数秒の間にぐるぐる考えながら手を動かす。

 すべての教科書を拾い集め終えた私たちは、顔を見合わせて微笑み合った。

「あの、ありがとうございました、先輩」

 その言葉に焦げ茶色の髪の少女が嬉しそうに応えた。

「わぁ、先輩だって。そうだよねー、今日から私たち先輩だもんねー」

 黒髪のあの人が苦笑しながら、彼女の肩に触れる。

「何当たり前の事言ってるの。ほら、一年生さんが呆れてる」

「いえ! そんなことはないです! 本当に助かりました、先輩方っ」

 その返答が面白かったのか、焦げ茶色の先輩は楽しそうに声を上げて笑った。

「あーもう! かわいいー! ね、お名前教えて?」

 私が名を答えると、二人も名のり返してくれた。私は憧れの彼女の名前を知ったのだ。

「じゃ、今度お茶でも飲もう?」

 こげ茶色の先輩……由良先輩のお誘いの言葉に、あの人……凛先輩が眉をしかめる。

「こら、ほんっとに気安く声かけるんだからもう! ああでも、何か困ったことがあったら言ってね。とりあえずその教科書、バッグに入りきらないみたいだけど大丈夫? サブバッグとかある?」

「ええと、大丈夫です。家がとても近いので、抱えて持ち帰れます」

 その言葉に二人は顔を見合わせる。凛先輩が頷いて、バッグから小さなエコバッグを取り出した。可愛い猫が遊んでいる柄のそれは、大切に折りたたまれていて、広げた時優しい香りがした。

「使い古しで悪いけど、ないよりましだと思うから、良かったら使って? 今度返してくれればいいから」

 神は本当にこの世におわしたもうた。またまた震えてしまいそうになる指で受け取ると、ぺこぺことお辞儀をして心からの礼を述べた。

「彩音ちゃんそんなに気にしないでいいよー。ソレ私が凛にあげたものだしー」

「えっ、そうなんですか? 大事なものなのでは!?」

 その言葉に凛先輩の頬が軽く染まった。

「ちょっと、由良」

「いいじゃない。ずっと使ってくれてるの嬉しいけど、人の役に立つのはもっと嬉しいよね?」

 由良先輩はにこにこと凛先輩を見つめている。凛先輩はと言えば、頬を先程よりも染めて、視線を彼女から逸らしていた。

(あっ)

 その視線のやり取りの色、声音に、私は察したくないことを察してしまった。胸に走る痛みは多分その見立てが間違っていないと告げていた。

 礼を言ってエコバッグに教科書を詰め込み、階段を下りるまで心配そうに見守っていてくれた二人と正門をくぐり、学校を出る。

 何気ないやり取りを交わしながら二人を眺めると、いつの間にか由良先輩が凛先輩の手を取って指を絡めていた。

「ちょ、由良!?」

「いいじゃないー、帰り路くらい」

 困ったようでいて喜びを隠しきれない視線が由良先輩に向けられている。由良先輩はそれを当然のように受け止めて華やかに破顔した。二人の周りだけが春の日差しを集めたかのように輝いていた。

 私は胸の中で花開いたものが急速に萎れていくさまをぼんやりと眺めるだけだった。


 分かれ道で二人に改めて礼を言って別れ、家路を辿った。どうやって帰ったのかわからないまま部屋に転がり込む。大切なバッグだけはそっと床に置いて、そのままへたり込んだ。

 長い長い雪と氷に閉ざされた時間を経て、ようやく雪解けの中で芽吹いて花開いた思いは、陽の光を浴びた瞬間に萎れてしまった。ごくわずかな時間だけの花だった。

 胸が引き裂かれそうな思い。その中心で萎れた花を抱えた私は静かに涙をこぼしながら笑っていた。

(あんなに綺麗なものを見せられては、かなわないなぁ)

 まなうらに焼き付いた二人の後ろ姿が心の中の花を萎れさせて押しつぶすのを感じながら、それでもその花を拾い上げて栞のように胸に納めていこうと、思った。

 花は盛りを迎える前に萎れたけれど、一生抱えていきたい思い出になるだろうと、そう予感したのだった。


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※ 頂いたお題:Spring ephemeral 雪解けの短く儚い命

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