第4話 表

―――――


・・・またあの夢。これでもう三度目。

起きて、着替えて、顔を洗う。

  なんでこうなっちゃったのかしら?

バシャッ、顔に水をぬりたくる。

  夢っていう感じがしないし・・・。

バシャッ、眠気も一緒に洗い落とす。

  偶然にしてはできすぎているし。

バシャッ、

  まぁでも、見てて気分悪くはならないけどね。

キュッ、水を止める。

―――考え事か?

どこからともなく声が聞こえてきた。

  ああ、この人もいったい何なのかしら?夢じゃなかったのね。

そう心の中で言いながら、タオルで顔の水をふき取る。

「それよりあなた、私の心が読めるんだっけ?」

もちろん私の前には誰もいない。周りから見たらただの独り言だ。

―――そうだ。勝手に流れこんでくる。

「本当にとりつかれちゃったわね。お祓いに行こうかしら」

―――それで消えるといいがな。

  そうね。消えるわけないわよね。

―――俺もなぜこうなったかわからない。

「ふーん、そうなんだ」

鏡を見ながら、くしで髪をとかす。

―――言っておくが、お前の頭の中をのぞいて楽しんでいるわけではないからな。

  そうじゃなくて、誰かから見られてる感じがいやなのよね。

鏡の中の自分に語りかける。

「虹?」

恵理が洗面所に入ってきた。

「おはよう、恵理」

「さっき、なんかぶつぶつ言ってなかった?」

「そう?あ、ちょっと鼻歌歌ってた」

「あら、ご機嫌ね」

  んーご機嫌ではないけどね。

また後で、と言って恵理は去っていった。

「あんまり話しかけないでよ」

そっと小声で言う。

―――なぜだ?

「こうして話していると、周りからは独り言をしてる変な人に見られるじゃない」

―――無視できないって事か?

「そうよ。それに頭から流れ込んできて変な感じがするの」

―――その気持ちも分からなくはない。

「そう。それなら話しかけないでくれない?」

くしを置いて、リビングのほうへと向かう。

―――わかった。だが、もし俺に話しかけるときは心の中で話すといい。

「心の中で話す?」

―――言ったはずだ、俺はお前の心が読める。

  なるほどね。

リビングに行くと、パンのいい香りがした。見てみると、おばさんは台所にいてどうやら朝ごはんを作ってくれてるみたい。

「おばさん、おはようございます」

「あらっ、おはよう虹」ちらっと後ろを向く。「ちょっと待ってね、もうちょっとでごはんできるからね」

「ありがとう。じゃあ恵理でも呼んでこようかな」

―――彼女ならそこにいるぞ。

「恵理ならもう起きて、テーブルにいるはずだけど」

二つの声が私の耳の中に入ってきた。

  あなたはだまってて。

テーブルを見てみると、恵理がテーブルの席に着いていた。そして、じっと何か読んでいる。

  何かしらあの紙?

近くに行って見てみる。

「新聞?」

恵理はこっちを見て、こくっとうなずいた。

「そうよ、虹も読む?」

私は向かい側の椅子に座る。

「いや、わたしはちょっと・・・」

ちらっと新聞を見てみると、なんか難しそうなことばっかり書いてある。見てるだけで目が痛くなりそう。

「読んでみると面白いのに」

恵理はまた視線を下にもどした。

「毎日読んでるの?」

「うーん、たまに寝坊して読まないときもあるけど、だいたいは読んでるわね」

恵理は顔を下げたまま話す。

「・・・偉い」

ぼそっと口から出た。でも恵理には聞こえてないみたい。

私もちらっとでもを見ようかと思うけど、体が拒否している。もともと本とかも好きじゃないからだ。

「ごはんできたわよー」

おばさんの声だ。

「はーい」

二人そろって返事した。

「ふふっ、ハモッたわね」

「そうね」

お互い向き合って笑った。

「虹、ちょっと台所からパン取ってきてくれない?私はテーブルの上きれいにしなきゃいけないから」

「わかったわ」いすから立ち上がる。「なんか本当に家族になった気分だわ」

「ふふっ、じゃあ今から名前は市原虹にしましょ」

微笑む恵理。

「そしたら恵理の妹ね」

そして台所に行くと、パンとフルーツが置かれていた。

「これ、向こうにもってくね」

おばさんに言う。

「お願いするわ。ところで、お昼はどうするの?」

「お昼?」

  そういえば、なんも考えてなかったわ。

「なにも考えてなかったようね」

「すっかり忘れてました。いままでは、お弁当作ってもらってたから。これからは学食かな?」

「学食だとお金かかるでしょ?よかったらお弁当作ってあげるわ。恵理と同じのだけど」

おばさんはにこっと笑って言ってくる。

「えっ、うれしいけど。悪いですよ」

「いいのよ。もう家族みたいなものだし」

そう言われると、断れない。

「ありがとう、おばさん」

私は深々と頭を下げる。

「いいのよ。それより早くごはん食べなさい」

にこっと笑うおばさん。

・・・ありがとう。


恵理とゆっくり歩き、登校してるつもりだった。だけど、いつのまにか学校の校門をくぐっていた。

「やっぱり恵理の家からのほうが近いわね」

「そう?虹の家もそんなに距離は変わらないんじゃないかしら」

「そんなことないわ。10分くらい変わるわ」

周りではうちの学校の生徒たちが、おはようと友達にあいさつを交わしている。

「なんか久しぶりね?」

「ん?」

恵理が不思議そうな顔でこっちを見てきた。

「ふたりで登校するのなんて何ヶ月ぶりかしら」

ふたりで登校するときなんて、登校中にたまたまあった時くらいだ。

「そうね、いつも虹とは教室でおはようって言ってるしね」

「まさか朝の洗面所で言うとは思ってもいなかったでしょ?」

「そりゃそうよ」

微笑む恵理。

「わたしも朝から恵理と一緒にいることが変な感じだわ」

「ふふっ、これからずっと一緒で大変かもね」

「そうね。ケンカしたら大変ね」

そう言って、笑い合う。

「それより、うちの居心地はいい?」

恵理が言ってきた。

「もちろんよ。もしかしたら、うちよりいいかも」

校舎に入り、上履きにはきかえる。

「そう?」

恵理も上履きにはきかえる。

「だってうちは親がいろいろとうるさいから嫌なのよね」

トントンとつま先で地面をけってかかとを上履きの中に入れる。

「まぁいいじゃないの、うるさいほど大事に思ってくれてるのよ」

「そうかしら?」

恵理は黙ったまま、教室へと向かっていった。

「よお、お二人さん」

良一が前から歩いてきた。

  あっ、不良だ。

「おはよう、木村君」

恵理と良一は月とすっぽんみたいな感じで、一緒にいるとこを見るといつも不思議に思う。

「今日はおそろいで登校か?」

めずらしいな、という顔をする良一。

「だって、昨日から恵理の家で居候だもの」

「イソウロウ?」

良一の頭の上に“?”がついてる。

「お前、新しい家は?」

「この町から三時間向こうのとこにあるのよ。だから―――」

「学校に近い、私の家に居候することになったのよ」

と、私に続いて恵理が言った。

「ああ、なるほど。よかったな、虹」

にかっと笑う良一。

  んー、よくはないと思うけど。

「それより、今日は朝早いわね。何かあったの?」

良一が一限目からいるなんてめったにない。これはなにかあるに違いない。

「早起きはなんとかの徳、っていうからな」

「それだけ?特に理由ないの」

「ああ。悪いか?」

良一が胸を張って言ってくる。

「悪くはないけど・・・」

  頭おかしくなったのかしら?

「まぁ、早起きはいいんだけど、ちゃんと部活の予算書だしてね。あれないと大変なのよ」

困った顔をする恵理。

「ああごめんごめん、今度出すよ」

と、じゃあなと手を上げて、急に後ろを向いて走り出した。というより、逃げた。

「うー、あの調子だとまた出さないわ」

ふうっ、とため息をつく恵理。

「まぁ、そいゆうやつだし」

というか、何しに学校に来たのかしら?

たまに良一が朝早く来ても、いつもホームルームに出ないでどっかに消えてしまう。

「恵理も大変ね、クラスの委員長と生徒会の仕事があって」

恵理は進んで委員会やらなにやらの仕事についている。周りから頼られるのもあるけど、恵理自身も悪くない感じだ。

  私とは大違いだわ。

「最近はそんなに忙しくはないけど、木村君には手を焼いてるわ」

恵理にとって良一は苦手なタイプだから、話しにくいんだと思う。

  そりゃそうよね。超まじめと超不まじめだから、合うわけがないわ。

「あんなやつが男子テニス部の部長なのが信じられないわ」

どうやって男子テニス部の部長を決めたのはいまだに謎で、誰も教えてくれない。

「よくつぶれないわね、あの部活」

「なんだかんだで結果出しているもん。いつも県で一、二を争ってるし、ほか部活より一番期待されてるじゃない。だからつぶれはしないのよね」

あそこの部活は練習はまじめにやってるけど、部長があんなのだから、どうしても悪いイメージがある。

そう考えると、ちょっと良一に嫉妬してしまう。




・・・・二時間目は政治・経済の時間。

正直言って、暇な授業。

あーあ、はやく終わんないかなぁ・・・。

では教科書200ページ。

”世界的な人口の増加により、生じる最も深刻な問題は、食糧不足です。食糧不足の原因には、内戦や紛争、干ばつや洪水などの自然災害、異常気象など、人口の増加以外にもさまざまなものが考えられ、慢性的な栄養不足に苦しむ人々が多くいます。こうしたなか、食糧価格の上昇が貧しい人々の生活を圧迫しています。一方で現在の世界には、全人口を支えるだけの食糧が存在するといわれていますが、そのかたよった配分のされ方には問題があります。先進国では、毎日膨大な食べ残しが廃棄されていながら、同時に、途上国では、多くの人々が飢餓に苦しんでるのです。”

われわれの国はどうかな、飢餓に苦しむことはあるかな?

教科書には飢餓の状況を示すハンガーマップや、やせ細った子供の写真などが載っている。

そうだね。むしろ飽食で食べ物を捨てている側だよね。どう思う?

先生が生徒に聞いている。もったいないという意見が多数出る。私もそうは思うけど、なにかピンとこない。

君たちはお店に行けば当たり前のように食べ物が並んでいる。けど、ほとんどが国産ではなく輸入に頼っている。もし、今後自然災害、異常気象などによって輸入価格が上がる、または入らなくなる、となったらどうなるだろう?

輸入が少なくなったら、値段が上がる。食費が上がったら、ほかの出費を抑えなくなくちゃならなくなるね。そう考えると、ここにも環境問題がかかわってくるんだ。


窓の外を眺める。

きれいな青空、そこを泳いでいるような雲。その下は住宅がズラッと並んでいる。

  よかった、窓際の席で。

窓際の席は、暇なとき窓の外を見れるという特権があるのだ。

―――暇そうだな?

・・・ええ。

心の中で語りかける。

―――なんだ、話しかけるなって言わないのか?

  別に。

―――都合のいいやつだ。

・・・悪い?

―――無愛想なやつだ。それより、あの男は何者だ?

  あの男、先生のこと?最近入ってきたイケメン先生よ。

先生は黒板にいろいろと書いている。

―――いけめん?。

  かっこいいってこと。最近の言葉を知らないのね。

―――知らなくても良いことだ。

あ、そう。あなたもイケメンだといいな。


教科書201ページ。

”地球上には、現在多くの水が存在していますが、私たち人間が直接利用できる水はごくわずかしかなく、その分布もかたよっているといわれています。人口の増加や産業の発展に伴い、飲料水だけでなく、漁業や農業、河川の航行、あるいは工業用水としても、水の需要は高まっています。こうしたなか、人類による過剰な水の利用や水質汚染がいっそうの問題となっています。”

地球上にある水は、ほとんどが海水で飲めない水なんだ。飲める水は海水を除いて2.5%しかないんだ。しかも中東諸国のように降水量が少ないわりに、水を使いたい人の割合が多いところもあるんだ。また、温暖化により干ばつや水温が上がったり、大雨が降ったりすると、水質の悪化。それだけでなく、工場からの産業廃水、家庭からの生活雑排水などもあり、せっかくの飲み水が汚れて使えなくなってしまっているということもあるんだ。 

このことで国をまたいで流れている川があったりすると、紛争の原因になったりもしているんだ。


授業は淡々と進んでいく。機械的に教科書のページをめくる。

・・・ところであんた、名前はなんていうの?

―――名前?そんなものはない。

  ないわけないでしょ?

眉間にしわを寄せて心の中で言う。

―――ないものはない。

  じゃあなんて呼べばいいのよ?

―――そうだな、例えば〝ケンジ〟はどうだ?

ドクンと心臓が大きく動いた。血液が急に活発に流れ始め、眠気がふっとんだ。

「・・・ケンジ」

思わず口に出てしまった。周りに聞こえてしまったかもしれない。でも、今の私にはそんなこと意識になかった。

―――お前の記憶の奥深くから出てきた名前だ。

・・・・・・

―――特別な感じがするが、こいつは何者だ?

あんたには、関係ないわ。それに、気安くその名前を言わないで。

―――わかった。

すると頭の中の声は聞こえなくなった。でも、私の心臓の高鳴りは消えない。

・・・ケンジ、くん。


「どうしたの、虹?さっきからボーっとしてばっかりよ」

「―――えっ、いやっ、別にっ!」

食べ物を口に運びなおす。

「なんか変ね、さっきの授業中もぼーっとしてたし」

「なんでもないって」

今は昼休み、屋上で恵理とおばさんが作ってくれたおそろいのお弁当を食べてるところ。

―――まだ考えているのか?

うるさいわね、あんたには関係ないわ!

心の中で叫ぶ。

「なんか悩み事でもあるの?」

心配そうな顔でこっちを見てくる。

「そんなのないわよ。ただちょっと眠いだけよ」

「そう、ならいいんだけど」

そう言って、またハシを動かす恵理。

空は晴天。暖かくて、とても気持ちいい昼休みになるはずだった。

―――さっきのことをまだ気にしているのか?

  あんたは黙ってて!

「虹、怖い顔してるけど、大丈夫?」

またハシをとめて言ってくる。

「大丈夫よ、うめぼしがすっぱかっただけ」

  あーもう!

「えっ、このうめぼし、そんなにすっぱかった?」

「うん、ちょっとね。でもおいしいわこのお弁当、帰ったらおばさんにお礼言わなきゃ」

「いいのよ、お礼なんて。家族なんだから」

ポンポン、と私の肩をたたく恵理。

「ありがと。これから毎日のお弁当が楽しみだわ」

「ふふっ、それじゃまるでお弁当のためだけに学校に来てるみたい」

恵理が楽しそうに笑う。

「小学生のときは給食を楽しみにして学校に行ってたけど、あの頃はほんと楽しかった」

私もよ、うなずく恵理。

「―――だけどね、一つだけ嫌なことがあったの」

「嫌なこと?」

「うん、ある男の子が私にいつもちょっかいを出してきて、それが嫌で嫌でいつも何とかなんないかなぁーって思いながら学校に通ってたわ」

  なんか、なつかしいなぁ。

頭の中に少しずつあの頃のことが浮かんでくる。

「なんで虹に?」

恵理は静かに怒りを表す。

「私の名前が変だからって言うのよ。まぁ、今となれば小学生らしい理由だけどね。でも彼がしたことはひどかったわ」

「いじめられたの?」

「それに近かったわ。暴力はなかったけど、物をとったり、うわばきの中にがびょう入れたり、いろいろされたわ」

  今だからこそいい思い出だと思えるわ。

「でも彼は悪い人じゃなかったの」

「虹にひどいことしてたのに?」

恵理は不思議そうな顔をする。

「私も最初のほうはそう思ってたわ。でも違った」

恵理はただ静かにうなずく。

「ある日の帰り道にね、私が大切にしてたお母さんから買ってもらった帽子が風にふきとばされたの。追いかけて落ちた場所が、私の背丈くらいある草の茂みに入っちゃったの。そのときは夏で、とげのある草が生えてたり、毛虫とかもいっぱいいる時期だったから、結局あきらめて、ただ泣くことしかできなかったの。帰ってからお母さんに怒られるわで、最悪だったわ」

ふぅっとため息をつく。

「それで?」

「次の日、いつもの彼に帽子をなくしたことでちょっかいだされるなぁ、って思いながら学校に行ったわ。うつうつとしながら自分の席に入ると、彼はいつもどおり私のところに来たわ。また何かされると思って、死にたい気分だった。それで、彼はこう言ったの」

『お前、昨日帽子なくさなかったか?』

「ってね、それで私は大笑いされるんだと思いながら、しぶしぶうなずいたわ。すると彼はね、かばんの中から昨日なくしたはずの私の帽子を取り出して、机にたたきつけるように置いていったの。そのときは何がなんだかわかんなかったわ。そしたら彼は、」

『なくすんじゃねぇよ、バカ。道ばたに落ちてたぞ』

「そう言って、彼は去って行ったの。そのときは彼がなんで私の帽子を持ってたのかわかんなくてただ呆然としてたわ。でも後になってやっと分かったの。よく見たら彼、腕とか足とか顔にすり傷とばんそうこうだらけで、もしかしたらってね。それで、彼に聞いてみたの。草むらの中に入って、取ってきてくれたのかって。でも、彼は道ばたに落ちてたんだ、って一蹴されたわ。傷のこともただ転んだだけだ、うるせーな、ってバレバレのうそをついたの。そのときから、いつもちょっかい出してくる嫌なやつだけど、ただの恥ずかしがり屋なんだなって初めて知ったの」

  あの時はほんとにありがとね。

「まぁ、つまり虹のことが大好きだったのね」

恵理が、くすくすと笑いながら言う。

「そんなわけないでしょ」

「そうかな?虹とコミュニケーションとりたいけど、不器用だからちょっかい出すしかなかったんでしょ」

「それにしてはひどい不器用さね」

「そうね」

恵理と一緒に笑う。

「ところで、そんな彼はなんて言うの?」

「・・・ケンジ君。上の名前は忘れちゃったわ」

忘れるはずないないのに。

「ケンジ君、その人は今どうし―――」

と、その時チャイムが鳴った。

「そろそろ教室に戻らなきゃ」

恵理はちょっと残念そうな顔をして立ち上がった。

「そうね、じゃあまた帰りね」


帰りのホームルームが終わると同時に、みんな席を立つ。帰る人、道具を持って、部活へと向かう人、みんなそれぞれ動き出す。

私は、みんなとテンポ遅れて立ち上がる。恵理は生徒会のほうが忙しいから一緒に帰れないらしい。

  さて私も帰ろっと。

と思ったその時、

バンッ!

「!」

机の上にいきなりテニスのラケットが降ってきた。

「おい虹、帰るつもりじゃねーよな?」

横を見ると、眉間にしわを寄せて、私をにらみつけている良一がいた。

「帰るつもりだけど、何か?」

誰かの仇をとるかのような表情。迫力満点だけど、彼のこの脅しにはもうなれた。

「お前がずっと学校休んでたから相手がいなくて暇してたんだぜ。今日こそ勝負しろ」

ビシッと私を指差す良一。

「テニスで?」

置かれたラケットを持ってみる。部のものだろうけど、なかなかいい物だ。

「当たり前だ。今日こそ決着をつけようじゃねぇか!」

良一が大きな声を出すから、クラスのみんながこっちを注目する。

  できればもうちょうっと声を低くしてほしいんだけどな。

「私まだ病み上がりで、本調子じゃないんだけど」

「なんだ、逃げるのか?」

良一が挑発してくる。

「逃げるわけじゃないわ。弱っているときに、勝負を仕掛けるなんて男らしくないわね」

「うるせえ!勝てればいいんだ。それにお前が負けても、言い訳ができるからな」

カチンときた。

「言ったわね。受けてたつわ!」

「そうこなくちゃ!」

良一がにやりと口をゆがめる。

「あなたも言い訳できないようにしてあげるわ!」

「やれるもんならやってみろ。三十分後にテニスコートに来な」

どうやら良一は本気みたい。背中から熱いオーラが出てる。

  いつにも増してやる気満々ね。

「そうこなくちゃ」

足早にテニスコートへと向かう。

ひさびさ過ぎてルールさえもおぼつかないけれども、なんかこっちもやる気出てきた。

―――燃えてるじゃないか。

  そりゃそうよ、ひさびさのテニスだし、相手が良一で燃えないわけがないでしょ!

―――テニスか、この時代もあるのか。

  んっ、なんか言った?

―――なんでもない。気にするな。

「あっ、そう」

つい声に出てしまった。

  なんか冷たいわよね、この人は。

ちょっとムッとくる。

  あれっ、イケメン先生だ。

廊下の窓の前に立ってぼんやりと外を見ている。その目線は遠い。

  何してんのかしら?

隣をよこぎる。先生はただつっ立って外をながめているだけ。

チラッと歩きながら先生の視線の先を見てみる。

見慣れた景色。ただの校庭とその先には山々しかみえない。

なに見ているのかしら?

―――なんだあいつは?

  先生よ。

―――せんせい?

  そう。いろいろと教えてくれる人よ。

―――そうか。何を教えてくれるのだ?

  あの先生は社会だから、幅広いのよ。

―――社会。ぜひ講義を聞いてみたいものだ。

明日聞けるわよ。

―――お前が寝なければな。

  失礼ね!

確かに退屈な授業は寝ちゃうけど。


「久しぶりだな、虹」

お互いユニフォームを着て、自分のラケットを持っている。しかも良一は練習用のじゃなくて本気で勝ちにいくときのラケットだ。

「そうね、ラケット持つのも久しぶりだわ」

最初持ったとき、どう持つのかも少しとまどった。少しアップをして、だいぶ体も慣れてきた。

「よし。コートに入れ」

テニス部がいつも使っているコートに入る。

「コート貸切ね」

本来今の時間であれば、テニス部がこのコートを使って練習するはず。たぶん良一が、ほかの部員にはほかのトレーニングをやるよう命じているんだと思う。

「あんた。部長なのにこんなことしてていいの?」

いつも思うけど、部員がかわいそうだわ。

「いいんだ。たまには見取り稽古も必要だしな」

「あっ、そう」

たしかに、部員の中にはコートの外から見ている人もいる。

  でも、こんな部長でもけっこう慕われているのよね。

お互いラケットを構える。

良一はボールをぎゅっと握る。良一からのスタートだ。

おたがい見つめ合う。少し間が空く。

良一がボールをポンポンとバウンドさせる。

そして、

「容赦しねぇからな!」

バッと良一がボールを上にあげた。

  くるっ!

次の瞬間、良一がラケットを振り下ろす。

バコンッ!

すごい速さのボールがこっちに向かってきた。

速いっ、でも!

勘は鈍っていなかった。ボールの軌道が見える!

すかさず反応してボールをとらえる。

よしっ、完全にとらえた!

思い切りラケットを振る。

「―――って、あれ?」

ボールは後ろのフェンスに当たっている。

  空振り!?

「ぎゃははははっ、腕が落ちたな虹!」

バカ笑いする良一。

  くっ、このヤンキー・・・。

「まっ、ひさしぶりだしね」

悔しさを押し殺し、さわやかに受け流す。

  調子に乗らせるわけにはいかないわ。

「へっ、言い訳してんじゃねぇよ!」

バコンッ!

また良一の剛速球が来た。

「サーブが決まったくらいで、調子に乗るんじゃないわよ!」

  今度こそっ!

ブンッと、ラケットを振る。

バコンッ!

今度はしっかりととらえた。

「なっ!」

ボールは良一のコートの端っこぎりぎりに落ちた。

「おおーー!」

まわりから歓声が上がる。

「やっ、やるじゃねぇか」

良一はボールを拾いにいく。

「んー病み上がりで、調子は良くないのよね」

良一を挑発する。

「ふっ、やっぱこうこなきゃな」

そう言って、ボールを拾い、サーブのポジションにつく。

「ところで、この部員以外の人たちがいるけど、あんたが呼んできたの?」

「あっ?なんのことだ」

テニスコートの周りには知らないクラスの人とか、なぜかほかの部活の人とかも来てる。いつの間にか満員御礼になっていた。

「どうせ俺とお前の決着がつくかどうか見に来ただけだろ」

「ああ、そいゆうこと」

  ずっと決着がついてないからね。

確かはじめは、私と良一がなんとなく休み時間にテニスをしてて、結局勝負がつかないで休み時間が終わったんだっけ。その次が放課後、部活をそっちのけで本気の試合をやったけど、それも結局デュースを二十回くらいして、二人とも疲れて終わったんだっけ。確かその次もそんな感じだったな。

「いつの間にか有名な試合になっていたのね」

コートのフェンスの外には、もう人垣ができてる。私としては遊び感覚でやっているんだけどな。

「当たり前だろ。県大会一位の俺が、女子のお前にずっと引き分けてるってことで学校中が注目してるんだぜ」

「へー、それって単にあんたが弱いってことかしら?」

「そんなこと言っていられるのも今日で終わりだ」

しわを寄せる良一。

「そうね。あなたが弱いってことを証明させてあげるわ」

するとフェンスの後ろから、オオーっと歓声が上がった。

  なんだかんだでけっこう楽しいかも。

「調子に乗んなよ!」

良一がボールを高く上にあげた。

・・・・・・・


はぁっ、はぁっ・・・

「やっぱ、また・・決着・・つかなかった」

はぁっ、はぁ・・・息をするのがつらい、

「くそっ、しぶてぇな!」

もう何回デュースをしたことか。二人とも立つ体力、ラケットを持つ力も残ってない。

はぁっ・・・もう日が落ちて、あたりが赤く染まってきた。

試合は今、良一がまた点を入れてデュース。私がサーブを打つ番だ。でも、

  もう、動けない・・・。

「おい虹、次はお前が打つ番だぜ」

良一が寝たまま言ってくる。

「分かってるわよ。その前に立ち上がったらどう?」

空に向かって言う。

「うるせえ!お前が打たないんじゃあ勝負が続けられないだろ」

「なにっ?私のせいにするの」

「当たり前だ!」

「・・・・・・」

もう、話すのも疲れた。

空には雲が漂っていて、ゆっくりと流れていっている。

何年ぶりかしら、こうやって空を眺めるの。

コートがほどよく暖かく、硬くて気持ちよい。気づいたら、さっきまでコートの外にいたギャラリーもいなくなっていた。とても静かだ。

「なぁ、虹」良一がこっちを向く。「お前、夢中になってねぇだろ?」

「夢中?」

「そうだ。なんていうか本気でやりたくてやってないというか、流されてやっている、ていうか」

そう言われると、そんなような気もするが。

「そうね。あなたほど真剣にはやっていないのかな」

私としては、ただ体動かすためにやっているのが大きいかな。勝ちたいと思うのはのはその次。

そんな気がする。

「ちっ、何でこんなやつに勝てねぇんだよ」

腕で目を隠す良一。

「こっちは本気でやっていて、立てなくなくなるまでやっているのに」

「そうね、バカらしいわ」

こんな立てなくなるまでやっているなんて。おもわず笑みがこぼれる。

「ははは・・・ちっくしょ」

笑う良一。

「ははははは!」

そして高々に笑い始めた。

「ははは!」

私もつられて笑う。

「あははははは!バカらしいぜ」

何で笑っているのかわかんないけど、勝手に心の底から笑いがこみ上げてくる。

「はははははは!」

良一があんなに爆笑するなんて、めったにないのに。

「二人とも楽しそうね」

にゅっと、目の前に恵理の顔が出てきた。

「わっ、恵理!どうしてここに?」

「二人がどうなったか見に来たのよ」

ほらっ、と言ってジュースを置いてくれた。

「あっ、ありがとう」

そして良一のほうに行く。

「よお会長、俺の分はないの?」

「良一君はさっさと部活の計画書出してくれない?」

にこっと怖い笑顔で言う恵理。

「ちっ、厳しいな」

あっ、良一がへこんでる。

「まったく。こんなことしている暇あるならやれるでしょ」

ということで良一の分はないみたい。

「虹、大丈夫?またそんなになるまでやっちゃって。それにまだ病み上がりでしょ」

恵理が手をかしてくれる。

「ごめん。そうなんだけどさ」

体にむち打って起き上がるけど、なかなか力がはいらない。いたるところの筋肉が悲鳴を上げている。

「ううっ」

「無茶しないでよ」

なんとか立ち上がる。恵理の肩をかりて、ベンチに向かって歩く。

「虹にはやさしいな。会長さん」

恵理は何も言わずに私を支えてくれる。きっと、支えるのでギリギリなんだと思う。

「よいしょ」

なんとかベンチに座る。

「ありがと」

もらったジュースを飲む。乾ききったからか、スッと飲んだものが下りていくのがわかる。

気づいたら、一気に飲みほしていた。

「ずいぶん長かったわね」

もう日が落ちる時間だ。

「なんだかんだで長引いちゃった」

もう一度缶を傾けるけど、もう一滴もでない。

「帰りに買い物行く予定だったのにね」

恵理がため息をつきながら言う。

買い物?あっ!

「ごめん。忘れてた!」

  そうだ、家が燃えちゃったからいろいろと買い物に行かなきゃいけないんだった。

「やっぱりね。熱くなりすぎよ」

私の横に座る恵理。

「ごめん」

平謝りするしかない。

「まぁ、ケンカ売ってきたのは、どうせあっちからでしょ?」

良一に向かって指差す。

「ケンカ?人聞き悪りーな。試合だよ」

「どっちも一緒よ」

「ところでよ、俺にも手をかしてくれないか?」

良一が手を上げる。

「計画書出したらね」

ズバッと切り捨てる恵理。

「・・・ちっ」

良一の手がガクッと力尽きる。

「また、なんで病み上がりの日に試合をやろうなんて思ったのよ?」

良一に言う。

「対決は今日じゃなきゃできねぇんだ」

良一がなんとか力を振り絞って、上半身を引き起こす。

「いつでもできるでしょ?」

「バカ。ここのコート占領すんの大変だったんだぜ」

「ほかの人たちの練習に使ったほうがよっぽどいいと思うけど」

テニス部ってけっこう部員がいるから、コートがひとつ使えなくなると大変なのだ。

「わかってないな。たまには見取り稽古も必要なんだぜ」

「はいはい」

恵理はそういって聞き流す。

と言っても、恵理は良一が部員から尊敬されていることを知っている。だから、なんだかんだで部員たちも大丈夫なんだと思う。

「そんなことより二人とも、そろそろ校舎から出ないと閉められちゃうわよ」

恵理が、コートにある時計を指さす。うちの学校は7時になると校門を閉めてしまうのだ。

「もうそんな時間なの!?」

まだ6時くらいだと思ってた。

「ちっ、めんどくせぇな」

フラフラと立ち上がる良一。

 あっ、立ち上がった。

「さっさと着替えてきな。片付けは俺がやるから」

「あら、ありがと。でもその体でやれるの?」

どう考えても無理だと思うけど。

「明日の朝やるから気にすんな」

「朝って、早くこれるの?」

「早くこれるわけないだろ。朝の時間でやるんだよ」

「えっ、ああ、そうなのね」

つまり、ホームルームの時間でやるってことみたい。

恵理は何も言わず、ため息ついた。



もう夜の8時。普通の学生はもう帰っている時間だ。

「買い物してる時間ないかな?」

繁華街を歩きながら、恵理にちょっと聞いてみる。

「うーん、でもちょっとあるかな」

「なにがほしいんだ?」

なぜか良一もここにいる。

「生活に必要な物よ」

「ああ、燃えちまったんだっけ?」

繁華街はいつものように人がいて、ごみごみしている。そんな中、私たち三人は歩いている。

そのうち二人は歩くのが精一杯だけど。

「そうよ、あんたとの対決のせいですっかり忘れてたわ」

歩くたびに足に疲れがくる。

「俺のせいかよ」

良一は疲れを全然見せず、堂々と歩いている。でもよく見ると、足ががくがくと少し笑っている。

「対決はいいけど、ちゃんと忘れないでおいてよね」

恵理は表情一つ変えず、こちらを見る。

「ごめん」

たぶん、心の中ではだいぶ怒ってる。

「まぁ、虹が買い物行くって言ってても、俺は無理やり連れてってただろうけどな」

はははは、と笑う良一だが、恵理ににらまれ笑うのをピタッとやめた。

「ひさびさに思いっきり動いて、楽しかったわ」

すごい疲れたけど。

「生き生きしてるわね、虹」

「そう?」

顔を触ってみると、汗が肌にしみこんでベタベタしている。でも不思議と気にならない。

「気持ちいい汗だけど、お風呂に入ってすっきりしたいわ」

「それは言えてるぜ」

今度はかかかっと笑う良一。

「・・・今日は買い物はやめて、ちょっとそこでたこ焼きでも食べてかない?」

恵理がすぐそこの店を指さす。いつもの帰り道にあるビルの1階にある店だ。

「おっ、いいね」

良一は即答だ。

「私はいいけど、恵理は夕飯食べられるの?」

恵理は私より小食のはず。

「大丈夫。たこ焼きくらいなら」

けってーい、と言って恵理はズカズカと店へ行ってしまった。

「あっ、待ってー」

このたこ焼き屋は、帰りに買い食いするのにはけっこういい場所で、よく学校の人も寄っている。おなかがすいた帰り道、この店から漂うおいしそうな匂いがなんとも。

「ここ、うまいんだよな」

「私も」

恵理と良一がめずらしく意気投合してる。

「そこのベンチで食おうぜ」

店のすぐ近くにあるベンチに三人座って、たこ焼きを食べ始める。

「いやー帰りの買い食いはこれにかぎるぜ」

なんかおっさんみたいなセリフだ.

「そうそう。これにかぎるぜー」

マネする恵理。

恵理まで・・・。

「でも私は夕飯があるからほどほどにしないとね」

「そうね、おばさんが作ってくれてるはずだし」

食べ過ぎて夕飯食べれなくなったら失礼よね。

「ほんとお前ら、一緒に住んでんだな」

ちょっと不思議そうな顔をする良一。

「そうだけど、やっぱ変な感じよね?」

「ちょっとな」たこ焼きを口にほおる。「でも、これで本当に姉妹になった感じだけどな」

良一は笑いながらいうけど、冗談に聞こえなかった。

「まぁ、私もそんな感じするけどね」

実際、恵理とは付き合いが長いから姉妹と言われてもおかしくはないと思う。

「虹とは中学校時代から一緒だからね」

恵理はたこ焼きをほおばり、こっちをみる。

「気づいたら高校も一緒だったし」

  まさか恵理と同じ高校に入れるとは思ってもいなかったわ。

「腐れ縁だな」

「良一とはね」

「ふふっ、そうね」

恵理が笑う。

―――平和だな。

ぼそっと頭の中から聞こえてきた。

「ん?」

「どうした、たこ焼きの中に虫でも入ってたか?」

「んなわけないでしょ!」

良一がからかってくる。

  なにか、聞こえたような。

「虹、大丈夫?」

恵理が聞いてくる。

「あ、うん。やっぱこれおいしいわね」

最後のたこ焼きを食べる。

「さて、そろそろ帰ろうかな」



「もう夕飯できてるわね」

すっかり暗くなってしまった。街灯があたりを照らしている。たぶん8時くらいだと思う。

「早く帰んなきゃ」

恵理がちょっと歩くペースを上げた。

「そうね。初日から悪い子になっちゃった。おばさん怒るかな?」

「そうかもね。でも、半分は良一のせいだから大丈夫よ」

「そ、そうね」

  良一に付き合ってしまう私も悪いわね。

とは言うものの、結局いつもなんだかんだで付き合ってしまう私。

「まぁ、虹にはひさびさの街に出るのも大事だったし」

「うん、なんか新鮮だったわ。といっても、特に変化なかったけど」

とくに新しい店ができてるわけでもなく、私の記憶どおりの風景だった。

夜の住宅街はさっきまでいた繁華街とは全然違っていて、すごい静かで人通りも少ない。車道から離れているのもあるかも。

「そいやあ、まだあの放火魔はつかまってないらしいわよ」

恵理が言ってきた。

「そう・・・早く捕まるといいんだけど」

私の家が燃やされてから、放火事件は起こっていない。

もうこりてくれればいいんだけど。

「あれ、虹」恵理が恐る恐る話しかけてくる。「あそこ、なにか変じゃない?」

恐る恐る指をさす恵理。

「えっ?」

私も恐る恐る恵理の指先を見る。

街灯に照らされる道の先には右側は公園で、木が生い茂っている。左側は一軒家が並んでいるだけだ。恵理は左の家を指差している。

「なにも見えないけど」

「見て、あれよ!」

恵理の表情に焦りが見え始めた。

ただ事じゃない。しっかりと指先を見る。

「あっ・・・」

私たちの少し先の家から小さい赤い光りが見えた。

まさか!

よく見ると、うっすらと煙が上がっている。

「大変!」

急いでその家にかけつける。

「見えないわ、虹!」

塀があり、その内側には植木がしてあり、中が見えづらい。

「しょうがないわ!」

塀をよじ登る。

「やっぱり火がついてる!」

家の横にある物置のようなところ建物の地面から火が上がっている。

「さっきよりも大きくなってる!?」

下から恵理が叫ぶ。

徐々にその物置のような壁に火がまわってきた。

嫌な予感がする。

  こんなところで、燃やすはずがない、それにこの油のようなにおい・・・。

「もしかして・・・!?」

家の窓を見る。明かりがついていない。

「恵理、はやくこの家の人に―――」

「あははははは!」

「!」

家の裏のほうから笑い声が聞こえてきた。

「まさか!」

「虹、どこ行くの!?」

塀を飛び越え、庭に入る。

「はははははははははっっっ!」

「なっ!」

暗くてよくわからないけど、誰かいる。

笑いながら大きな入れ物から何かの液体をばらまいている。

「うっ!」

灯油のにおい!

嫌な予感が当たった。放火魔だ。

「こいつ・・・」

怒りと恐怖心が同時にこみ上げる。

「さぁぁぁてぇぇぇぇー!」

人影が液体が入った入れ物を投げ捨て、ポケットに手を入れる。

ゆっくりと気づかれないよう近づく。

シュッと音がすると同時に、小さな火が人影の手に現れた。

マッチ!?

足音を立てないよう、急いで距離をつめる。

「虹、どこに言っちゃったの!?」

  恵理!?

人影がこちらを向く。

「ちぃっ!」

マッチをおとした。

「あっ!」

ゴオッ!

「キャッ!」

火が勢いよく上がり、家の壁を一瞬にして赤くした。

火の勢いで軽く飛ばされ、尻餅ついてしまった。

「虹!」

恵理が駆けつける。

「恵理、来ちゃだめ!」

「ははははははははっっっ!!」

放火魔が塀を飛び越えていった。

「くっ、待ちなさい!」

立ち上がり、走り出す。

「わっ、なにこれ!?」

後ろから恵理の驚きの声。

「恵理、こっちは任せたわよ!」

そう言って、塀を飛び越える。

「えっ、虹っ、なんなのよ!?」

混乱の恵理。

「絶対に逃さないんだから!」

道に出る。左右を見る。

  いたっ!

さっきまで私たちが歩いていた道を走っていた。

「待ちなさい!」

放火魔がこっちを向く。

「ひぃっ!」

そして走り出す。

  遅いっ!

相手は思ったより速くない。徐々に距離が近づいていく。

「ちぃっ!」

左へ曲がった。公園の中へ入っていった。

  たしか、公園の中は行き止まりのはず!

追いつめたと思った瞬間、

「えっ?」

放火魔がこっちを向いた。

「このおんなぁぁーー!」

向かってきた。

うそっ!?

足を止める。

やつはなにかポケットから取り出す。冷たく光る銀色の刃、ナイフだ。

「殺してやるぅぅーー!」

ナ、ナイフ!?

急のことで足が動かない。

しかもそこそこ刃先が長く見える。。

先ほどの怒りが消え、恐怖心でいっぱいになる。

  に、にげなきゃ・・・。

逃げないと。もう目の前に来た。

「刺され、る」

動けない。腹にナイフが突き刺さる映像が頭に浮かんだ。

―――なに突っ立っている。

頭の中から声がした。

「はっ!」

足が動く。急いで横に飛ぶ。

「ちぃぃ!」

間一髪のところで、よけられた。

「はぁっ、はぁっ!」

  危なかった・・・。

―――バカが。死にたいのか?

また、頭の中から声がする。

混乱しているからかと思ったが、違った。

あなたね。その声は?

―――ああ。

た、助かったわ。ありがと。

―――まだ礼を言うには早いのではないか?

「死ねぇぇぇー!」

放火魔がまた、ナイフを振りかぶってきた。

「わっ!」

目をつぶろうとした瞬間、

―――右だ。

「右!?」

すばやく足を右に動かす。

ビリッ!

「キャッ!」

右の袖が少し切られた。

―――反応が遅いぞ。

わっ、悪かったわね!

でも助かった。

「こんのぉぉーー!」

また、ナイフを振り上げる。

―――後ろに一歩。

今度はビビらず、言われたとおりにする。

「なにぃぃぃ!?」

ナイフは空を切った。驚く放火魔。

  す、すごい。

私も想定外。

なんで動きがわかるの?

―――目や体の動きを見れば簡単だ。それに相手も動揺している。

「くそぉぉぉぉぉー!」

放火魔は焦りをあらわにする。

相手の目・・・。

もう怖がらない。

―――右だ。

ナイフを突きつける前に動けた。

続けて、ナイフを振りかぶる放火魔。

―――後ろに一歩。

すっと後ろに下がる。もう目は閉じない。

またもナイフは空を切った。

「なぜだぁぁぁ!?」

いらだつ放火魔。

  すごい。動きが何となくわかる。でも、よけるのでいっぱいいっぱいだわ。

―――いつまで遊んでいる?さっさとケリをつけろ。

えっ、ケリって?

―――朝までそうしているつもりか?

  そっ、そう言われても。

相手は、私よりも大きい男。私の力じゃ倒せるわけない。

警察を呼ぶにしても、携帯電話はかばんの中だ。かばんは追いかけるときに置いてきてしまった。この時間じゃまわりにひともいない。

「くそぉ、お前は何者だぁ!?」

―――来るぞ。

放火魔がやたらめったらに切りつけてきた。

―――後ろ。

―――右。

―――左。

彼の声のままに動く。

「なんでだぁぁぁぁー!」

面白いくらいナイフがそれていく。

―――テニスを見ていたが、お前は体が柔らかかったな。足もしっかりしている。

それがどうしたの?

「はぁっ、はぁっ!」

放火魔も疲れてきている。

「この、こむすめぇぇぇぇ!」

―――左。頭を狙え。足を使え。

  頭、足を使う?

放火魔もだいぶ大振りになって、なんとなく彼の声に頼らずによけられた。

どいゆうこと?

放火魔がナイフを後ろに引いた。

―――次、左。あと、回れ。

  回れって、あっ!

足と回れで、ふとひらめいた。

「死ねぇぇぇぇー!」

勢いよくナイフを突き出してきた。

足を左に動かす。そして、体を右にひねり、右足に力をのせる。

  思いっきり!

ナイフは空を切った。相手はゆらりとバランスを崩した。

今だ!

右足を浮かせ、腰をひねる。

「いい加減にしなさい!」

足を思い切り上げる。

「なっ、なにぃぃぃぃ!?」

バキャッ!

鈍い音が響く。私のかかとが放火魔の後頭部に直撃した。

「まわし、げり・・・だ、と」

ぐるんと回転して、倒れこんでいった。

「はぁっ、はぁっ!」

き、決まった・・・。

―――上手くいったな。

放火魔は白目をむいたまま気絶してる。

回し蹴りは良一がふざけているのを見た程度で、自分でやったことはない。

まさかここで役に立つとはね。今度良一に礼を言わないと。

「って、あれ?」

目の前がぐにゃっと、ゆがんだ。立っていられない。

ドサッ。

地面に吸いこまれるように倒れこんだ。

「疲れ、た」

体がピクリとも動かない。

  良一とフルで試合して、こんなことになれば無理ない。

目の前が真っ暗になった。

―――あいつも当分は目を覚まさないだろう。

そうね。それまでには恵理が見つけてくれるはず。

心の中で恵理に謝る。

  ところであなた、なんて呼べばいいんだっけ?

睡魔がおそってきた。

―――ケンジでどうだ?

「ケンジ・・・」

少しいろいろな思いがあふれたが、

  まぁ、いっか。ありがとう、ケンジ。

―――気にするな。大したことではない。

ケンジは礼を言っても、変わらず冷静。もう怒る気なんて全然ない。

目をうっすらと開ける。

空は真っ暗。そのなかで数個の星が負けじと光ってる。

  きれい。

地面が冷たいし、風も冷たい。

  ああ、疲れた。

参考資料

中村達也、中学社会公民 ともに生きる:教育出版株式会社

”水資源問題の原因”国土交通省、https://www.mlit.go.jp/                                            

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る