踊り場の踊子

@isa00

肉じゃが

 私は叫んでいた。

 「ねぇ、耕平! ねぇってば!!」

 外は土砂降り。私は傘をささずに、耕平を追いかける。彼が買ってくれたグレーのスウェットは雨で濡れ黒くなり、重くなっている。

 「ねぇ、まだ話は終わってないんだけど」

 「終わっただろ。今日はもう帰る。いつ電車が止まるか、分からないし」

 私がつかんだ腕を彼はいとも簡単に振り払い、最寄りの駅に向かう。彼は傘をさしている。

 私は呆然と立ち尽くす。いつもだったらすぐ仲直りするのに。


 今日の喧嘩の原因もいつもと同じ、ほんの些細なことだった。

 夕飯に何を食べるか。今日は彼の誕生日。私は初めて手料理を振舞うことを決めていた。

 男の人はみんな肉じゃがが好きらしい。検索エンジンに「彼女 手料理 好き」と入れると、肉じゃがかオムライスと出てきた。オムライスだとなんとなく手抜き感が出てしまうと思って結構即決で、肉じゃがにした。一週間前からクックパッドで作り方を調べ、昨日は近所のスーパーで必要なものを買った。

 今日は午前中にもう一回作り方のおさらいをし、午後から取り掛かった。彼のために料理を作っていると、自分がいい奥さんになった気がした。この先もずっと彼に料理を作ってあげられることを疑っていなかった。肉じゃがの美味しそうな匂いも相まって台所で一人、将来のことを想像してホクホクした気持ちになっていると、耕平は帰ってきた。

 「おじゃましま~す。あれ、すごくいい匂いする」

 「どうぞ。今日、耕平誕生日でしょ? 肉じゃが作ったの」

 私がそう言うと、彼の顔が曇った。

 「……もしかして玉ねぎ入ってる……?」

 「肉じゃがに玉ねぎは当たり前でしょ? 早く手、洗ってきて。用意しておくから」

 彼は動かなかった。

 「俺、玉ねぎ嫌いって言ってなかったっけ……火を通してべちゃべちゃになったやつは特にって」

 

 耕平が玉ねぎを嫌いなことを、私は知らなかった。そんなこと言ってたっけ。思い返してみると、耕平が牛丼を食べているのを見たことも聞いたこともない。男の人は牛丼を好んで食べる、それはステータスだと思っていたが、耕平だけは違うのだと思っていた。

 耕平は日本人男子の平均身長よりちょっと高めで、少しやせ型だ。俺、あんまりいっぱい食べても太らない体質なんだ。初めて二人で食事した居酒屋でそう言っていた。

 唐揚げの盛り合わせとウーロン茶一杯。うん、満足した、と彼は言った。私はビールが好きだったが、初めて二人で食事するとき女の子がビールをぐいぐい飲んで、終いに、おじさんのようにあーーっと言ったらさすがに私が男でも、引く。

 だから私は、唐揚げの盛り合わせと梅酒を飲んだ。頼むとき、これだけだと満腹にはならないなと思ったが、さすがに自分より多く食べる女子は好きではないだろうと勝手に判断し、彼が少なめに頼んだから私もそれに倣った。彼は、私に気を使って少なめに注文したのだと思っていたが、それから何回か一緒に食事しているうちに彼が少食であることを知った。

 何度目かの食事のとき、私は彼に言った。

〝もう少し食べたら? 耕平、細すぎだよ。私、細くてもいいんだけど、細いだけじゃなくて、私に何かあったとき守ってくれるような男らしい体型の男の子が好きなの〟

 ほんの出来心だった。耕平の体型は何かと心細いなと思っていたことは事実だが、別に私を守ってくれなくてもいいし、なんなら私が彼を守ってあげたいと思っていた。

 だけど私は彼の細さが心配になった。耕平は立っているとき、何に支えられて立っているの? 

 足? ふくらはぎ? 膝? 太もも? 

 私は彼に会うたびに、彼のことを不思議に思っていた。

 彼は動かしていた手をピタリと止め、私を見つめた。

 彼に見つめられたのはこのときが最初だった。当時の私は男性に見つめられるシチュエーションに夢見ていたのかもしれない。お互いに好きだと言い合って、唇が重なりあうコンマ何秒か前の、彼の顔にキラキラと光る何かが飛んでいるような瞬間。

 だけど彼の顔は想像とは違い、冷たくて触れたら壊れそうで、感情が見えなかった。


 「……あっ……そうだ……ったんだ」

 「うん。あと、もう友達と少し飲んできたから、夕飯はいいや」

 「え、だってまだ八時だよ。もう飲んできたの?」

 「誕生日祝ってくれるって。今日はたまたま定時で帰れたから」

 「……それなら連絡くれればよかったのに」

 「それはごめん。彼女の家行くから行けませんなんて、言えないじゃん。せっかく友達が誘ってくれたんだから」

 「……友達と飲んでるって少し連絡すればいいでしょ……」

 「彼女に連絡するって言ったら、冷やかされるの目に見えてたし。そういうの、嫌なんだ」

 そういうの、嫌なんだ。

 そういうのって、何?

 冷やかされることが嫌? それとも、かわいくない私が彼女だから?

 私の中で何かが切れた。世間で言われる「キレる」とは違う、もっと概念的な部分が切れた。

 「……だったら、彼氏、やめれば?」

 「え?」

 耕平は、いつも起きているんだか、寝ているんだか分からないほどしか開いてない瞼を大きく広げている。私は彼の瞳を初めて見た。耕平の瞳に何とか吸い込まれないよう、足を踏ん張る。

 「あたしじゃないほうがいいんでしょ? 冷やかされるのが嫌って、あたしが‶冷やかされるのが恥ずかしい彼女〟ってことでしょ?」

 「そういうことを言ってるんじゃないよ、俺は。冷やかされること自体が、嫌だって言ってるの。全然恥ずかしい彼女なんて思ってないから」

 「好きだったら、冷やかされても我慢しなよ。冷やかされるのが嫌だったら、彼女作らなければいいじゃない!」

 「面倒くさいのが嫌なんだよ! お前だって面倒な場面、いっぱいあるだろ?」

 「それはいっぱいあるよ! 女の世界なんてね、面倒なことが数えきれないほどあるわ! 何も考えなくてものうのうと自由に生きられる男の世界とは全然違うんだからっ!」

 「男だって、上司と嫌な飲みに付き合わされたりな、ほいほいと乗せる苦労があるんだよ!」

 言い合いが終わると、目も合わせず沈黙した。私は言い過ぎたことを後悔した。耕平もそうなのかな? ちょっと反省しているのかな。

 私は少し顔を上げ、耕平の顔をちらっと見てみる。

 耕平は、今私がしているであろう表情とは違った顔をしている。

 あ、終わったな。私は悟った。するとさっきの私とは違うように言葉がスルスルと出てきた。

 「ごめん、耕平。ちょっと私、言い過ぎた。じゃ、じゃあさ、耕平の分には、くたくたの玉ねぎを抜いてお皿に盛るから。食べよ? 私、お腹すいちゃった」

 今、私ができる最大限の、配慮。喧嘩のことなんか気にしてないし、もはや、喧嘩なんてありました? っていう風に装う。

 「少しでも食べてくれたら、私も嬉しいっていうか。耕平が外で食べてきてお腹がいっぱいなのは分かるけど。あっ、でも、無理に食べなくても、タッパーに保存して冷蔵庫に入れておくから。お腹空いたときにレンジでチンして食べて。」

 私の口は止まらなかった。部屋の中の冷たさと湿っぽさを取り払うように。耕平との関係性についての不安を取り除くように。喋っていないと、腹の底に冷たくて重いものが落ちてきそうだから。私はそんなものでお腹を満たしたくなかった。私は台所の無機質な壁に向かって、しゃべり続ける。

 「私、耕平の誕生日だからって、頑張ったんだからね。この肉じゃが作るのにも、結構時間かけて調べて、準備して。クックパッドって便利だよね。簡単に作れるレシピをすぐ教えてくれるし。私、普段からあまり料理しないから、簡単に作れるって言われても、手間取ったりしたけど。きっとおいしいと思うから、食べてみ……」

 ガチャ。

 私の耳に届いた。良くないことが起こりそうな音。

 私は玄関の方を向く。

 暗闇の世界に歩く耕平。私の知らない世界に出ていく耕平。

 手をどんなに伸ばしても、掴めそうにない真っ暗な闇と、この無駄に明るい部屋の中を分断するようにドアがゆっくり閉まる。

 バタン。


 思考が停止する。外では相変わらず、土砂降りの雨が降っているようだ。閉めきった窓に当たる雨粒の音、地面に叩きつけられる水の粒の音が、サラウンドとなり部屋の空気を揺らす。

 私は次第に落ち着きを取り戻す。今、自分が置かれている状況を判断しようと試みる。

 私は耕平のために、肉じゃがを作っていた。

 「ために」ってなんか上から目線なのかな。じゃあ、なんて言おう。耕平が好きそうな? それだと嘘だ。男子が彼女に料理してほしいものから探したし、なんなら耕平、嫌いって言ってたか。違う、嫌いなのはくたくたの玉ねぎか。

 そんなことは全部どうでもいい。

 耕平の玉ねぎ嫌いが発覚して、しかも夕飯を外で食べてきた、と。私はそれくらいのことで怒らない。問題はその対処の仕方。

 一言、連絡をくれればよかったのだ。「外で友達と食べたから、夕飯いらないよ」って。連絡くれたときにはもう遅かったとは思うけど、それでも、連絡くれれば納得できる。

 連絡をしなかった理由が「冷やかされるのが嫌」。どういうことよ。彼女がいない人から見たら、そりゃ冷やかすよ。それもそれでおかしいけど。

 世の中、恋人がいれば勝ち組認定される風潮があるから。君さえいれば何もいらないって、普通に考えればおかしいよ。君がいたって生活するためには、色々必要でしょ。なのに、ああいうラブソングって意外とキュンとするんだよね。

 いかんいかん。また道から外れている。私、ちょっと、今日、おかしいな。こんなに考え事があちこちに飛ぶことなんて中々ないのに。

 冷やかされるのが嫌なら、付き合わなきゃいいのに。

 そういえば、耕平から好きって言われたこと、ないかも。普段から言葉数少ないけど、好きだったら好きって言ってほしいな。本当は私のこと好きじゃないのかな。

 私も反省しなきゃいけないことがある。全然、耕平のこと考えてなかった。面倒なことなんて生きていれば、ため息が出るほどある。その数を競ったって見苦しいだけだし、解決にはならない。

 あぁ……こんなはずじゃなかったんだけどな……。耕平を追いかける気力も体力もないし、この土砂降りの雨がさらに身体を重くする。

 今日で終わりだな。私の心の中のハート形をしたネオンがぷつりと消えた音がした。


 —ブーッブーッブーッ……

 ん? 私の携帯が鳴ってる? いつもはバイブレーションに設定してないはずなんだけど。

 テーブルの上に目をやると、持ち主を探すように健気に震えている黒い塊が置いてある。耕平の携帯だ。

 なんでこんなところに置いていくかな。というか、いつこんなところに携帯を置いたのよ。

 現代人は携帯を持たないと生きていけない。大げさに聞こえるかもしれないが、割と本当だ。

 昔の携帯と比べて性能が飛躍的に上がり、機能も大幅に増えた。ネットショッピングやキャッシュレス決済、公共料金の支払いまで、携帯一つで可能になりつつある今、まるで「大人のおしゃぶり」となっている。

 画面には「齋藤さん」の文字。どちら様の齋藤さんなのか。心が少しざわっとしたが、私にはもう関係ない。この「齋藤さん」が女性であろうとなかろうと。

 もう自分と関係がないことが分かっていても、やっぱり気になる。齋藤さんのことじゃなく、この携帯の持ち主のことだ。

 相変わらず部屋の中に雨が打つ音が響き続けている。しかもさっきより音が大きくなっている気がする。遮光カーテンに近づき、外を眺めてみる。雨の量が増えているのか減っているのか分からないが、家の下にある道路では、傘をさす人々が足早に帰路につこうとしている。

 私はさっきまでテーブルの上で震えていた携帯と、その携帯よりも少し小ぶりの私の携帯を同じカバンに入れ、家を飛び出た。傘をさすことさえも煩わしい。雨で濡れないようにぎゅっと抱きしめながら、街の光を反射して一見煌びやかな道を、足元に気をつけながら走った。


 最寄りの駅に向かう人、最寄りの駅から出てくる人に、私の体に穴が開くのではないかと思うほど見られる。ある人は心配する表情、ある人は好奇の目、ある人は私と耕平の一部始終を見ていたのか、憐れむような口元を私に見せている。

 自分の姿を自分の目に映す。これ以上濃くならないというほど雨で染まったスウェット。足元はいつも履いている、少し汚れていた白いコンバースのスニーカーが、雨で洗われて、黒光りしたコンクリートの道によく映えている。私の髪から滴り落ちる水滴は目に入り、無情にも私の視界をぼやけさせる。

 私は泣きたいのに、雨が先に頬を伝う。

 私は叫びたいのに、雨音にかき消される。

 雨に濡れて、心も体も冷えた私は、家に帰り、誰からも必要とされることのなくなった肉じゃがを温め直し、食べる。肉じゃがって、こんなに温かく包み込んでくれるのか。男が好きな、彼女に作ってもらいたい手料理に肉じゃがが挙げられるのが少し、分かる。

 私も肉じゃがみたいな、温かく包み込む彼女に将来なれるかな。いや、肉じゃがみたいに包み込んでくれる人と出会いたい。肉じゃが肉じゃがって、私、バカみたい。

 私から漏れる息が器の中に滑り込むと、いい匂いのする温かな湯気がもわっと広がり、私を隠す。こんな私を守ってくれる肉じゃがに、私は「ありがとう」とつぶやいた。

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