レコグナイズ・ミー
珊瑚
プロローグ/第1話 凛side
"私は誰でもない人! あなたは誰?
あなたも——また——誰でもない人?
それならわたし達お似合いね?"
(エミリー・ディキンソン(1998)「I'm Nobody! Who are you?」『対訳 ディキンソン詩集』、亀井俊介訳、岩波文庫より)
"事柄はなんでもよい、何か唯一絶対というような経験をすると、諸君は諸君自らの眼に、生き残りの人間という風に映るであろう。"
(E.M.シオラン(1976)『生誕の災厄』出口裕弘訳、紀伊國屋書店より)
* * *
写真が嫌いだ。
小さい頃、両親は私を熱心に撮影していた。父親は張り切って一眼レフを買ったそうで、些細な外出にもカメラを必ず持ち歩いていたらしい。当時は私も撮られることに抵抗は無く、無邪気にレンズを見つめていた。写真が溜まったら、フィルムは現像される。触るとペタペタする写真を母は、ハサミを入れたり、折り紙を使ったりと工夫しながら、時間をかけてアルバムに収めていた。いつでも凛が見返せるようにね、と母は言っていた。だが今となっては、その写真を見るのがひどく苦痛だ。
* * *
夏、蝉時雨、強い日差し。どんよりとした梅雨に代わって、いつもの茹だるような暑さがやってきた。下校時刻になっても、蒸し暑さは相変わらず。木陰にいるというのに、額に汗が浮かぶのを感じる。アスファルトの熱気が、じりじりと肌を焼く。野球部の男たちの掛け声が、暑苦しさを加速させる。暑い、暑すぎる。これが温暖化の影響だとしたら、地球はもうすぐおしまいだろう。
とりあえず水を飲み、ハンカチで汗をぬぐう。スカートをお行儀よく振って、中に空気を送る。脚には自信があるから、少しだけたくし上げるようにしてみる。
ちらりと隣を見ると、残念なことに、
その千愛の顔にも汗は滲んでいて、今、つーっと、汗の粒が頬を伝っていった。暑さにとろけたような目と、ほんのり紅く染まった頬を見ていると、私の喉がゴクリと鳴った。
千愛はピンクのタオルをカバンから取り出し、汗をぬぐうと、顔を手で扇ぎ始める。
私は千愛のこの仕草が好きだ。白くてしなやかな指が、上下にたなびく。風を浴びて、千愛の頬が少し緩む。ウェーブのかかった髪が、ふわふわと風に揺れる。
千愛は私が見ていることに気付いて、軽く微笑んだ。固まった表情筋では苦笑いしか返せなかったが、千愛は満足そうな顔をして、今度は水を飲み始めた。柔らかそうな唇が、水を飲み込んでいく。こく、こく。細い喉が動く。
悶々とした気持ちが膨らんでいくのが分かったので、私は目をそらした。視界の先に、四人くらいの男子グループがいて、全員がじっとこっちを見ていた。正確には、千愛を熱心に見つめていた。気持ち悪い人たち。暑くなってくると、薄着になった千愛を凝視する輩が多くて困る。男どもは私の視線に気付いたのか、さっと目をそらして帰っていった。私はクラスメイトにとって、「面倒なやつ」だから、あいつらも関わりたがらない。
千愛は可愛い。だから、とても人気がある。でも、千愛自身は人見知りだから、私以外にはめっぽう弱い。男に強く迫られたらきっと断れないだろう。私が千愛を守らないと、千愛が嫌な目に遭うかもしれない。
「小山内さん、何か嫌なことがあったらすぐ言ってね」
千愛はきょとんとしていたが、すぐに「うん」と頷いた。
千愛はいつもと同じく、私を寄り道に連れていくようだった。校門前の木陰で休んでいるのは、それが私たちのルーティンだからだ。別にそう取り決めたわけではない。最初にそうしたから、今もそうしているだけ。それだけの理由で、今日もそうしている。
でも、この暑さでは木陰も役に立ちそうにない。早めに切り上げた方が良さそうだ。
「今日はどこ行くの?」
革カバンを持ちあげながら聞くと、いつものところ、との返答。千愛が歩き始めたので、私もついていく。
「また本屋? 一昨日行ったじゃない」
「いやいや。一昨日は『おねこい』の発売日でしょ。それで今日は『おやあま』の発売日」
そんなことも知らないの? とでも言いたげな目。千愛は重度の「百合」愛好家だ。性格はごく普通の女子高生だが、百合に関してはオタク並みの知識量を誇る。『おねこい』とか『おやあま』が何の略かは知らないが、どちらも百合マンガなのだろう。
「それに今日はアンソロジーも買わないと! フォロワーさんに教えてもらったんだ」
「へー。Tuitter?」
「そうだよ。凛、まだはじめてないの?」
「向いてないから」
私はSNSには馴染めず、アプリを入れてもすぐ消してしまった。あの騒がしさが私には耐え難かった。他人と無意識で直結するような、感情が際限なくなだれ込んでくるような、あまりに広い世界は、私には受け入れ難かったのだ。今、アプリは千愛と連絡をとるためのLIMEくらいしか入れていない。
「今時SNSやってない高校生とか凛くらいだよね」
「かもね」
校門を抜け、駅へと向かう。
千愛は自分の母親がいかに怒りっぽいかを話している。千愛は私と違って、両親と仲が良い。
相槌を打ちながら、周りに目を向けてみる。
いつもの道、いつもの風景。
くだらない光景は、今日もモノクロ調に見える。
その中で色を持っているのは、千愛の周りだけ。
私の生きがいは、千愛に出会って以来、全て彼女に収束している。
でも、千愛は私だけのものじゃない。千愛は人気者だ。可愛くて、愛想がいいから、多くの人が狙っている。だから私は、いつも通りでいることに焦りを感じていた。
ただ、行動を起こすだけの勇気が持てない。告白された千愛がどんな反応をするか。想像するだけで、背筋が凍るようだった。
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