被写体

 横断歩道の向こう側、学ラン姿の少年が、顔の前でカメラを構えていた。レンズはこちらを向いている。今どき、スマートフォンではなく一眼レフなんて珍しい。そう思ったのは一瞬で、私はあることに気がつき数歩後ずさった。

 何を撮っているのだろう。周囲を見回しても、被写体になるような特別な何かは見当たらない。

 他の道を行こうかという考えが頭をよぎったが、職場へのバス停はもう目と鼻の先だ。毎朝のことではあるが時間に追われている私には、この横断歩道を渡るより他ない。きっと自意識過剰なのだと自分に言い聞かせるが、どう見ても少年のカメラは私を中心に捉えている。ささやかな抵抗として電柱の陰に隠れて様子を窺ってみて、ようやく私は安堵した。少年は、私が隠れてしまっても、同じ姿勢を保っていた。

 私を撮っていたのではなかった。

 ホッと息をついたのと同時に、信号が青に変わった。私は自分の狼狽ろうばい具合を笑い飛ばしたい気持ちすら感じながら、横断歩道を渡り出した。清々すがすがしい風が横から吹き付け、あっと思う間もなく、私の身体は宙を舞った。急速に現実感が失われていく中で、急ブレーキによって車道の削られる、焦げた臭いが鼻をつく。

 全身の痛覚が悲鳴を上げ始める直前、シャッターの切られる音を、聞いた気がした。

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