【第七章】いつか還る場所
ジャズフェスティバルは夜まで続いていた。ちょっとした出店の食事を貪りながら、健太郎たちはその音色に酔いしれていた。上手くできたつもりはあった。出し切った感覚はあった。今できる百パーセント以上、出せたとは思っている。
だが――
「プロってやっぱり凄いよなぁ」
健太郎はしみじみ呟く。もうアドリブがとにかく格好良いのだ。手数もあって、しっかり繋がっていて、そこに物語がある。モーニンのようなスタンダードナンバーを聴けば地力の違いが嫌でも理解できて、オリジナルの楽曲を聴けば、その新しさに面食らってしまう。
「マジ、恥ずい。イキってグリップ変えたのが、プロを見ると死にたくなる」
「いや、でもあれ格好良かったと思うよ」
「慰めはやめてェ」
顔を真っ赤にして俯く初音は反省の真っただ中であった。まあ、プロの技を見れば自分たちが劣っていることなど明白。まだまだ感性がどうとか言うレベルじゃないよ、なんて教えて頂いているような圧倒的敗北感に包まれていた。
「楽しかったねえ」
「うん」
「まあ、それは否定しない。楽しかったァ」
うん、と伸びをする初音。三人は誰が言うでもなく少し場所を移す。
「せつばあ、凄かったね」
「あれはマジで怪物。よくもまあ、あの後にきっちり弾けたわね。私だったら死にたくなって逃げてたかもしんない。それぐらい凄かった」
「いや、あれはばあちゃんなりのアドバイスだったんだと思うよ。ああ来たらさ、もうああ返すしかないだろって感じ。まあ、正直弾き始める前は死にたくなったけどね、ははは」
「健太郎、格好良かった!」
「まあ、今日は褒めてあげても、良いとは、思わなくも、ない」
「あはは、ありがと、二人とも。でも、今日は全員良かったと思うよ。実力不足は仕方ない。僕らにはまだ、足りないものがいっぱいあった」
「だねえ」
「確かに」
「だけどさ、今できる全部は出し切った。全員、出し切れた」
それは最高の結果だ、健太郎が言い切らずとも三人とも思いは同じであった。
「「「…………」」」
そして、続きの言葉が言えないのもまた、同じ――
「探したわよ、健太郎」
だが、そんな無言は青柳綾子の登場で終わりを告げる。
「健太郎、あんた次の次の便で帰りなさい。次の便は私が帰るし一緒はやだ。休学に関しては私の方で取り消しといてあげるから、感謝するように」
唐突な、終わり。
「待って、母さん。まだ、もう少し――」
「もう充分休んだでしょ。あんたが何をやるにしても、音楽で食べていく以上、これ以上の遅れは許されない。この業界、のんびり待ってくれるほど甘くないわよ」
「それは、そう、だけど」
そう言って綾子は船のチケット引換書を健太郎に渡す。もうお金は払っている証明であり、否応なく期日が突き付けられてしまう。
「あと、貴女が真生ちゃんね」
「は、はい」
「貴女、私が面倒見てあげるから島を出なさい」
「え⁉」
「親御さんともさっき話した。貴女が望むなら、その通りにしてくださいっておっしゃっていたわ。貴女には才能がある。でも、その才能はこの島で輝くものではないの。そして、島の中にいて島の外にまで轟くほどのものでもない。特別な人間はこの世界、思ったよりたくさんいるわ。私の目に留まったのは貴女の運、使うかどうかは貴女次第」
言いたいことを言い切って綾子は彼らに背を向ける。
「時間は有限よ。ガイドは後からでもなれるかもしれない。でも、音楽家は今スタートしないとなれない。今でさえ、遅すぎるぐらいなの。返事、待っているわ」
そして、嵐のように去っていった。
健太郎の手には帰りのチケットが、そしてマイマイにはこの島から出る道しるべが、与えられた。初音は、静かに歯を食いしばる。自分には、何もなかったから。
自分ではついていく資格がないと、突き付けられた気がしたから。
○
「……店で何やってんだクソガキ」
一応、店の戸締りだけ確認しておこうとやって来たミッチの視線の先に、店の隅でうな垂れる初音がいた。
ちょっと前に戻ってるじゃねえか、とミッチは心の中で叫ぶ。
「どうした、なんかあったか」
「……私、才能ないのかなぁ」
「まーたそれか。才能なんてもんを語るレベルじゃねえことは今日嫌と言うほど理解しただろうに。考えても無駄だ。今日は帰って寝ろ。お前らはよくやったよ」
そう言われても動く様子の無い初音を見て、ミッチはため息をつく。
「健太郎がね、次の次の便で帰っちゃうんだ」
「まあ、いつかは出て行くさ。あの子はまだ、ここに腰を据える時じゃねえ」
なるほど、気になっている男の子がいなくなるのが寂しいのか、とミッチは理解する。そういうのは相談されても困るんだが、と思ってはいるのだが、さすがに口には出さない。
「あと、世界の青柳綾子に、マイマイが、誘われてた」
「ぶっ⁉」
そういうのはこっそりやれ、とミッチは綾子を心の中で罵倒する。まさかバンドメンバーの前で堂々と引き抜きをかけてくるとは、ミッチをして想像の外であった。これだからソロでやって来た人間は、とミッチは歯噛みする。
「この島に残るの、私、一人」
しょぼくれている理由は明白。たった一人残されることに耐えられない、と言ったところか。まあ、こう言うことに関してはミッチにも思うところはある。
「……今度、腕前が上がった時に渡そうと思っていたんだがな」
ミッチが懐から一枚の名刺を取り出す。それを初音に渡す。
「今日、お前さんたちの演奏を聴いたプロの一人の名刺だ。もう少し腕上げて、かつ『音楽』で勝負する気があったら連絡してくれ、だとよ」
初音は、名刺を見て、顔を上げる。
「バンド宛じゃなくて、私宛?」
「そうだ。あそこでグリップを持ち替えるセンスと器用さが気に入った、とよ。ちなみに賛否はわかれているからあんまりするな。奇抜なのは実力が伴ってから、だ」
「私、宛……私も、認めてもらえた」
「あくまで光るものがあるって評価だ。腕を上げてからって条件付きでもある。まあ、それでもお前さんのプレイが引き寄せたコネだ。生かすも殺すもお前次第――」
「やったー!」
耳をつんざくほどの咆哮。コロコロと忙しい奴だ、とミッチは顔をしかめる。
「まあ、ソロはともかく全体的にみんなからの評価は高かったぞ。一番の評価点は、しっかり全員を支え切ったこと。基礎がしっかりしていたことだ。これはまあ、誰に感謝すればいいのかなんて、俺が言うまでもないわなぁ」
ミッチの言葉に顔を真っ赤にする初音。
「そ、そーいうのじゃ、ないし」
「はいはい。つーわけで今日はいい夢見ろ。これで気持ちよく眠れるだろ」
「うん、じゃあ、またね、ミッチさん」
ウキウキとスキップしながら帰っていく様は、本当に子どもの頃と変わらない、とミッチは苦笑する。自分も随分と島に馴染んだ。
絶対になるまいと思った大人になった。
だが、それも悪くないとこの歳になって思う。ミッチは一杯だけ店の酒をグラスに注ぎ、空の彼方にいるであろうかつての仲間たちに向けて乾杯を捧げる。
「もうちょいでそっちに行くから、そうしたら久しぶりに『音楽』やろうや」
今日、彼らのおかげで無念が一つ、晴れた。いつかまた、仲間たちと共にあれをやろう。きっと、全く違う景色が見られるはずだから。
○
健太郎は母の見送りに船着き場へとやって来ていた。どうせ母のことなので最後に乗るだろう、と高を括って遅めに来たのだが、ものの見事に予想は的中、半分以上の客さんが乗り込んだと言うのに待合所で微動だにせずスマホを弄っていた。
「もう乗ればいいのに」
「あら、健太郎、何しに来たの?」
「見送り、あっちにばあちゃんもいるよ」
「あっそ」
何とも味気ない反応であるが、いつものことであるので特に気にならない。むしろべたべたされる方が、何が起きたのかとビクビクしてしまうだろう。
「母さんはさ、この島が嫌い?」
息子の質問に、綾子はスマホから初めて目を離す。
「好きとか嫌いとかじゃない。自分にとって必要なものがあるかどうか。今の私にとってこの島で得られるものはない。だから去る、それだけよ」
「そっか」
「この島に住む気なら、終の棲家にするつもりじゃないとね。私は『まだ』、立ち止まる気はない。まだまだ全盛期、私は誰にも負けない。当然、あんたにもね」
まだ、その言葉に未練が滲んだ気がするのは、息子の気のせいであろうか。
「光栄だね、母さんに意識してもらえるなんて」
「路傍の小石程度だけど。まあ、挑戦してくるなら容赦しないわよ。踏み潰して、粉々に砕いて、塵にして、海に撒いてあげるから」
「息子に言うセリフじゃないでしょ」
「母が憎ければ這い上がってきなさいな。何度でも吹き飛ばしてあげるから」
「……憎いと思ったことはないよ」
「あら、不思議ね。私は母親のこと、滅茶苦茶憎んでいたものだけど。じゃ、ばいばい。次に会う時は、ババアの援護なしに殻、破って見せなさい」
「うん、わかった」
そう言ってあっさりと青柳綾子は息子に背を向ける。いつだって、息子が見ていたのは背中だった。愛されているのかどうかなんてわからない。
普通の親子もよくわからない。
でも、健太郎にとってこのかっこいい背中は、いつだって自慢であった。
「いってらっしゃい」
「バーカ。それはね、この島にずっといる奴が言うセリフよ。あんたにゃ百年早い」
颯爽と綾子は去っていく。その背に未練は、微塵も垣間見えない。日本でも指折りのピアニストである彼女にとって、止まり木に戻ってくるのは遥か先のこと――
「いってらっしゃい」
小さな声、しかし、綾子が聞き逃すはずのない、あの人の声。
ぐっと唇を噛み締めて、揺らぐことなくまっすぐ進む。息子が見ているのだ。今まで以上に強い足取りで邁進せねばならない。それが、きっと親の役目だろうから。
「……いってきます」
誰よりも厳しい人だった。誰にでも厳しい人だった。それが大嫌いだった。自分にだけ厳しければ、それでよかったのに。本当に大嫌いだ、と綾子は哂う。
あの鉄のような背中が、いつだって自分を導いてくれた。
親子二代、何だかんだ同じやり方で子を育てているのだから、血は争えない。
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