それぞれの『音楽』
「え⁉ ばあちゃん⁉」
「道夫君に頼まれてしまったので、まあ、ジャズには良くあることですから」
「べ、ベースありで叩いたことないんだけど、私」
「み、右に同じ」
本番直前、フェス参加者からベースを借りた青柳節子が急遽、彼らと一緒に演奏する旨を伝えられた。
確かにジャズでは飛び入りなどよくあること。色んなプレイヤーが出たり入ったり、音が入れ代わり立ち代わり変化するのもまたジャズの妙味であろう。
それでも、ジャズの演奏は初舞台である彼らにはきついアドリブであろうが。
「私は支えるだけですので、いつも通り演奏してください。合わせますから」
そう言われても、と戸惑う三人。
「大丈夫だクソガキども。気分よく演奏してこい。腕のいいベーシストがいればクソほど演奏しやすくなるから、な。やっぱジャズにはよ、ベースの音がないとな、がっはっは!」
笑うミッチを三人が睨む。つい先日島に来たプロならばともかく、ずっと同じ屋根の下にいた節子が参加するならば、それこそいつでも一緒に練習できたはず。
どれぐらいの力量か、どういう音を出すのか、まるでわからない状態では――
「これもジャズだ。楽しんで来い、クソガキども」
どん、と背中を押されて無理やり舞台に上がる三人。節子だけはニコニコといつも通り柔和な笑みを浮かべながらゆったりと歩む。
「お、高校生来たぞ!」
「マイマイだ!」
「初音先輩、マジクール」
「あ、あいつ、珍獣だ、外来種のニートがいるぞ!」
「高校生バンドなのに、せつばあがいるんだけど、なんで?」
半分は歓声、半分は戸惑い。ちぐはぐな面子に、島民たちの表情は何とも言えない感じになっていた。マイマイ、初音の地元高校生だけならば、この時点で大盛り上がり間違いなしだったのに、ここで健太郎と節子が入ることにより、水を差すことになってしまった。
この空気感、プロたちは顔をしかめる。ライブにおいて空気感とは非常に厄介な魔物なのだ。一度、発生した空気は伝播する。
戸惑いの空気、何とも言えぬ、もやもや。
そんな様子を睥睨しながら、
「ったく、ほんっと、ムカつくババアよね。孫のためなら一肌脱ぎますってか」
青柳綾子は眉間にしわを寄せていた。
「私が弾けって言っても、頑として弾かなかったくせに」
娘である彼女、そして一定層以上の歴の長い島民たちは――
「ほんと、ムカつく」
様々な表情をしていたが、眼の奥だけはキラキラした色が、あった。
全員目配せをして、ピアノから演奏が、始まる。
「わっ、これ、知ってる!」
誰もが一度は耳にしたイントロ。このインパクトこそ『モーニン』の真骨頂。ダ、ダ、ダ、ダダ、ダーダ、と聞こえた瞬間、もう耳は演奏に向かっている。
曲の強烈な引力、そして、演者たちのレベルも高い。
「おー、ドラム、一丁前にレギュラーグリップか。いいねえ。きちんと叩けてる」
ビートを刻む海老原初音のドラムからは、以前のような不安定さは消えていた。夏を経て、秋を経て、彼女はようやくリズムを身体に染み付かせることが出来たのだ。
もう、曖昧なリズムなど刻まない。明確に、明瞭に、皆を支える。
それがドラムの妙味だと、師匠に教わったから。
「ピアノ、あれクラシック上がりでしょうね。あの年で、あのレベルは」
「だろうな。一発でわかる技術があるわ」
プロも唸る青柳健太郎のピアノ。
出だしのインパクトはピアノの技量と言ってもいい。そこを完璧に惹きつけ、聴衆を引っ張った力はさすがの技量。技術は間違いなくプロ並みにある。数々のコンクールを制覇し、幼き頃から神童と持て囃された実力に間違いはない。
「…………」
しかも、そこに弾むような何かがある。まだ、硬い殻に覆われているが――
「マイマイすげー」
「はー、こんなに上手かったかね、マイマイって」
ただテーマを吹いているだけ。それなのに華がある、圧がある。出だしで理解できる。これはもう、ものが違う、と。
聴衆も、プロたちも、目を見張る。
早くペットのパートが聞きたい。彼女のアドリブを味わいたい。
そう思わせるプレイである。
そしてもう一つ、目立つことはないのだが――
「……あのベーシスト、クソ巧い」
「まあ、見たまんま子どもの中に大人が混じっているんだけどな、きっちり全員支えていやがる。怖いぐらい、どっしりとな」
プロにだけわかる玄人の業。バンド全体の音を底で支える太い音。間違いなく素人のそれではない。長く、太く、年月を積み上げた巨木のような安定感である。
それは聴いている者よりも、その中にいる者の方が理解できてしまう。
(ばあちゃん、すげえ。こんなにも、弾ける人だったのか)
孫である健太郎は驚いていた。もう、一音目から鳥肌が立つほどに違う。三人でやっていた時よりも音を乗せやすい。ベースだから、と言うのもあるだろうが、彼女だから、と言うべきなのだろう。ここまで違うのか、と健太郎は驚愕していた。
(気ン持ちいい!)
マイマイは今までになくのびのびと吹けていることに、驚きと感動を覚えていた。一人の時よりも二人の方が楽しかった。二人より三人の方がもっと楽しかった。四人になって、もっともっと楽しくなってしまった。
ちょっと、後ろ髪を引かれてしまうほどに。
(叩きやすい、なんてドラマーが思っちゃいけないんだろうけど)
本来、自分が皆にそう思わせなければいけないのに、まだ足りないからベースに持っていかれてしまう。少し歯がゆくて、それ以上に叩いていて楽しい。
(負けるか!)
だん、テーマの尻を初音はドラムでもっていく。
「お、珍しいな。ドラムからいくのか」
モーニンの王道と言えばトランペットから、になるのだろうが今回はドラムソロから一気に攻める。激しく叩くだけがジャズドラムではない。静謐さの中にこそ神髄がある、なんて偉人も言っていた。でも、申し訳ないが自分はまだ高校生の若造。
その妙味を理解できるほど、大人ではない。
「ヒュー、激しいねェ」
「いいぞ、もっとやれ!」
中学時代、希望を胸に外の世界へ旅立った。
背が高いだけが取り柄だった自分にとって魔境のような世界が広がっていて、何度もくじけそうになったがこらえて、耐えた。三年生になって強豪校のレギュラーを掴み、エースを盛り立てながらも居場所を築いた。守った。
でも、高校に入って、生え抜きであった自分たちよりも桁外れに上手い子たちが、全国から特待生という形でやって来た。中学時代のエースでさえ、下に回るほどの子たち。勝てるわけがない。敵うはずがない。丁度ケガをしたから、逃げ出した。
引き留めてくれる人はいなかった。
腐っていた自分にミッチが逃げ場をくれた。そして何よりも、もう一度自分に厳しい言葉をかけてくれる人に、引き合わせてくれた。
ちらりと、初音は健太郎の横顔を見つめる。
当然、目が合う。それは当たり前、今演奏をしているのは自分だけなのだから。
でも、不思議とテンションが上がってしまう。
「お、グリップ変わった。はは、いいじゃん女子高生、面白ェ」
「両刀使いか。器用で良いねえ。型にハマらないのは、センスあるぜ」
全部出す。ジャズを習った自分、そして、健太郎に教わった自分、今までの時間全部を、この刹那に込めて叩く。粗くてもいい。浅くても構わない。
ありがとう、そしてもう一つの感情を込めて――
(次、よろしく!)
青柳健太郎にバトンを渡す。万感の想いと共に。口では言えないけれど。
(受け取ったよ、初音)
ドラムの音、ベースの音、寄せては返す、静けさ漂う音の海、力は要らない。ここは自由で、何者にも縛られる必要はないのだから。ミスでさえ、感じ方一つで正解になる世界。まだ苦手意識はある。クラシックでずっとやって来た。譜面という存在に対し、絶対の服従を誓ってきた。それなのに、急に譜面が言うのだ。
僕は絶対ではない、と。
「……すげえ、指が、人間じゃないみたいに、弾んでる」
「かっこいい。珍獣なのに、かっこいい」
この世界には色んな『音楽』がある。クラシックのように不自由の中にある美しさもある。あの閉ざされた地上の楽園のように。同時に人が入り乱れ、生活感漂う自由の中にも美しさがある。どちらが優れているわけでもない。
どちらもあって良いのだ。
それが世界の度量、人と世界のサイズ感の違い。クジラが言った。お前はちっぽけな存在なのだと。海が言った。世界は底知れないのだと。
そんな世界に自分たちは生きている。
「……分厚い殻、ひびぐらいは入ったみたいね。まだまだそこは道半ばよ、健太郎」
母の目に映るは息子の成長。自分に気圧され、歪みそうなほど弱かった少年はもういない。この島が変えたというのならそれでいい。変わらねば生きていけない。
世界はそれほど甘くない。だが、適応できると言うのなら――
(今日はまだ、僕はここまでだ。さあ、ぶちかませ、マイマイ!)
勢いよく、自分のパートを弾き切って、健太郎はアンカーにタスキを渡す。ずっと、思っていた。自分はきっと、この瞬間のために島へ来たのだと。
さあ、征け。
(ずっと、ずっと、待ってたよ、健太郎)
突き抜けるような音が、お祭り広場を駆け抜ける。綺麗な、澄み渡るような高音、空のように、海のように、広がって、消えていく。かすれ始めた瞬間、甦るように音が連続に輝き出す。強烈な音、圧倒的な存在感。誰が言わずともわかる。
彼女こそが今日の主役なのだと。
「っし!」
ミッチは人知れず、ガッツポーズをしていた。
これ以上ない継投であっただろう。よくぞ二人ともジャズをやり切った。そして最後に、最高の繋がりをもって、彼女が来る。
「……ドラムの子が加熱して、健太郎が加速させ、七海真生に渡る。そう、確かにこれは来る価値があったわね。こういうのは、直で聞かないと分からないもの」
腕を組み、仁王立つ綾子は迫りくる音の圧、衝撃に笑みを浮かべていた。如何に下支えに彼女がいると言っても、この力強さは普通の者では出せない。相当な積み重ねがあったのだろう。元気いっぱいの音なのに、どこか哀愁も漂わせている。
「よかったなぁ、真生。ずっと、ずっと、待ってたもんなぁ」
七海父は涙する。彼女はずっと待っていた。大好きな友達が帰ってくることを。だから、やめなさいなど言えなかった。もう、あの子は帰ってこない。そんなことも言えなかった。眺めているしかなかった。
待って、待って、待って、ずっと吹き続けてきた娘を。
健太郎が来てくれて本当に良かった。
あの子の時を進めてくれて、本当に良かった。
あんなに楽しんでいる娘の姿を、もう一度見ることが出来たのだから。
この島に住んでいる者ならば誰でも知っている。
トランペットを頑なにラッパと呼び、怒られようと何をしようと決して辞めずに、島の至る所に現れ、吹き続けていた少女のことを。
誰も理由は知らない。少女も、家族も、何も言わなかったから。
そもそも、聴く者にとってそんな理由はどうでもいいのだ。ただ、それが心地よければ、それでいい。彼女の存在が日常として受け入れられたのも、彼女の絶え間ない努力が音となって人々の心を揺らせるようになったから。
そして、再会し、技術を高め、ようやく見えてきた。
技術の先にある、自由。自在に音を操り、自分の全てを表現すること、そのためにこそ技術というものはあるのだ。そこが次のステージ、彼女が到達した場所。
自由と不自由を経て、今、真の自由へ――
「気合、入れないとな」
「ですね」
プロを飲み込む、圧倒的スケール。マイマイの演奏には空と、海がある。
眩い水平線が、広がっている。
(健太郎、えびちゃん、ただいま!)
そして、テーマに帰ってくる。これはモーニン、紛れもなく、誰もが知っているあの名曲である。だけど、ほんの七、八分ほど、皆はそれを忘れていた。
彼らの音が、忘れさせていた。
「……モーニンの力を借りるまでもなかったな。浅いのは俺だったか。ほんと、大したもんだよ、クソガキども」
全員が力を出し切り、自分たちの中のオリジンを引き出して、着地する。
これぞ、ジャズである。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
元々全員立ち見だが、座っていたとしても皆立ち上がって歓声を上げていただろう。それだけの演奏だった。未熟でも、人を惹きつける輝きに満ちた、可能性の塊。
今しか出せない音が、世界に響き渡った。
勇気ある旅路を経た彼らに向けられる賛辞である。
「……もう一曲、あるんだけどなぁ」
健太郎は困ったような顔で頭をかく。惜しみない称賛、悪い気など当然しない。
ほんの少し照れながら、
「今から演奏する曲は、小笠原古謡のレモン林を、ジャズにアレンジしたものです」
健太郎の言葉に、興奮冷めやらぬ聴衆はわっと盛り上がる。小笠原に住んでいる者であれば誰もが知っている曲をアレンジしたというのだ。
盛り上がらないわけがない。
「これは、そこにいるミッチさん、菅沼道夫さんと、その仲間たちが作ったものです。僕らは、これからそれをお借りして演奏させて頂きます」
若い者は知らない。だが、長く島で生活していた者は、知っている。あの頃に比べると随分人口も増えた。あの時代を知る者は、多くない。
それでも同じ時代を過ごした者にとって、ヤンチャで情熱に満ち、それでも道を違えるしかなかった彼らのことは、今でも覚えている。忘れられない、過去である。
「聞いてください、レモン林」
健太郎が目で合図を送る。
初音は頷き、音頭を取って、静かにリズムを刻み始めた。
先ほどのような猛烈な勢いではなく、静謐なる音が響く。
皆、押し黙り、静かに耳を傾けていた。
『まーたドラムから入るのかよ。出しゃばり過ぎだぜ、ミッチ』
『うるせえ。俺が目立ってなんぼだ』
『これがドラムの言葉かね』
『まあまあ、あんまりうるさくしてると節子先生にまた怒られるぞ』
『うるせえ! あんなババア、怖かねえ!』
『ババア、ですか』
『『『『ひえ⁉』』』』
ミッチの胸に、過去が押し寄せる。ずっと封印してきた、傷痕。
『俺たちは成功する! そのために努力してきたんじゃねえか! 今更何言ってんだよ! 外に出て、挑戦するんだって、約束したじゃねえか!』
『俺だってそうしたいさ! でも、家業が、あるんだ。育ててくれた、恩が、あるんだよ! わかるだろ⁉』
『ふざけんな! んなつまらねえもんに縛られてんじゃねえ!』
あの時、待つという選択肢もあったはずなのだ。島に残って、趣味で音楽を続ける道だってあった。振り切って、前に進んだのは己のエゴ。
島を飛び出して、厳しさを痛感した。それでも耐えられたのは節子の厳しい指導と、言葉があったから。厳しい世界を事前に、体感することが出来ていたから。
激動の二十代を経て、脂が乗った三十代へ至った。演奏は円熟味を増し、ジャズの世界ではそれなりの立場も得た。毎日が楽しくて、すっかり忘れていたのだ。
自分が置いて行った仲間のことなど。
『……嘘、だろ』
次に仲間と再会した時、目にしたのは空っぽの棺だった。漁に出て、時化に飲まれて船が転覆、そのまま行方知れず。死体は当然、上がってこない。
島に残っていたのはたった一人。彼は幸せそうにしていたが、もう一人はミッチの後を追って島の外に出て、今も行方不明。残った仲間はみんな自分の意思で生きてきた、お前は関係ないと言ってくれたが、どうしても罪悪感が拭えなかった。
自分一人だけ『音楽』を楽しんでいたことが、許せなくなった。
プロをやめて、『音楽』も捨て、この島へ帰ってきた。最後の仲間も早々とがんで死んでしまって、残っているのは抜け殻の自分だけ。
色々やって、飯は食って、生き永らえるだけ。
そんな生活にかすかな彩を添えてくれたのが、島の子どもたちであった。
その中で一番手を焼いたわがまま小娘が二人、一人は母親と喧嘩して家出を繰り返し、ミッチが店番を任されている店に出入りしていた娘。もう一人は外の世界で挫折し、すぐに完治したケガを言い訳に逃げてきた娘。
どちらも面倒くさく、だからこそ、可愛かった。
ヤンチャで面倒くさいところが、どこか自分に似ていたからかもしれない。
そんな、想いと共にミッチは一人、涙を流す。
こらえきれなかった。この曲を聞くと、どうしても昔を思い出す。仲間だけの曲、一生外に出ることがなかったはずの、過去。
「原曲が良いんだ。くく、クソほどいいのは、当たり前だぜ、なぁ、みんな」
ここに住んでいる者の耳に馴染むテーマを経て、各パートに至る。ここは、ミッチがピアノパートのみで演奏するように指示していた。このゆったりとした、趣のある曲をアレンジする技量はまだ二人にはない。
だから今回は健太郎のみ、ロングで行こう、と。
そう伝えていたはずなのに――
「なんだ? ピアノ、止まっているぞ」
ピアノが、止まる。
本来弾き始めなければいけない健太郎が動かずに、ただ一点を見つめていた。ベースの青柳節子を。ここまでずっと自分たちを支え続けてくれていた人を。
(そうですか)
これが失敗を恐れて縮こまっていた者の図太さなのか、と笑いたくなる。
次の瞬間、ベースの音がしんみりと響き渡る。聴く者が聞けば垂涎物のプレイ。激しい動きはない。難しいコードを弾いているわけでもない。曲自体のテンポも遅い。
だからこそ際立つ、
(私の後、きちんと弾けますか?)
青柳節子の深み。かすかに光を帯びる深い青色の眼。それは彼女の人生をとても難しく、苦しいものとしていた。彼女の存在もまた、戦跡なのだから。
戦後まもなく、青柳節子はこの世に生を受けた。父は米兵、母は彼の愛人俗にいうパンパンガールであった。比較的日本の血が強く出てくれたが、それでも彼女は異質として扱われた。唯一、心を許せる場所は父の仲間たち、彼らの遊び場が彼女にとっても遊び場であったのだ。音楽は彼らにとって生きがいのようなもの。
全部、彼らに教わった。
しかし、父はアメリカへ帰り、母も失踪。行き場を失った彼女は『音楽』だけを頼りに生計を立てていた。本場でジャズを嗜んでいた父から、その仲間たちから学んだ技術だけが彼女の拠り所。それ一本で日本中渡り歩き、食いつないできた。実戦で己を磨いた。気を緩めたことなど一度もない。狭い業界である悪評一つで首を括らねばならない。必死に生きてきた。『音楽』だけを頼りに、生きてきた。
だからこそ、この音はとても厳しく、鋭い。
「すげえ。なんて、音だよ」
身を刻むような嵐。音の連なりは全てをなぎ倒していく台風のよう。
聴衆は、幻視する。
老いた青柳節子がいるはずの場所に、居場所を求めてさまよう若き日の青柳節子を。深い青色の眼を鋭く見開き、歯を食いしばってプレイするベーシストを。
その眼には『音楽』への愛憎がこれでもかと刻まれていた。
「……相変わらずだなぁ、節子先生は」
若き日の彼らにとって、突如島にやって来た彼女は憧れであると同時に恐怖でもあった。厳しく、甘さがない。言葉一つ、冷たく無機質。それでもひとたび楽器を握らせれば、何だって誰よりも格好良く演奏してしまうのだ。
特にベースは、身を切るような鋭さがあった。
「……ほんと、ムカつく」
節子の姿を見て、綾子は若き日の母を思い出す。厳しい人だった。音楽に対して妥協がなく、褒められたことなど片手で数えるほど。でも、一番嫌だったのは、それが他の子と同じ対応だったこと。母親なのに特別扱いしてくれなかったこと。
それでも食らいついて行った。いつか認めてもらえる日が来ると。この檻のような場所から二人して出るのだと、信じていた。
でも、あの日、意を決して二人で島の外に出よう、挑戦しよう、と言った時、彼女は突き放すように一人で行きなさい、と冷たく言い放った。許せなかった。娘である自分よりも島を選んだあの女を。殺してやりたいほど憎んだ。
絶対見返してやると、その日誓った。
外に出て、挑戦して、上り詰めて、子も得た。順風満帆、だけど、子育てで躓いてしまった。挫折を知らぬ女傑は、家族を作ることが出来なかったのだ。
気づけば、島に逃げていた。母の下に、逃げ込んでいた。絶対に認めたくないけれど、今更考えたくはなかったけれど、認めるしかなかった。母はここで自分を待っていてくれたのだ。いつ帰ってくるかもわからない、帰らないかもしれない娘を。
「気づきなさい、健太郎。それもまた島の一面、楽なことばかりじゃない。小さな島で生きていくのは、存外大変だったでしょう? 食べ物は限られる。買い物だって満足に出来やしない。注文して、お届けが二週間、三週間なんてザラ。往復五泊六日。台風もバンバン通り過ぎていく。ここは別に楽園じゃないわ。そして、それも込みで人々はこの島で生活をしているの」
演奏は激しさを増す。鋭い痛みが耳朶を打つ。
「これは苦しみ、痛み、島の悲鳴。でもね、それだけじゃないでしょう?」
節子の音を、受け取るべき者は何を想う。
嵐のような音、それが健太郎に渡る。節子の眼は鋭く、細く、孫を見据える。
渡した者、見つめる者、二人は健太郎の『入り』を見て同時に小さく、
「「エクセレント」」
とこぼした。
青柳健太郎は、ゆったりと、起き上がるように、弾き始める。激しい演奏から一転、緩やかで、温かな、心地よい静寂が、沁みるように響き渡る。
「そう、台風の後には、必ず光が差す」
晴れ渡る空、まだ波は少し荒いけど、いずれ落ち着いていつもの表情を取り戻す。過ぎ去った台風の余波は消えゆき、島の日常が帰ってくる。
「わぁ」
燦燦と降り注ぐ太陽。カラっとした風。突き抜けるような青い空、そして深い深い青色の秘めた、紺碧の海。ここはかつて無人(ボニン)の島であった。でも、今は違う。人がいて、生活をして、観光客がいて、街の中心はちょっと慌ただしい。
でも、少し街を離れたなら、そこには緩やかな時が流れている。そんな世界と隣り合ったこの島での生活は、ちょっと変わっているかもしれない。
海があって、山がある。
遊び場には事欠かない。
たくさん引きずり回されたって、新しいことだらけだった。
(健太郎、昔の、まんまだね)
ずっと待っていた少女は微笑む。
せつばあにお菓子を貰うため、自転車を必死に転がして辿り着いた先に、彼がいた。青白くて、せつばあと同じ海と同じ色の瞳をした男の子。せつばあに頼まれたから一緒に遊んでいたけれど、ドジで間抜けで全然格好良くない。
しかも、男の子なのにピアノをやっているというのだ。男なら外で遊べ、そんなものつまらないぞ、と思っていた。実際に引きずり回して泣かせながら遊んでいた。
お菓子のために。
でも、ある日、遊びに行ったら彼が練習していたのだ。何の曲か知らないけれど、とてもキラキラした演奏だった。
指が魔法のように動いて、ピアノからはピカピカの『音楽』が溢れてくる。ちょっと、遊んでいただけだから、と言い訳していたけど、関係なかった。
あの日、あの時の彼が、七海真生の初恋なのだから。
青柳健太郎の演奏から、島の匂いが溢れ出てくる。彼の中にあるそれが、どんどん広がっていく。誰もが目を輝かせる。技術など、もう誰も見ていない。
この演奏は上手い、ではなく、輝いている。
「……殻、破ったなァ」
プロから見れば一発でクラシック出身だと分かった強固な殻。それを破れずに消えていく転向者も多い中、彼は今、この瞬間、自分の中のそれを突き破って出てきた。
楽しそうに演奏している。この表情もまた、ジャズの醍醐味。楽器で、全身で、音を奏でるのだ。それが共鳴して、さらに広がっていく。
「馬鹿ね、健太郎。こっちはこっちで、結構きついのよ」
青柳綾子は息子には絶対に見せない、母親の顔で微笑んでいた。
いつまでも続けばいい。そんな楽しい時間が過ぎていく。でも、何事にも終わりはある。別れの時はある。そんな時、この島の人たちはこう言うのだ。
いってらっしゃい、と。
そして健太郎は旅路を経て、帰ってくる。帰る場所は知っている。もう、迷いはしない。今度は大きな声で言おう。胸を張って、真っ直ぐに――
(ただいま)
((おかえりなさい))
テーマに、帰ってきた。皆も良く知る古謡の原形を保ったそこに、いつか帰るべき場所に、彼らは帰ってきたのだ。ドラム、ベースが二人を支える。ピアノとトランペットが前で豊かな音を紡ぐ。これは小笠原の唄、いつか帰る場所を示す羅針盤。
島にまた帰ってくる。
小さな、約束。
最後に全てを出し切り、静かに、演奏が終わる。モーニンの時とは違い、爆発的な盛り上がりではない。だが、聴衆の胸を打つ、と言う意味ではこれ以上ない出来だっただろう。何とも言い表せぬゆえ、拍手に結びついていないだけ。
だが――
「…………」
誰よりも早く、明朗に、青柳綾子が大きな拍手をする。
その光景に、息子である健太郎は顎が外れるほど驚いていた。人の演奏に拍手をしたくない、と他人のコンサートですら滅多に拍手をしない輩なのだ。
そんな彼女が、誰よりも早く拍手をした。そして、それに釣られるように、大きな拍手が巻き起こる。素晴らしかった、と泣き出す者までいる始末。
「やったー、健太郎!」
「っしゃ!」
同時に二人に抱き着かれ、ころりと倒れ伏す健太郎を見て、拍手の中に笑いが混じる。七海父と海老原父だけは拍手しながらも、その眼に笑みはなかったが。
父とは娘がこの世で一番大事なものなのである。
「……まさかハードルがぶち上がるとは」
「……プロの意地、見せつけてやろう」
彼らの演奏はこの島の者には特に強く響いたのだろう。
外で同じ反応が得られるとは限らない。だが、それは横に置いたとして、高校生にプロが負けるわけにはいかない。
彼らのボルテージもまた、今の演奏によってぶち上がっていた。
「あはははは」
こうして、彼らの舞台は幕を閉じたのだった。
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