帰り道、満天の星空の下で
あれからゆったりと下山して、夕食は七海家でごちそうになった。せつばあも夕食で亀煮(亀の肉を玉ねぎ、酒、塩で煮込む料理)振舞ってくれたが、これは本当に家庭によって味付けが全然違うのだ。七海母曰く、お店でも亀煮は大きく異なるので、是非食べ比べて、とのこと。
食卓でもPRを欠かさない彼女からは島への愛が溢れ出て見えた。
「おや、健太郎君じゃないか。久しぶりだねえ」
「あ、どうも、ご無沙汰してます」
「うちの真生なんてどうだい? 頭はともかく顔は可愛いと思うんだけど」
「お父さん!」
娘の飛び蹴りを受けて、喜ぶ父の姿に健太郎は苦笑いを浮かべることしか出来なかった。親子って色々だな、と思った。
「初音ちゃんも久しぶりだね。いやいや、両手に花なんて憎いよ、このこの」
「どーも。あと、そーいうのじゃないでーす」
ゲシゲシ蹴られながらも父は強かった。何とも言えぬ空気感を残し、仕事帰りの風呂に直行する七海父のデリカシーの欠如を見て、あの親にしてこの子ありだな、と健太郎は思ったとか。思わなかったとか。彼のみぞ知る。
お邪魔しました、と七海家から帰路につく二人。帰り道は二人とも同じ方向なのだ。まあ、海老原家はかなり手前で、青柳家はずっと奥なのだが。
「い、いやー、おじさん、強烈だったね」
「島の親父連中なんてあんなもんでしょ。まだまだ優しい方だと思うけどね。癖強いのばっかりだし……うちの親父の方が酒入ると厄介だし」
「……そうなんだ」
「そっちの親父さんはどんな人なの?」
「んー、悪い人じゃないと思うんだけど、もう離婚しちゃったしよくわからないんだよね。丁度十年ぐらい、会ってないからさ」
「……なんかごめん」
「いいよ、気にしないで。僕自身、あんまり不便してないから気にしてないし」
「そっか。って言うか、十年って――」
「うん。僕がこの島に来る前のこと。あんまり覚えてないけど、たぶん珍しく弱ってたんだろうなぁ。それで母さんがこの島に連れてきてくれたんだ」
親世代は知っていたのかもしれないが、子どもに伝えるような話ではなかったのだろう。初音も、ここにはいないがマイマイも、知る由もなかった青柳家の話。
「記憶に残っているのは、毎年誕生日に楽器をプレゼントしてくれたことかな。フルートとか、ヴァイオリンとか、果てはピアノまで」
「出た、セレブトーク!」
「母さんよりお金持ちだったとは思うよ。だからかな、プレゼントは高級品ばかりだけど、絶望的に子供心って言うのが理解できない人だったんだと思う。普通小さい頃ってゲームとか玩具とか、そういうのが欲しくなると思うし、僕も欲しかったけど、希望は聞かれたことなかったよ。最初から用意されていたんだ。あのトランペットもその内のひとつね」
「トランペット?」
「うん、マイマイが使っているやつ。あれ、僕があげたみたい。これまた記憶が曖昧だけど、泣き止ませようとして要らないもの適当に渡したんだよ、たぶん」
「……ふーん。それってさ――」
「なに?」
「……いや、何でもない」
そのまま無言で自転車を押しながら歩く二人。正直、健太郎的には遠いので漕いで帰りたいところだが、相手が手で押しているのに自分が疾走して帰っていけるほど、図太い神経は持っていなかった。
まあ、海老原家は近いので歩きでも問題ないのだが。
「ねえ、健太郎」
「なに?」
「私、上手くなってるかな?」
「……僕の感想より、ライブでのお客さんの反応の方が雄弁だと思うけどね」
「それは二人の評価も含むじゃん。それにさ、私はあんたの感想が聞きたいの」
お互い視線は合わせない。並行して、歩む。
「……上手くなっているよ。間違いなく。元々の実力はあるけど、一番伸びているのは君だ」
「マイマイより?」
「パートが違うから一概には言えないけどね」
「そっか。じゃあさ」
ぐっと、彼女は何か力を込めて、意を決したように――
「私の演奏、外でも通用すると思う?」
外の世界からやって来た健太郎に、問う。
「通用って言うのは、プロってこと?」
「それで食べられるかどうか。食べている人をプロって言うなら、それ」
ふざけているわけではない。いつもみたいに茶化すような雰囲気もない。
本気、なのだろう。短くとも濃密な練習を経て、小さいながらも成功体験を積んで、だからこそ問うた。
自分は外で生きていけるのだろうか、と。
「まず、大前提として僕はロックやポップスの界隈には疎い。ガチガチのクラシック畑だし、そもそもソリストだったから実は人と合わせた経験すら、あまりない」
「うん」
「その上で、僕の知っている範囲での話をするね。ちょっと、厳しい話になるよ」
「それが聞きたいの」
「わかった」
健太郎は天を仰ぎ、まばゆいばかりの星空を見つめる。なんで今、こんなところで新しい発見をしてしまうのだろうか、と初めて美しいと思ったことを悔いた。
「今のままでは厳しい。通用する可能性は1%にも、満たない」
厳しい言葉に消沈していないだろうか、と健太郎が隣を見つめる。初音もまた健太郎を真っ直ぐな眼で見つめていた。視線が重なり、意図が伝わる。
続きを聞かせて欲しい、と。
「僕が通っていた学校は日本でも屈指の音楽学校だ。基本的にエスカレーターで付属の音大に入るのが通例かな。音大へ入る分にはそんなに難しくない。でも、そこからプロ、演奏で食べていける人間はごくごく一握りだ。何百人もの学生が毎年届かずに散っていく。まあ、演奏だけで食べられないだけで、教室の先生をやったり色々と進路はあるよ。ただ、そこも難しくてね。それなりのコネクションや実績を持っている人じゃないと個人の教室なんて開けない。大手の音楽教室の先生、とかだとそれ一本で食べていくのは難しいと思う」
これでも音楽に携わっている者の中ではトップ層の話。自分の腕を信じ、『音楽』に人生を賭さんとする者だけが学費の高い音大の門を叩くのだ。
その中でプロになるのはごくごく一握り、大成するのは一人いればいい方。
「音大卒なんて大体上手い。そりゃあ中には途中で腐ったような酷いのも混じっているけど、基本的に今の君よりも遥かに全員が上手いと思った方がいい」
そして、そのほとんどが『音楽』にしがみ付くか、別離するかを迫られる。『音楽』に愛されている者など、ほとんどいないのが現実。
「お上手、なんて当たり前なんだ。その中でどう抜きん出るか、個性やセンス、人の心を震わせた音のみが、『音楽』に選ばれる。厳しい世界だよ、技術なんてね、二束三文にしかならない世界なのが芸術畑だ。そんなもの、持っていて当たり前だから」
青柳健太郎は苦笑する。そう語っている己もまた、その壁を越えられなかった者だから。壁に阻まれた自分に、壁の先の話は出来ない。
でも、手前のことは、わかる。
「それを理解した上で、覚悟を持って歩む気があるのなら――」
健太郎もまた、真っ直ぐと初音の眼を見つめる。
「可能性は、ゼロだとは思わない。それが、今の僕に言える感想だ」
肯定的な言葉が来るとは思っていなかった初音は、逆に狼狽えてしまう。バッサリと切り捨てられると思っていた。
そこまで甘くない、何度も自分に言い聞かせてきた。
一度、バスケットボールで躓いている。才能があると言われて、その言葉を信じて、結局何一つ成し遂げられぬまま、島に戻ってきた傷は今なお残っている。
「才能はあるって、ことでいいのかな?」
「君の場合、あまり褒めたくないんだけど、そう取ってくれていいよ。今はね」
「あんたっていっつも歯切れ悪いのね」
「才能は水物だ。十で神童、十五で才子、二十すぎれば只の人。これはね、ただ早熟を表す言葉じゃない。かつて才能に満ち溢れていた者が、歳を経て、経験を積んで、大人になって、その輝きを失うことでもある。かつては在った、でも、今はない。才能なんてそんなもの。ふとした拍子に手からするりと零れ落ちて、二度とその手に戻ってこない。そんな理不尽が往々にしてある」
それが才能。形無くも輝きを放つもの。ゆえに人はそこに夢を見る。幻想を抱く。
「高みを目指すために得た技術さえも、その輝きを曇らせる要因にもなり得る。不確かで、曖昧で、御し難きモノ。今の君には惹きつけられるものはあるよ。マイマイと同じようにね。それは本当だ。少なくとも僕やミッチさんはそう思っている、と思う。でも、明日それがあるとは限らない」
「……才能恐ぁ」
「僕もそう思うよ。心の底から。その上で食っていくことを目指すなら、とにかく技術を身に着けることだね」
「今、その技術を身に着けることで才能が損なわれる可能性があるって言ったばかりじゃん」
「言ったよ。その上で、技術を取るべきだって僕は思っているだけ。今の輝きに固執するあまり、技術を疎かにしては意味がない。今の君には明確にそれが足りないからね。技術を得て、消える程度の輝きであったのなら、それは初めからなかったものだと、僕は思う」
だから断言などできない。誰にも、そんなこと言えるわけがないのだ。
成功に絶対などありえないから。
「上手いだけじゃダメ、才能だけでもダメ、それらを兼ね備えていても運が悪ければダメ、時代や世情が噛み合わなければダメ、そんな網の目を潜り抜けて、成功者は生まれる。どんな天才にも絶対はない。僕も、マイマイも、君も、誰にとっても」
一度は目指し、挫折し、逃げた。だからこそ、この言葉は少し、重い。
青柳健太郎は厳しい。ずっと、厳しく接してくれた。
「まあでも、音楽の世界で食べていくだけなら多少ハードルは下がると思うよ。技術は二束三文って言ったけど、多少は価値があるわけで。教室の先生やったり、スタジオの個人レッスンやったり、きちんとした技術さえあれば何とかなる側面もある」
こうしてにわか仕込みの半可通にも誠実に向かい合ってくれる。
「だからまずは基礎を固めようって結論かな。何とも締まらない話だけど」
優しい言葉は気持ちがいい。甘い言葉にはすぐ揺らぐ。厳しい言葉には棘があるし、向けられると辛い、苦しい、苛立つし、叫びたくなる。
それでも最近彼女は思うのだ。本当に自分を奮い立たせてくれるのは――
「ありがと、頑張ってみる」
「素直だね」
「たまには、ね」
「そっか」
満天の星空、大村ほどの明かりでさえ星空を遮るには充分。人の生活圏から少し逸脱した、今この瞬間こそ綺麗な星空が見える。
健太郎はそれを綺麗だな、と思うし、初音もまた見慣れたはずの夜空がとても綺麗に見えた。数え切れないほどの星、月明かりに照らされた雲と空の陰影が美しい。
「じゃ、私こっちだから」
「うん、またね」
何もかもが敵に見えていた。何をすればいいかもわからずただフードを被って身を潜めていた。全部遮断して、逃げて、そうしていたら、また会えた。
「あ、そうだ。あんたさ、私と会った時初めましてって言ったでしょ」
「……昔会ってたならごめん。あんまり昔の記憶ないんだ」
「ふーん、マイマイのことは覚えていたのに?」
「あはは、彼女のことでさえ島に来るまでは忘れていたよ。コンクール、コンクール、コンクール、慌ただしくて何かを振り返る暇も、なかったから」
彼は違う世界の人間である。遠い世界からやって来たピアノ星人。
「私は覚えていたよ」
「う、ごめん」
この感情の名前はよくわからない。でも、彼がいずれこの島からいなくなるのは、何となくわかってしまう。子どもの頃はそういう感じが鼻についたのだと思う。青白い肌も、細長い指も、走りの遅さも、あと、泳げないところも――
「なにせ私が、あんたを青灯から突き落とした張本人だからね」
「……あっ⁉」
「んじゃ、また明日。バイバーイ」
「ちょ、それ、まだ謝ってもらってないぞ! それも記憶が朧げな原因――」
健太郎が何だか喚いているが、初音は振り返らず愉快げにはにかみながら家路につく。もう自転車をこぐほどの距離ではないが、それでも思いっ切り立ちこぎで――
こんなにも胸躍る気分は、本当に久方ぶりだ、と彼女は笑った。
「ただいまー」
「おう」
「メシ、マイマイの家でもらってきたから」
「連絡は貰っている」
「そっか、じゃ、風呂入るねー」
「おう」
そのままどたどたと風呂に直行する娘の声色に、父は小さく鼻をすする。腐り切っていた時分からかなり持ち直してくれた。親なのだ、声色だけで理解できてしまう。
「……元気なら、それでいい」
父は感謝する。世話をしてくれたミッチに、そして一緒に音楽に取り組んでくれているマイマイと、健太郎に、海老原父は感謝していた。
娘の前では、言えないが――
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