最果てにただいま

富士田けやき

【第一章】来島

 東京湾では船旅も悪くない、と少年は油断していたのだが、湾を抜け八丈島を過ぎたあたりから揺れが激しくなった。船員さん曰く「冬に比べれば凪のようなもの」らしいのだが、生憎船旅初心者からすると吐き気を覚えるに充分であった。

「寝転がっていれば何とかなりますよ」

 最も安い雑魚寝の席を取ったおかげで、隣の席で寝転ぶこなれた感じの人からアドバイスを頂くことが出来た。実際に寝転がり、仰向けとなると落ち着いてくる。

 ただし、起き上がるとすぐに――

「うっぷ」

 これではトイレも難しい。

 夕食は早く取っていたので事なきを得たが、遅ければこの揺れと戦うことになっていた、と考えると船旅の、外洋の恐ろしさを痛感してしまう。

「船酔いは慣れと体幹ですね」

「慣れと体幹、ですか」

「ええ、何度も乗っていれば慣れますし、ついでに体幹を鍛えておけば荒天の外洋、おそろしき縦揺れすらも克服できます。面白いですよ、冬の海は」

 聞くだけでおぞましい話である。

「昔は船自体、一回り小さかったですしもっと揺れたものです。そして、玄人になると旅客船では満足できなくなり、とある貨物船に乗って島へ向かうのです。最高ですよ、今もやっているのかは知りませんが、あの揺れは一度経験した方が良い。人生観が変わります」

「……考えておきます」

 優しいベテランが急にただのヤバい人に見えてしまった。ただ、知りもしないのに否定するのは間違っているのかもしれない。いつか体験して判断――

「うう」

 する前に、この船を耐えられるようにならねばいけないが。


     ○


 少年が朝起きると、お腹は空いているのに何も食べる気にならない、という不思議な調子になっていた。昼前には着くので、朝食はやめておこう、と少年は思った。

 しばらくじっとしていると隣の人が、

「もうそろそろ島が見えますよ。揺れはまあ、多少ありますが」

「夜よりも、少し落ち着いていますね」

「本日は晴天なり。君はツイていますよ」

「僕が、ツイている、ですか?」

「ええ、この島の魅力は一に景色、二に景色、三、四が景色で、五に景色、ですから。天気と言うのは島を楽しむ上で重要なファクターなのです」

「……景色しかないんですか?」

「それ一つでお釣りが来ますよ。では、またご縁がありましたら」

 男の人は早々に荷物をまとめ、甲板の方へ向かっていった。

「……僕も、行こうかな」

 寝過ぎて背中が痛むも、寝続けるのも辛いので少年はよろめきながら立ち上がった。よろよろとふらついた足取りながら甲板へ向かう。

「あっ」

 重い扉を開けて、目を焼くような日差しが差し込んだ瞬間、少年の眼に真っ青な空と紺碧の海が目に飛び込んできた。空と海の狭間、煌めく水面に船と並走するように海鳥が滑空している。そんな大海原と蒼空の果て、何もない世界にぽつりといくつかの島があった。

 周辺に有人島は二か所しか存在しない。

 あそこはその一つ、小笠原諸島、父島。

 日本の本土から約千キロ離れた絶海の島々である。緯度は沖縄と同じくらいで、冬でも平均気温は二十度を下回ることはない南の島。

 ちなみに住所は東京都小笠原村――れっきとした東京都である。

「確かに綺麗だけど、本当に何もないなぁ」

 甲板の手すりに寄りかかり、お釣りがくると言う景色を見つめる少年。彼の名は青柳健太郎(あおやぎけんたろう)、実はこの島に来るのは初めてではないのだが、以前訪れたのは小学一年生ぐらいだったこともあり、ほとんど記憶は残っていない。

 確かに綺麗な景色だとは思う。こんな深い青色はそこら辺の海じゃお目にかかれないだろう。少なくとも他の場所で青柳少年は見たことが無い。

 ただ、それだけで何もないことを許容できるほど、少年はまだ老成していなかった。大人になれば感じ方も変わるのかもしれない、と思っていると――

「……あれ、波の音に混じって、何か、音が」

 波の音、風の音、船のエンジン音、雑踏の音、その中に一部、異質な音が混じっているような気がしたのだ。誰も気づいていないし、気のせいかもしれない。

 それでも何故か――

「トランペット?」

 青柳健太郎には音が聞こえたのだ。


     ○


「こらァ! まーた、青灯でよくわからんもん吹きやがって!」

「ラッパだよ!」

 顔見知りの島民に怒られながら、楽器を抱え逃げ出す少女。小麦色の肌に健康的な肢体が伸びる。快活、爛漫、見ているだけで元気になれそうな子であった。

 慌てて逃げ出そうとするさまも、どこか似合いなのが傍目には笑えてくる。

「なーにがラッパだ。ほんと、船が入ってくる度に飽きもせず」

「んべーだ!」

「あ、あれが高校二年生の姿か。小学生と何も変わらんぞ」

 あっかんべえをしながら走り去っていく少女を見つめ、島民の男はため息をつく。

「おっと、迎えに行かなきゃな。稼ぎ時稼ぎ時」

 男はそのまま船付き場へと向かう。何か文字が書かれたプラカードを担ぎながら。

 今は七月末、学校が夏休みに入り家族旅行が活発になる時期である。

「そもそも接岸もしてない船に、こんな場所からラッパの音なんて聞こえないと思うんだがな。まあ、あの子のことはわからん」

 つまり、観光地にとっては稼ぎ時なのだ。


     ○


 青柳健太郎は小笠原諸島父島に降り立つ。

 地面についたのにまだ揺れているように感じるのは船酔いの残り香か。周りを見回しても同じような様子は見受けられないので、自分が特別船に弱いのか、ここに来るような人はこなれているのか、どちらであろうか。

 気温は思ったよりも高くない。日差しこそ強いものの、同じ夏であれば都内の方が暑く感じる気もする。都心のむせ返るような、まとわりつくような暑さではなく、どこかさっぱりとした空気が漂う。

 避暑地と言うには言い過ぎだが、悪くない気候であった。

「ようこそ小笠原へ!」

 予約客を待ち受けていた宿の人たちと観光客などがごった返し、船着き場は人で溢れていた。船着き場から離れている宿は、移動手段が限られるこの島において送迎必須。送迎付きの宿は当然として、その必要が無い宿もサービスの一環として迎えに来ていたりする。

 まあ、これもいわゆる名物的な光景なのだろうと健太郎は勝手に理解した。

 ただ、彼は少し例外的な来島者であり、宿の迎えはない。

 そもそも宿には泊まらない。

「健太郎?」

 そう声をかけてくれたのは記憶より随分と小さくなった、

「……久しぶりだね、ばあちゃん」

 健太郎の祖母であった。深い青色の眼、少しばかり彫も深い。外国の血が入っているのだろうが、それも健太郎の代にもなるとかなり薄れていた。

 ただ、眼の色だけは健太郎と瓜二つである。

「大きくなりましたねえ。最後に会ったのはいつだったかしら」

「たぶん、僕が小学五、六年とかじゃないかな。ばあちゃんが内地の方に来てくれた時だったと思うけど」

「ああ、そうでした。最近物覚えが少し、ね……」

「あはは」

 老人の自虐ネタには愛想笑いで返すしかない、と健太郎は思った。シリアスに受け取っても、大笑いしても、たぶんシチュエーションにはそぐわない。

「荷物はそれだけですか?」

「うん、替えの下着と数日分の着替え。あとの荷物はまだコンテナの中だと思う」

「あらら、前の便で送っておけばよかったのに」

「忘れてたんだ」

「なら仕方ありませんね」

「別に問題はないよ。そう言えばばあちゃんの家ってここから近かったっけ?」

「おや、そんなことも忘れてしまいましたか?」

「驚いているみたいだけど、僕ここに来たのずっと前だよ。ほとんど覚えてないんだから。と言うか思い出そうとすると、何故か頭が痛くなるような」

「……そうでしたか。家はこっちの方じゃないから車ですよ」

「ばあちゃんが運転するの?」

「もちろん。健太郎は免許持ってないでしょう?」

「う、うん、まあ。でも、危なくない?」

「なーんも危ないことなんてありません。ばあちゃん、運転巧いので」

「し、心配だなぁ」

「あれがばあちゃんの車です」

 祖母が指さした先を見ると、

「……え⁉」

 そこには馬鹿デカいジープが置いてあった。船着き場に並ぶ車の中で明らかに異質。主に宿の人たちの車であろうが、気を使っているのか左右一台ずつ空きがある。

「あれを、ばあちゃんが運転するの?」

「そうですよ」

 あっけらかんと答える祖母を見て、健太郎は顔を引きつらせていた。

「じゃあ、ばあちゃんちに行きましょうか」

「は、はい」

 乗り込む際、周囲から奇異の視線が降り注いでいた。ちなみに運転は車の見た目に反して非常にデリケートなものであったそうな。

「あれ、せつばあが運転してる」

 自称ラッパを担いだ少女は目立つジープを見て首をひねる。

 そして、助手席を見て、

「あっ」

 顔を、綻ばせた。


     ○


「適当にくつろいでていいですから」

 ぼんやりと記憶にある祖母の家、見た目は変わっていないのだろうが全体的にとても小さく感じていた。庭の畑ももっと大きかった気がするし、家の中もアスレチックのように遊び回れるようなサイズだった気がするのだが、今見ると遊べるような大きさには到底見えない。

「子どもの頃の記憶って当てにならないなぁ」

 そもそも遊んでいた記憶は朧気に残っているのだが、遊んでいた相手の記憶はない。本当に遊んでいたのか、疑わしいものだと健太郎は自嘲する。

 中学も、高校も、まともな友人関係を築けなかった自分が、両親と滞在したわずかな間に、この島で友達を作っていたとは到底思えない。

 ただの記憶違いだろう、と彼は思った。

「ばあちゃん、ここってWiFiある?」

「んー、島じゃあ売ってないですねぇ。新しいファミコンですか?」

「……い、インターネットは?」

「売ってないですよ。携帯はね、綾子がプレゼントしてくれましたが」

「…………」

 想像を絶する環境に健太郎は絶句する。スマホでメールなどのやり取りは出来ていたため、その辺りは特に何も考えていなかったが、青柳綾子、つまり健太郎の母があまりに不便と文明の利器を用意していただけらしい。母からは東京だし若い島だから問題ない、と言われてきたのにこれでは開いた口も塞がらない。

 ちなみにこの家が特殊なだけで、島内は電波バキバキに電波も入り、光回線が通っているのでインターネットも問題なく使える島です。

「……島、かぁ」

 とりあえず、今積み下ろしされているのであろう健太郎の荷物の中で、PCがただの箱となったことだけは理解できた。理解したくはなかったが。

 まあ健太郎自身、動画を見たりするだけでスマホでも事足りる使い方しかしていない。ちょっと前までは『譜面』の整理などに使っていたが、考えてみれば今の自分には必要ないもの。無くても特に困らないし、むしろない方が良いと思うようにした。

 そんな感じでやることなくぼーっと休んでいると――

「せつばあ!」

「あら、珍しいお客さんですね」

「え?」

 チャイムを鳴らす前に家へ侵入してきた闖入者が、

「健太郎帰ってきたの⁉」

「帰ってきましたよ」

 突如自分の前に現れて、

「健太郎!」

 ビシッと確認するように指差し、

「おかえりなさい!」

 挨拶をして抱き着いてきた。健太郎は目を白黒させながら――

「だ、誰ですか?」

 と、聞くしかなかった。

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