『触れることのない心』
小さな森の家に招かれた俺たちは、家の主人である女性と向き合っていた。
窓から差し込む日差しが暖かい。開かれた窓から吹く風も穏やかで、思わず微睡んでしまいたくなる。旅も悪くないが、どこかに落ち着くとしたらこんな静かな場所がいいかもしれない。何気なく思えば、リンドウが察したように笑っていた。
キキョウ。それが女性の名前だった。秋に咲く花と同じ名だと、リンドウは小声で俺に囁きかける。そうなのかと曖昧に返せば、石喰いは「花より団子」と呟く。
「余計なお世話だ」
俺たちの不毛なやりとりに、キキョウは不思議そうな目を向けていた。不審がられないだけマシなのだろうか。抗議を込めてリンドウの足を蹴るが、石喰いは素知らぬ顔だ。
「良いところだね。とても静かで、綺麗な場所だ」
窓から見える咲き誇る花々と、紅葉の森。つまらない言葉で汚すのも憚れるほどに、心安らぐ綺麗な光景だった。石喰いの言葉に同意して頷けば、キキョウは静かに微笑む。
「ありがとう……私も、この場所がとても好きなの」
微笑みながら、彼女は傍らの子供の髪を撫でた。それは温かで満ち足りた光景のはずなのに、子供の虚ろな瞳が全てを裏切っている。アカネ、そう優しく呼びかけられても、子供は人形のように感情を動かさなかった。
「ごめんなさいね。この子は……ずっとこのままなのよ」
俺の視線に気づいて、キキョウは微笑みに寂しげなものを滲ませた。そっと彼女がアカネの手を握っても、子供は瞬きもしない。けれどその時、俺は気づいてしまった。
子供の手に刻まれた、火傷のあと。小さな手に不似合いなそれは、子供の身に降りかかった不幸を知らしめている。
痛々しい傷跡に、俺は気づかず顔を歪めてしまったのだろうか。そんな俺に、キキョウは哀しい表情を浮かべていた。責める気配はない。だが、決して受け入れてもいない。
「……すまない。詮索するつもりはないんだ」
「いえ、気にしなくていいわ。普通なら、この子の状態を訝しく思うのは当然だもの」
当然だと口にしながらも、キキョウは笑わなかった。俺を責めることはなくとも、彼女は俺のつまらない感傷を受け入れることはない。
「知りたいというなら答えるわよ。下手な同情を、この子に向けて欲しくないから」
同情するのは簡単だった。少なくとも、目の前の子供を可哀想だと言うことは、あまりにも容易かった。けれどそれは、キキョウの望むところではないのだろう。
彼女が受け入れたくない想い。それは少しだけ俺にも理解できた。
同情が苦境を救ってくれることは確かにある。可哀想な人を助けることは、人間として「優しい」ことなんだろう。だけど同時に俺は思ってしまう。誰かを可哀想だと言うとき、その心はすでに相手を「対等」な人間としては見ていないのだろうと。
俺の考えは歪んでいるだろうか。けれど、同情が自分より豊かなものや優れているものに向けられることはない。少なくとも、相手が不幸だと思わなければ同情はしない。
「同情なんて、思いもしないさ」
俺は誰かを「可哀想」だとは言いたくない。相手を救ったつもりになって、その誰かを貶めるられるほど、俺は優しくも傲慢にもなれなかった。
「……この子を、可哀想だとは思わないの」
「思わない。と、嘘をつくことは簡単だけどな。その子の状態に心が痛まないわけじゃないが……それを口にしたところで、救われるのは俺のエゴだけだろう」
深く感情も込めずに告げると、キキョウは苦笑いした。冷静に考えたところで、優しい言葉など思いもつかない。けれど俺の想いとは裏腹に、彼女の笑みは穏やかに変わる。
「そう……随分と優しいことね」
「どうだかな。優しいとは思わないが……そこの石喰いに影響されたのかもしれん」
リンドウに視線を向けたところで、いつもの笑みは崩れない。石喰いはどこ吹く風で首を傾げると、変わらない笑顔で子供を見つめた。
「この子は、可哀想なんかじゃないよ。少なくとも……不幸ではない」
窓辺の花が穏やかな風に吹かれて揺れていた。石喰いはいつも、俺の拙い言葉など容易く乗り越えて行ってしまう。石喰いは、人の痛みを人よりも深く理解しているだろうか。
「不幸ではない……か。お前らしい言葉だな」
「私らしい、と言うのは君らしい言葉だけれどね」
言葉遊びのように言って、リンドウは俺の目を見た。薄紫の瞳に映るのは、おそらく俺の心にある一つの願い。石喰いは俺に笑いかける。いつものように、穏やかに優しく。
「らしいついでに君の考えていることを当ててみようか。……結論から言うと、答えは否、だよ」
リンドウは少なくとも俺という人間のことを理解している。
俺は、この子供を救うことを願った。だが、石喰いはその願いは叶えないと答えた。
薄紫の瞳は語る。「それは君のエゴだよ」と——。
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