第十話 風呂上りの牛乳がこんなに美味しいなんて!

 高い天井に湯気が立ちこめる。

 ざぶーん、かぽーんといった音だけが目立って響く静かになった銭湯内。

 客は中年~中高年が数人いるのみで各々粛々と身を清め疲れを癒している。

 

 変な婆さんが引きずられて出て行った先をしばらく呆然と眺めていたアサギ。

 ふと寒気を感じ身震いして我に返る。

 何もしないでいればいくら湯気の立つ室内とはいえ冷える。


 途中になっていた洗体を済ませ、いそいそと湯船に向かう。

 片手を湯の中にそっと入れ、湯加減を確認。

 ちょっと「あつっ」と思うくらい。

 そうそう、この感じ。

 

 取っ手のついた桶で軽く体に湯をかけて体を慣らし脚からそっと浸かる。


 熱いお湯がじわじわと全身に沁みわたってゆく。





 はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――







 全身の空気を抜ききるくらいの深い深―いため息をつく。




 ――生き返る。








 異世界あっちにもお風呂はあったが、やっぱり日本の風呂は格別だ。


 10年分の溜まりに溜まった汚れを洗い流してくれるかのような、そんな気持ちにさせてくれる。


 命の洗濯なんて言葉を聞いたことがあるけれど、洗濯どころかクリーニング。

 なんなら年末大掃除くらい。


 お風呂の神様、どうか骨の髄まで清めておくれと祈らずにはいられない。


「あんた、災難だったねぇ」


 全身気を抜きまくっていたところに声を掛けられアサギの体がビクッと跳ねる。


「あっはっはっは。驚かせてごめんよ」


 声の主はさっきババア……セクハラばあさんを退場させてくれた恰幅のいい女性だった。     

 ぱっと見40代くらいか、髪を頭のてっぺんでお団子にしているのがかわいい。


「あのばあさん、服を脱ぐのは早いんだけど着るのがヘタクソでね。前後ろ逆だったり裏返しだったりするから着せるの手伝ってたらすっかり冷えちまって、入り直しさ」


 言いながらアサギのすぐ隣に肩を沈める。


「お疲れ様です。大変ですね」


「いやー、悪い人じゃないんだけどね。ちょっと度が過ぎることがあってね」


 いきなり尻を触ってくるあたり悪い人にしか思えなかったが、この人に言っても仕方ないので呑み込んで相槌を返す。


「慣れるまで何度か騒ぐかもしれないけど、だいたい常連の誰かが助けてくれるから、安心してきていいよ?……といっても最近の子は一回で寄り付かなくなっちゃうことが多いからね」


 最近の子じゃなくてもあんなことされて言われたら寄り付かないと思うけど、やっぱり呑み込んで相槌を返す。この人に罪はない。


「あたしら常連はここが潰れるとこまるからさ、今後ともご贔屓に頼むよ?」


 背中をばしゃんばしゃんとお湯ごと叩かれる。お湯の中で勢いは削がれているが代わりにお湯が跳ねて頭に結構かかる。もとから濡れてるからいいけど飛沫が凄い。豪快な人だ

「あんた見ない顔だけど最近濾してきたのかい?」

「ええ、まぁ」

「どこから?」


……どこから?

一瞬悩んで返す。


「昔この街に住んでて、遠くに離れたんですけど久しぶりに戻ってきたんです。前に住んでいたのはほんの数か月なんですが」


はぐらかしてはいるけど、嘘は言ってない。


「おや、そうなのかい!戻ってきてくれるなんて嬉しいねぇ。おかえり、おかえり」


「あ……、ありがとうございます」



 おかえり。

 初めて言われた言葉。


 かけてくれる相手がいなかったために分からずにいたが、思った以上に望んでいた言葉だったと言われて気付く。

自然に頬がほころぶ。



「べっぴんさんだけど、ニコッとするともっとかわいいねぇ」

「いえ、そんな……」


 褒められて顔が熱い。いや、軽くのぼせたのだろう。


「笑顔は大事だよ。同じことを伝えるにしても表情や口調一つで印象が大きく違うからねぇ。できるだけ笑顔でいたほうがいいよ~。中には気があると勘違いする男もいるからややこしいけどね」


 はっはっはっと笑い飛ばす。


「じゃ、ごゆっくり。またね~」

「は、はい。ありがとうございます」


 自分の言いたいことだけ言い、女性はさっさと湯船をあとにする。

 さっぱりした性格なのだろう。


 立ち上がり、のしのしと歩いてゆく。

 後姿はまるで小ぶりな悪鬼オーガ……なんて言っては失礼だが。

 変わった人だけど、悪い人ではない。





 女性が去った後は静かだった。

 ほかにも客はいたがようやく落ち着けた。


 ぼーっと、のぼせるくらい十分浸かった。




 着替えを済ませドライヤーに悪戦苦闘しながらなんとか髪を乾かし、火照った体を冷ますべく入浴前に目を付けた例のアレを冷蔵庫から取り出す……気持ちでいたが迷いが生じた。

 狙っていたのは瓶牛乳だ。ところが、コーヒー牛乳、いちご牛乳、フルーツ牛乳(MIX)と種類が豊富だ。

 いっそ全部買って順番に飲んでやりたい気持ちにもなるが何本も飲んではお腹を冷やすと断念する。

 

 明日お腹ゴロゴロしていては父親と対峙するにもできない。

 不戦敗はあってはならない。




 うーん、とさんざん悩んだ末にフルーツ牛乳を手に取り、番台とは名ばかりのカウンターへ再びお金を払う。


 童心に還るようにはやる気持ちを抑えながら、荷物を置き、栓を引っ張って開け、腰に左手を当てる。


 右手に持った便をそっと口に近づけ……




 男だったころに比べ弾力が増し潤った唇に触れる、無機質な瓶のひやりとした感触。



 ほんのり黄色がかった、白く濃厚な液体がそっと口の中へ注がれていく。



 ふわっと、花が開くように広がる甘み。

 ミルク本来の甘味と果物の甘味。

 甘ったるさを引き締める、ほんの少しの酸味。



 一口でほれぼれしてしまった。


「美味しそうに飲むね。初めてかい?」



 番台のおじさんから声を掛けられる。

 見られていたと思うと恥ずかしい。


「は、はい……初めてで、どれかすごく悩んで。とてもおいしいです」


「ありがとう。フルーツが一番人気なんだ。ま、他も負けない味だからまた試してみてよ」


「ありがとうございます。そうですね、ぜひ」


 さっき言われたことを意識して、笑顔を意識してお礼を言う。

 美味しいと言われたことが嬉しかったのか、最初のぶっきらぼうさから一転しておじさんはにこにことご機嫌だった。


 フルーツ牛乳を飲み終えおじさんに挨拶して隣のコインランドリーへ。


 一歩外に出ると空気がだいぶ冷えている。


「さむ……」


 今日買ったパーカーしかないが、これは近いうちに上着が必要になりそうだった。

 どうにかしてお金を稼がないと、と考えるとせっかく晴れた気分がまた少し重くなる。


 コインランドリーの店内はコンビニ並みに照明が明るく、ずらりと並んだ洗濯機と乾燥機のうち3割ほどが稼働中だが持ち主は誰もいない。

 気兼ねなく使えそうだった。


 まずは洗濯をかけようと見ると、洗剤さえも全自動というスグレモノ。

 硬貨を入れて洗濯物を入れて稼働させ、終わるまでの間備え付けてある椅子に腰かける。


 乾燥機の並びの壁を背にして座ると機器から発せられる熱が暖かい。

 外へ出ても寒いだけなので中で待つことを決めた。


 窓の外は街灯が照らしてそれなりに遠くまで見える。空の星は見えない。

 アサギはボーっと明日のことを考える。


 父親に……あの男に何を伝えるべきか。

 伝わると思って話してはいけない。

 伝わらないかもしれないけど、言葉を尽くし思いを伝える。


 伝えたい思いって何だろう。

 俺が息子だってこと?

 伝えてどうする?だから何だ?


 オレのしたいことはヒナを捜したいこと。

 別に親父と和解しようとか考えてない。

 ほったらかしにされて寂しかった過去は事実だけど過去は過去。


 今じゃない。


 そんなことよりヒナを捜すのに安定した基盤が欲しい。

 衣食住に情報、金。活動の援助をしてほしい。それだけだ。


 たったそれだけ伝えればいい。


 なのに。


 どうしてだろう。

 親父と話しているとイライラしてしまう。

 感情的になってしまい、やり取りに支障が出る。

 冷静に、落ち着くんだ。

 はっきり要望を伝え、余計なことは言わない。

 たとえ煽られても……。


 状況を整えなきゃ、動くに動けない。

 事実この二日間は全く成果なし。

 ヒナのことを考える余裕すらない。


 急がなくちゃ。

 あいつはオレのことを待っていてくれるだろうか。

 待ちくたびれてどっか行っちゃうかもな。

 いつも待たせてばかりだから。


 早く辿り着いてあげなくちゃ。

 



 あの時みたいな寂しい想いは……もう、させたくない――。











 ほどなくして洗濯が終わり、洗い上がった服を乾燥機へ移動する。


 それほどかからないうちに乾燥が終わり、驚くほどふんわり仕上がった自分の服に嬉しさがこみ上げる。

 服を顔に当てると体温の高い動物に顔をうずめた気分になり頬がふにゃりと緩む。


 悩んでいるのが、少しどうでもよくなった。



 早足で橋の下のねぐらに戻る。ひんやりした空気だが心も体も今は暖かい。


 橋の下につくと着くと、少し匂うかもしれんがこれを使えと記したよれよれのメモと2枚の毛布が置かれていた。

 どうやらじーさんが貸してくれたらしい。


 当人は離れた河原に屋台ごと移動している。

 荷物の出し具合から、屋台の中で寝ているようだ。

 近くでは気になって眠れないだろうという配慮か、つくづく優しい人だと感じる。


 明日に備えて自分も寝よう、と段ボールの寝床を展開すると、ビニール袋に加えてもうひとつメモがあった。

 少し丸文字がかった丁寧な字、咲のものだった。




 

 アサギ君、遅くなってごめんね。

 今日大丈夫だったのかな?


 ここにいたおじいさんに

 お風呂に言ってるって聞いて

 ちょっと安心しました。


 明日に向けて準備してるから

 ご飯だけ置いて帰ります。

 待っててあげられなくてごめんね。

 ちゃんと食べてね!


 明日の朝に迎えに来るね。

 ゆっくり休んでね。


 おやすみなさい♡

               咲




 明日の準備とは。


 咲のほうが忙しいだろうに気遣われていることにアサギは情けなさを感じる。

 かといって今できることはと考えても、明日に向け体調を整えておくくらいしか思い浮かばない。


「それも大事なできること、かな」



 そう自分に言い聞かせ、段ボールベッドを展開し毛布を敷いて潜り込む。

 格段に良くなった寝心地。臭いは気にならない。



 長い一日だった。

 そして明日も長くなりそうだ。


 






 親父……首を洗って待ってやがれ!!


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