通り魔

武智城太郎

通り魔

 これは、私がまだ大学生だった頃の話です。その当時、都内のどこかの町の大通りで、凄惨な通り魔事件が発生しました。30代半ばの男が刃物で通行人を無差別に襲い、一人が死亡、四人が重傷を負う被害が出たのです。

 その事件を報じるニュース番組を、篤志といっしょに彼のマンションのテレビで見たときのことは、今でもよく覚えています。篤志は大学のクラスメイトで、当時一番親しい友人でした。

「人生に絶望して、他のみんなが妬ましく思えてやった」という犯人の供述に対して彼は、「なんで赤の他人に八つ当たりするんだよ、わかんねえなあ」ともっともな感想を漏らしました。

「ほんと、そうだよなあ」と相づちを打ちつつも、私の本心は少しちがっていました。不謹慎ながら、この犯人にちょっぴり同情してしまっていたのです。それは当時の自分がさえない二流の私大生で、就職や将来に対して強い不安を抱いていたせいでしょう。

 こんな悲観的な私とくらべて篤志はといえば、大手IT企業に勤める父親のコネがあるので就職は安泰で、社交的な性格のため友達も多く、しかもミスキャンパスに輝いた美人の彼女までいました。まさに人生イージーモードといった感じで、はっきりいって私は、彼のことが羨ましくて仕方がなかったのです。


 大学も四年になり、いよいよ就職活動も本格化してきた頃。芳しい成果を上げられない私は、その日、落ち込みながらとぼとぼと家路についていました。夕方の黄昏時だったでしょうか──

「……?」

 私が初めて〝あれ〟を目にしたのはそのときです。

 見慣れたいつもの大通りに、形は人に似ていますが、あきらかに人ではない何かがいるのです。漆黒の闇そのもののような異様な存在……。

 それは人ごみにまぎれ、立ち止まって道行く人たちをジッと眺めていたり、かと思うと急にすごい速さで滑るように移動したりして、誰かを探しているようでした。そしてどうやら私以外には、その姿は見えていないらしいのです。

 今でも思い出すと背筋が冷たくなるのですが、そのとき〝あれ〟が、はっきりと私にむかって視線をむけてきて、一瞬ですが目が合ってしまったのです。私は声を上げて逃げ出しました。


 その年の夏の終わり頃。努力が実ったのか運が良かったのか、私は小さいながらも希望していた出版社の内定を取ることができました。それとは対照的に篤志は父親のコネが急にダメになり、あわてて始めた就職活動も全敗。あえなく就職浪人が決まってしまったのです。


 二カ月ぶりに会った篤志は、見るからに人生どん底といった落ち込みぶりで、まるで別人のように陰気になっていました。不幸に追い打ちをかけるように、美人の彼女にもフラれたらしいのです。気のいい奴だったのに、口を突いて出てくるのはトゲトゲしい愚痴ばかり。こちらまで気が滅入りそうでした。

 早々に喫茶店を出て篤志と別れ、私は駅にむかおうとしました。そのとき、また〝あれ〟を見かけたのです。

「……!」

〝あれ〟は私のすぐわきを素通りし、商店街を自分とは逆方向にむかっていた篤志のもとに吸いつけられるようにして近づいていきました。 

 そして、〝あれ〟がそばに立ったとたん……いえ、〝あれ〟と目を合わせてしまった瞬間に、篤志の様子が豹変したのです。

 無気力な表情がたちまち凶暴な形相になったかと思うと、近くのスーパーに飛び込んで商品の包丁を持ち出し、意味不明の叫び声をあげながら、通行人に無差別に襲いかかりはじめたのです。

 あたりに切り裂くような悲鳴が飛び交い、日曜日の平和な商店街が、突如として白昼の地獄に変わりました。中年の主婦らしき女性が追いかけられて背中を切られ、たちまち一人目の負傷者が出てしまいます。そのとき、篤志のそばに寄り添っていた〝あれ〟が、口元にニタリと浮かべた満足そうな笑みは、今でも忘れることができません。

 その後も、篤志の凶行は収まる気配がありませんでした。ですが情けないことに、私は目の前で起こっていることが信じられず、息を飲み、路上で呆然と立ちすくむばかりだったのです。

 恐慌状態の中、母親とはぐれてしまったのか、六歳くらいの女の子が外灯のポールにすがって一人で震えています。嫌な予感がしました。おそろしいことに、それはすぐに的中してしまいます。〝あれ〟が、その女の子をスッと指差したのです。篤志は迷うことなく、凶刃をその子にむけ──

「やめろ、篤志!」

 私はそこではじめて体が動き、背後から無我夢中で篤志を押さえこみました。それからすぐに警官が駆けつけてきたのですが、その頃には〝あれ〟の姿は忽然と消えていました。


 逮捕された篤志は、まもなく傷害罪で実刑となりました。重軽傷者は多数ながら死者が出なかったこともあり、ニュースとしての扱いは大きくなかったようです。その後、篤志とは一度も会っていませんが、私は今でも彼があんな凶行を働いたとは思っていません。彼は心が弱っているのを見つけられ、あの邪悪な存在に取り憑かれ、操られたのでしょう。

 そしておそらく〝あれ〟は、今もどこかの通りで次の獲物をさがしているにちがいありません。

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