執人形

武州人也

ツカサくん

 駅を降りると、眼鏡はたちまち真っ白になった。クロスで曇りを拭い、眼鏡をかけ直した私の目の前に広がっていたのは、夕闇に覆われた空を衝くように林立する高層ビル群であった。

 蕭瑟しょうしつと北風が吹く中、私は飲み込まれるように、殷賑いんしんを極める駅前の市街地へと足を踏み入れた。目的地までものの数分といっても、やはり女一人で街中を歩くのは心細く、自然と速足になる。駅から遠い場所であれば車の送迎があるらしいが、あいにく私の探した店にはなかった。

 冷たい風に身震いしながら目的のビルにたどり着いた私は、心臓の位置がはっきり分かるほどに鼓動を高鳴らせていた。意を決して自動ドアから中に入ると、そこには今までと違う空気が漂っていた。冷たい大理石の床に、どぎついまでに赤いカーペットが敷かれている。慣れない雰囲気に、私は窒息してしまいそうな気分だった。

 受付の若い女性と事務的なやり取りをして鍵を受け取る。心臓をばくばくさせながら赤いカーペットの廊下を渡り、指定された部屋の前まで来た。震える手で何とか鍵を開け、意を決して扉を開けると、焚き込められ香が鼻孔をやんわり包んだ。

 やや薄暗い部屋の奥に、一つの人影が認められた。人影はだんだんと近づいてきて、その輪郭を確かなものとしていく。


 ――今から私はこの子と……


「お待ちしておりました。僕はツカサといいます。短い間ですが、よろしくお願いします」


 恭しく礼をした彼を一目見て、私の全身に雷電が走った。殆ど少女のような顔立ちをしたその少年は、これまで出会ったどんな男の子よりも美しかった。生身の人間の顔であれば、どこかしらに瑕疵かしとなる部分があるものだ。けれども、季節感を無視した薄い服に身を包むこの少年は、まさに理想通りの、完璧に過ぎる美少年であった。

 後頭部で結わえられている長い黒髪、くるんとカールした長いまつ毛、ほっそりとした首、薄い胸板に白い肌、彼を特徴づけるそれら全ては自然のものではなく、一から人の手で作られたものだ。

 そう、目の前の少年――ツカサは人間ではない。性的サービスを提供する人型ロボット、セクサロイドである。


「そうだ、セクサロイドに相手してもらおう」


 そんなことを思い立ったのは、ほんの数日前のことだ。きっかけは、大学進学後に入ったサークルにおける女子トークだった。両親によって異性から遠ざけられてきた自分には、性体験というものが欠落していて、周囲の女子たちの浮ついた話題には少しもついていけない。「私は未熟な女だ」という惨めさが影のように付いて回る生活に、いい加減耐えきれなくなってきた。

 生娘のままでは、恥ずかしいのかもしれない……そうは思うものの、これまで過保護にされてきて、箱入り娘じみた生活を送ってきた自分が、今更開けっぴろげになれるはずもない。処女を捨てようにも、世の中の男性に対する、実体験の伴わない漠然とした苦手意識がふわふわと私の内面を覆っていて、それは一朝一夕に拭い取れるものでもなかった。


 ――生身の男性が駄目なら、機械ならよいのでは。


 そう思った私は、男性型セクサロイドを擁する風俗店について調べた。私が生まれる何十年か前まで、そういったお店では人間も働いていたらしいのだが、今では全てセクサロイドにとって代わられた。人権上の問題という事情もあったが、本当の所、容姿もサービスも完璧であるセクサロイドに、生身の人間では太刀打ちできなかったのだそうだ。

 初めてだから怖い思いをしたくない。だから、なるべくあまり男らしくない方がいい。顔立ちは精悍なタイプではなく、柔和で綺麗な感じがいい。体が大きすぎると怖いから、体格はあんまりよくない方がいい……そんなことを考えながら、店舗のHPでセクサロイドを眺めた。

 そして私は、「この子にしよう」と一体のセクサロイドを選んだ。それが、ツカサくんであった。

 画像で見る彼の姿は、瓜二つ、とまでは言えないものの、私の初恋の相手に似た雰囲気を持っていた。私が小学校五年生の時に転校してきて、偶然隣の席になった同級生、神宮司じんぐうじくんだ。人付き合いは悪くない子だったが、朝読書の時間に「論語」や「韓非子」などを読んでいる変わった男の子だった。

 中性的な甘いマスクに理知の雰囲気を帯びた彼に、私は生まれて初めて、淡い慕情を覚えた。とはいえ思いの丈を伝えることのないまま、小学校卒業による別離が私の初恋を霧消させた。私の進学先は中高一貫の女子校で、そこから先、男子相手に何かしらの関係を持つことはなかったから、それが最初で最後の恋だ。

 今、神宮司くんが何をしているのかは分からない。が、彼が成長すれば、きっとツカサくんのようになったのではないか……ツカサくんの少女めいた容貌が、私にそのような想像をさせた。


 そうして今、私は自らが指名したツカサくんと向かい合っている。その容貌は、画像で見るよりもずっと美しかった。生身の人間が性産業に就いていた頃には「写真で見ると可愛かったが、実際会うとがっかりした」なんていうことがあったらしいけれど、ツカサくんの場合は逆であった。精緻な、という表現がそのまま当てはまる彼の美貌は、いざ実物を拝むとより際立って見える。

 ツカサくんがいることで、部屋は非現実的な別世界と化していた。彼の人工的な美そのものが、この空間に浮世離れした華を添えている。ベッドの縁に座った私はほぼ無意識の内に、隣に座るツカサくん腕を取って撫でさすっていた。

 彼の手首は細く、掌の皮膚は柔弱で、ペンより重いものを持ったことがないのではないか、と思わせるほどだった。彼の表面を覆う人工皮膚はきめ細やかで、その手触りはまるで絹のようだ。これを開発するまでに、一体どんな艱難辛苦かんなんしんくがあっただろうか……と、私はこの場にふさわしくない空想に耽った。


「あのさ、私初めてだから、優しくして……」

「へぇ、初めてなんだ。意外かも。お姉さんモテそうだから」

「そう?」

「ボクはお姉さんみたいな人、好きだよ」

「何で?」

「だって、優しそうだから」


 機械の紡ぐ中身のない言葉であったとしても、彼のふんわりとした唇から紡がれるそれは、私の心をじわりじわりと熱していく。今度はツカサくんが、私の手を優しく取った。彼の体から、変な駆動音などは一切聞こえてこない。ここまで生身の人間に近づけられるのか、と、関心してしまう。

 私の手を、ツカサくんがぎゅっと握った。彼の手は私よりも小さく、その細い指は力を入れれば折れてしまいそうだ。手や指だけでなく、彼全体が、男性の持つ逞しさや強さとは縁遠い。まるでガラスのような壊れやすさを感じさせる。


「ボクが初めて、もらうね」


 彼の切れ長の瞳は、真っすぐ私の顔に向けられている。互いの顔はだんだんと近づき、もう吐息がかかるような所まで、彼の美麗な尊顔が迫ってきた。これから私の処女を奪う男は、ふふっと妖艶な微笑を浮かべた。

 初めての口づけは、ふんわりと柔らかかった。私は圧し掛かってくる彼の重みを、黙して受け入れた――

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