第4話 初動捜査

1 現場

 通報があったのは、11月にしては、ぐっと気温が下がり、秋深し。という言葉が似あうすっきりとした青空と、ぱきっという音を立てている空気の中だった。

 通報を出勤早々に切った立川刑事は眠たくて出たあくびを噛み殺して、不愛想な無線に耳を傾けた。


『—町―番地の倉庫街の一角、棚橋ビル側で女性の飛び降り遺体発見の通報。急行せよ』


 あの一帯は夜間は人通りが少なくなる貨物輸送の倉庫街だ。人通りは少ないとはいえ、一応巡回する警備会社の者はいる。忍び込むにしても、セキュリティーは万全な会社がほとんどのはずだ。

 棚橋ビル―。聞きなじみのないビルだ。

 現場は早朝ということもあるし、場所が場所なので、作業着を着たやじ馬の中に事務員らしき女性もいた。

 棚橋ビルは七階建ての古いコンクリートの雑居ビルだ。数社の事務所が入っているが、ほとんど事務所というよりは休憩室のようなものだと言っていた。確かに、中に入ってみれば、長椅子がごろごろとある部屋が多く、トラックの運転手などが仮眠をとる場所にしているようだった。だからなのだろうか、監視カメラはなく、施錠もしっかりしたものではなかった。

 立川刑事が想像していた現場―倉庫側で倒れている―ではなく、ビルのそばにその遺体はあった。いくら遺体を見慣れてきているとはいえ、若い女の遺体はあまりにも惨く気分のいいものではなかった。

 先に到着していた青山刑事が立川刑事を見つけ、軽く朝の挨拶をした後、物色していたカバンを差し出した。

「カバン、ガイシャが持っていました」

 その時点で、立川刑事はビルの上を見た。

 かばんの中身は財布、携帯、手帳、リップグロスやもらったポケットティッシュが入っているだけだった。

 財布の中に学生証があった。「私立静内大学」と書かれてある文字に眉が上がる。いよいよ縁のある名前だ。

「山森 佳湖。十九歳です。……久しぶりに一華先生に会えますね」

 と言った青山刑事に立川刑事は苦笑する。


 雑居ビルは5階以上エレベーター設置義務以前に建てられたものらしく、7階まで階段というものだった。休憩室として使っている会社は四社で、そのどれもが二階までしかないので、それ以上の階は、本当に何もない空間だった。

 鑑識が首をすくめている横を通り抜ける。

「まぁ、下足痕があるにはあるが、だ。一つはガイシャのもの、一つはガイシャと同じ23から24センチの靴で、ローファーか、それに近い硬そうな靴だろうな」

「犯人、すぐにわかりますね」

 青山刑事がボソッと言った。

 これはどう見ても他殺だろう。立川刑事もそう思った。常識的に考えれば、飛び降り自殺をするものは、荷物を持たない。物取りがこんな辺鄙な場所まで連れてきて物をとるにしては、彼女は若すぎる。

 物取りでないわけ。と断定できない。水商売をしている女が、薬だの、よからぬ情報と引き換えにという場合で、こういった場所に連れてこられたりしないわけではない。それならば、遺体はもっと醜いものだ。―彼女はきれいな方だった。

 彼女に争った形跡が見られないと言っていたので、相手は顔見知りなのだろう。だが、その顔見知りがどうしてこんな場所に彼女を連れてこれたのだろうか? 花火大会があって、ここが穴場ならまだしも、ここはそんなロマンチックな場所ではない。

 金を惜しんで性行為にいたるにしても、11月の夜風が冷たく、暖房設備もないこんな場所でしたいとも思えない。

 このビルである理由は一つ。この周りに監視カメラがないからだ。このご時世、町のあらゆるところでカメラが設置されている。そんなところで二人でビルに行けばすぐにわかるだろう。だから、カメラのない場所を選んだ。―ただ、そう考えると、なんとも寂しい場所で最期を迎えた被害者がむごすぎる。

 屋上は思った以上に風が強く、鑑識が、飛び降りたらしい場所はまだ入念に腰をかがめて作業をやっているので、そぐそばに立って、下を見る。このビルには、安全防止の鉄柵もないし、もっと言えば、屋上への扉の鍵は壊れたままだという。


 まさに、犯人にとって好条件の建物だ。


 立川刑事はすでに、「彼女は殺された」と思っている。彼の中の常識で言えば、自殺したものは履物をそろえ、荷物を整えて、遺書を置いて死ぬ。若いものとはいえ、よほど若年でなければそういう風にする。今はネット社会も相まって、正しい自殺の方法なるサイトもある。速攻封鎖要請し、今は見られないようだが、そういうものはいくらでも流出しているはずだから、どんな情報源を封鎖したとしても、そういったサイトは存在していくだろう。だからこそ、そういう儀式めいたことは常に存在する。―だから、靴が揃えてなかったり、荷物を持ったまま飛び降りるなど、ありえないのだ。

 犯人は、監視カメラの有無、施錠の甘さからこの場所を探し当てた。では、この場所に行くまでには監視カメラがあったから、この場所に似つかわしくない人物を探せばいいし、犯行当日、彼女が誰とここに来たのか、見つければいいだけだ。

 となると、犯人の動機を調べなければならない。なぜ、山森 佳湖は殺されなければならなかったのか。

 手がかりを見つけるには、まず彼女の家に行くしかない。


2 山脇 佳湖の部屋

 彼女は一人暮らしで、1LDKのアパートに今年の6月22日に住み始めている。

「六月? 三月ではなくて?」

 不動産業者が困ったような顔をしながら、間違いないことを告げ、

「ストーカー被害に遭っていて、急いで引っ越したいと、大学が静内なので、できれば大学に近いと、ストーカー被害に遭わないと思うとおっしゃってまして、こことあと一つ提示したら、もう一つは、電車に乗ると、被害に遭うかもしれないから、とこちらを選ばれて、」

「ストーカー被害を警察には?」

「そこまでたちが悪いわけじゃないから、一度引っ越して様子を見ると言ってました」

「……、被害は減ったと?」

「そういう話は、あれからはお会いしてませんので。家賃も、振り込みですから」

「なるほど。以前の住んでいた場所は解りますか?」

「ええ、こちらです……自殺ですか? その、賃貸業者ですので」

「まだ、なんとも」

 不動産業者に悪気がないだろうが、いつも、こういう質問をされると、利己主義が。とののしりたくなる。

 両親に連絡がつき、遺体確認やら事務手続きをしに署に行くと連絡がついた。せいぜい、一、二時間はかかるのでそれまでにまずはざっくりとモノを探す。

 指紋がざっと見て四、五個あるらしい。多いのは本人だろう。家族、友達、と想像はつく。その中の一人が犯人かもしれない。

 ご時世的に、盗聴などのものがないか専属の機械で調べる。異音や、変なものは見つからなかったようだ。

 机として使っていただろうローテーブル横に、百円ショップで買えるかごを置いてあって、その中にいくつかノート類があった。

 黄色の表紙の薄いスケジュール帳は時間(9-15)と給料日が書かれてあった。これはバイトだけの手帳のようだった。

 明るいオレンジの分厚いノートは日記だ。事件直前まで書いていたらしい。


―今日もやっぱり素敵だった。でも、少し不機嫌そうだった。私、何かした?

 バイトでいかなきゃいけなくて、謝れなかったから、明日謝ろう―


 色の違うペンで、走り書きが書き足されている。


―会いたいって言われた。チョーうれしい。今から行ってくる。帰ったら、何があったかコクメイに書かなきゃ。幸せすぎる。やっぱり、好き。人気のないところで花火をしようって。もう、すべてが好き―


 克明コクメイと漢字で書いていない。更に、走り書いている点でも、メモとして書いただけのようだ。

「花火、ですか」

 青山刑事がぼそりと言った。

「そのようだな」

 立川刑事はページを遡りながら言った。

 しばらくはバイト先の出来事や、大学の課題などが主体で。時々「想い人A」に対して一言二言書き込んでいたが、名前はおろか、特徴すら書いてない。

「花火をしようと誘われて行きますかね、いまどき?」

 青山刑事が首をひねりながら物色している。立川刑事も同調したが、


―帰りにばったり会うように待ち伏せしてたら、「じゃぁ帰ろう」って言ってくれた。毎日待っていようかな。と思ったのに、バイトが入っちゃった。でも、クリスマスにプレゼントあげるために頑張らなきゃ。本当は、手作りのマフラーとかあげたいけど、不器用って嫌だな―


 立川刑事が少し目を細めた。

「この子は、」

 とつぶやき言葉を飲んだ。―少々昭和っぽい感性がある子のように感じる。というと、おじさんだと言われそうだし、セクハラだとか言われかねない。いやなご時世だ。だが―山森 佳湖の日記は、立川刑事が少年の自分に姉が持っていた少女漫画の世界のようだった。今の19歳も同じなのかはわからない。自分が関わる19歳の少女は、犯罪に手を染めているか、その被害者だ。純粋に「想い人」のために生きている子を、ほとんど知らないのだ。

 立川刑事は日記を遡る中で、山脇 佳湖が一華のゼミを楽しみにしていたこと、同じ大学に「想い人」がいることが解った。そして、山脇 佳湖は、その相手のために引っ越しをしたことも解った。

「つまり、ストーカーはうそですかね?」

「いや……、それは居たようだな、ストーカーというほどではないかもしれんが、トラブルがあったようだな。だが、この子は、相手の名前を一度も出さない。店長とか、夜勤バイトとか、主婦バイトとか、そういった言葉は出てくる。バイト先に聞けばわかるだろう。だが、大学の中の人物は一華先生しか名前が出てこない。他の授業もとっているだろうに」

「一華先生の授業は楽しんでいるようですね」

 青山刑事がちらりと目線だけを立川刑事に向けたが、立川刑事の表情は変わらなかった。―青山刑事は、立川刑事が少しでも一華のことを気にしていると思っているのだが、青山刑事の感はそこまで鋭くないのか? と少ししょげたくなる―

「あの人におそろいのピアスをあげた?」

 立川刑事が日記のひと文を読み、青山刑事と、側に居た鑑識や刑事が部屋を探したり、遺体の写真を調べ始めた。

「花のピアスをしてますね……たぶん、マーガレットだと思いますね」

「几帳面で助かりますよ。ピアスを保管しているであろう箱に、一か所、空いてます」

「まぁ、好きな人が花火をしようと誘ってるんですからね、おそろいのものをつけていきたくなりますよ」

 青山刑事が報告を受けて言う。

「……、マーガレットの、花のピアスを、お前、つけるか?」

 立川刑事に聞かれ、青山刑事が眉をひそめ、側の刑事も同じように顔をしかめたが、

「……相手は、女か?」同僚刑事が眉をひそめたまま呟く。

「なくはないですよ」

 そう言ったのは女性の鑑識官だった。

「今はかなりオープンになってきましたしね。ただ、やっぱり隠してる子は多いでしょうけど」

 そう言って鑑識官は立川刑事に手を差し出した。

「ちなみに、マーガレットの花ことばは信頼。と、秘密の恋。です」

 立川刑事は鑑識官から証拠の袋を受け取った。長い髪の毛で、山脇 佳湖のものではないと見て解る黒髪だった。

「あと、被害者が几帳面だったので、よくわかるんですが、靴が一足ないです」

 と玄関横の靴置きを指さした。くつ置きにしていた3段ボックスは几帳面な彼女らしく靴がそろって置かれていた。遺体の彼女が履いていた靴をのけても、一足分のスペースがあった。

 山脇 佳湖の部屋から「想い人」に関するものは出てこなかった。生活そのものは地味で、持っている服も大して多くなく、几帳面な印象しかなかった。見た目で判断するのはよくないが、遺体の印象からは派手で遊んでいそうな女子大生だと思っていたが、そうではないようだった。

 立川刑事は部屋を一巡した。

「……マーガレットが格別好きなわけではないようだな」

 その言葉に青山刑事が部屋を見渡す。

 カーテンは薄いオレンジにチューリップのプリント柄で、クッションはそれに合わせたオレンジ一色。花柄のものは見渡す限りなかった。

「秘密の恋。だったか?」

 立川刑事の言葉に鑑識官が頷いた。

「マーガレットのピアスをしている人が、想い人。ですかね」


3 警察署の会議室

 秋の日差しは早くも西に向き、殺風景な会議室にオレンジ色の明かりが差し込んでいた。

 しくしくと泣いている声がする部屋に入って、青山刑事は毎度居たたまれなくて俯く。立川刑事は周りに気付かれないように気合の意味を込めて肩を動かして山脇 佳湖の両親の前に座った。

 両親とも、土気色した顔をし、母親の目は涙で開いていなかった。

「ご足労と、この度は、」

 という、通例文を言い、両親も頭を下げた。

「なんで、佳湖が、」

 母親が思い余ってこぼす。父親がそれを制止するように、握っていた母親の手を叩いた。

「捜査中ですので、自殺とも他殺とも、」

 と立川刑事が言ってすぐ、両親が声をそろえて、

「自殺なんてありえません」

 と力強く言った。

「……、それは、何か理由が?」

 青田刑事が一瞬ひるみながら聞き返す。

「あの子は、好きな人ができて、その人のためにバイトを頑張って、クリスマスに告白をするんだと。向こうも佳湖のことを好きらしいから、お正月に連れていきたいって。嬉しそうに、話していたんです」

 母親が父親に同意を求める。父親は強く頷き、

「ただ、連れて行ったら驚くと思うけど、でも、絶対に気に入ってくれる。と、言っていました」

 立川刑事は頷き、少し間を開けて、

「では、他殺として、誰かに狙われているとか、以前ストーカー被害に遭っていたようですが、どうです? 相談とかされたりしませんでしたか?」

「……ストーカーですか?」

 母親がきょとんとした顔で父親と顔を合わせている。

「以前の交際相手とかは?」

「……あの子、誰かを好きになることはないって、そういう感じがまるで解らないって……中学のときも、高校生の時も、そういう感じが解らなくて、話しについていけないって言ってましたけど……、「もしかしたら私は人を好きになれない人かもしれない」って真剣に言ってました。だから、結婚して、孫の顔見せてあげられないかもしれないって。本気で悩んで、ある日、そうやって打ち明けてくれて」

 母親は泣くことを堪えきれずにハンカチで顔を覆った。

「父親としては、その方がいいよって。嫁になんて行かなくて、側に居てくれた方が嬉しいって、……本人が相当悩んでいるのは解っていましたが、父親としての言葉しか出なくて。でも、本心ですからね。佳湖は笑って、お父さんはそういうと思ったけど、おばさん、私の姉ですがね、やたらと世間体だの気にする人でね、あの人がいろいろ言って、妻が病気になるって、気にしてましたよ」

 父親は自分の姉がいかに面倒な人かと顔をゆがめて表現した。

「それが、好きな人ができたと聞いて、どう思いましたか?」

「うれしかったですよ。私は、」

  立川刑事の質問に母親はかすかに笑うと、父親が苦笑して、

「父親としては複雑ですよ。でも、いい笑顔でね。ああ、いい人に巡り合ったんだって、寂しいですが嬉しかったですよ」

「反対ではない、と?」

「相手のことがまるで解らないのでね、反対もできませんよ。佳湖の持ち物に何か書いてましたか? 写真とか、」

「いいえ、まるで。日記を書いていたようですが―まだ、捜査としてお預かりしたいのですが、すみません。終わったらすぐに返しますね―名前を一切書いてないんです。相手のこと、何かわかりませんか? 好きな食べ物の話とか、なんでも、」

 母親は首を振り、

「何も、名前も聞いてません。教えてくれなかったんです。成就するまでは、言わない。と言われて。だから、応援するって。もしだめでも、どんな人か教えてほしい。って言ったんですけど、……なにも、解りませんか?」

「ええ、まったく書かれていないので」

 母親は少し切なそうに俯き、

「そう、あの子ったら。名前を書いてませんでしたか……名前を書かない理由は、思い当たります。

 小学校の夏休みの時の宿題で、絵日記ってあったじゃないですか、あれでね、あの子……小学校の時に、誰誰ちゃんとプールに行きましたって、書いたんですよ。でも、その日は、その相手の子はピアノ教室か何かで、向こうの親は習い事に行っていると思っていたら、プールなんかに行っている。ってばれて、怒られたようでね、その子。佳湖をのけ者にしたんです。いじめです。

 クラス中の子から無視されて、少しの間、拒食症? とまではいかないけれど、よく食べていたんです。まぁ、すぐに収まったんですよ。仲のいい子が助けてくれたとかで。

 それから、日記に誰と行ったとか、誰と何かしたとか、個人を特定しなくなったんです。それを担任の先生に注意されたけれど、それでも辞めなかったんですね」

「そういうものですよ、子供は」

 立川刑事はそう言い、自身にも思い当たりことがあるからわかると告げた。

「もし、相手のことに関して、些細なことでいいですから、思い出したら連絡をください。あと、地元で、佳湖さんと仲良かった人、などの連絡先も、よければ教えてもらえませんか? ……ありがとうございます。……ええ、ご遺体は、解剖後、きれいにしてお返しします。……そうですね。うちの解剖医の腕は確かです。決して解剖後だと解らないようにしてくれます。ええ、解決に向けて尽力します」

 ありきたりな、いつも通りの別れの言葉を告げるたび、立川刑事の気持ちは沈む。

遺族にとっての早期解決は、すぐなのだ。時間感覚の問題ではない。今すぐなのだ。捜査をするにあたって一日、二日要しようと、証拠となるものの分析に時間をかけているとか、移動にどうしても時間がかかるなど、そんなことどうでもいいのだ。

―とにかく、今すぐに解決して欲しい―

 それを全身で訴えている両親を見送り、二人の刑事は捜査室に向かった。


 捜査会議では死因―ビルからの落下に取る脳挫傷によるもの―の発表。近隣の防犯カメラの回収と、解析待ち。事件当日の聞き込みなどの報告がなされたが、さしたる情報はまだなかった。

「防犯カメラの解析を急ぐとともに、事件当日の近隣の聞き込み及び、交友関係をあたってくれ。……静内大学か、じゃぁ、立川たちが行くのだろう? あの先生の教え子のようだから……いかんせん、ほとんどが金田 一華あの先生を苦手としているんでな」

 と指揮官が言うが、どうも、立川刑事と何かあるのではないかという思惑が漂っていて気持ちが悪い。

 (あるわけないじゃないか)と立川刑事は内心で否定する。確かに、警察以外で長時間立川刑事の話に付き合えたのは金田 一華だけだが、だからと言って、そういう色っぽいことに発展はしないだろう。まず、そういうことを望んでいないのだから。

「とにかく、大学へ行くぞ」

 立川刑事が相棒の青田刑事の肩を叩いて歩き出した。

「立川刑事っ」

 署を出る直前、女性鑑識官が立川を呼び止めた。

「山森 佳湖の件で、ビルの屋上にあったもう一つの下足痕と、彼女の家の靴箱に残っていた下足痕が同一であると出ました」

 鑑識官の短い髪が風に揺れた。

「では、本人が下見に行っていた。ということですかね?」

「一度か、二度、見に行っていたかもしれませんね」

 青田記事の言葉に鑑識官が同意したが、立川刑事は首を振り、

「歩幅は?」

 と聞いた。

「歩幅、ですか?」

「ああ、その、被害者が履いていなかった靴の方の歩幅は?」

「え、えっと……70㎝です。被害者が160㎝ですから、ほぼ平均的な歩幅かと思います」

「では、その平均的な歩幅というのは、いったいどんな状態の時の歩幅だ?」

 立川刑事の言葉に短く「あっ」とつぶやき鑑識は黙る。

「下見に行くのはいいが、飛び降りようと心が病んでいるであろう状態の者が、平常値の歩幅で下見をするか? 俺の知る限り、足を引き摺ったり、何度もそこを歩き回ったり、力なく歩いたり、と、歩幅に変化が出るもんじゃないのか?

 飛び降りた際の歩幅も、たいして変わらないように見えたが?」

「はい、若干歩幅は広めでしたが、変わりないと思います」

「歩幅が若干広かった?」

「はい……、72㎝でした」

「見つかっていない靴の時と、飛び降りた際に履いていた靴とで、2㎝もさが出るものか? これは、女性の感覚の問題で、おしゃれな靴と、運動靴―被害者が履いていたのは、白い運動靴だった―では、歩幅に違いが出るものなのか?」

 と、立川刑事の問いに、鑑識官は少し考えこみ、

「確かに、運動靴の方が動きやすいですし、歩幅が変わるかもしれませんが、それは、運動をしようと思っているからであって、日常的には変わりないです。逆に、ヒールなどを履いているときの方が、気持ち背伸びをして歩幅が広がるときもあります」

 鑑識官はそう力強く言った。

「では、今から死のうと思っているものが、歩幅広くなるものだろうか?」

「……他殺。だと考えてますね?」

 青田刑事はそういうと、開いた扉から体を震わすほどの風が入り込み、三人を通り過ぎて建物の奥へと入り込んでいった。



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