悪辣に咲く悪の華

絵之色

第1話 私が私で亡くなった日

 飛び散る赤い潮が私の眼前に広がる……時間が止まったとさえ感じた。いや、停止してほしいという真実が、目の前で起こっていたのだ。


「……お兄、様?」

「……ッ」


 私はお兄様が目の前で腹を抑えて、床に倒れこんだのを見た。

 一緒に屋敷の花園を見ようと一緒に見て回っていたら、お兄様の目の前に男の人が現れて、現れて、それから。

 お兄様の衣服から、赤い染みが腹から広がっている。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と赤い染みから零れてくる水の意図が理解できなかった。

 着飾った衣装の白が、徐々に赤色へと変貌していく様に私は動けなくなっていた。


「ッチ、もう一人いたのか」


 お兄様が好きだと言った、白い鈴蘭すずらんに赤い液体がぴちゃりとこびりつく。私たちの向こう側に立っている額に傷のある男が、尖った黒鉄の短刀を軽く払ったから鈴蘭に付着したのだろうか。

 もしかしたら、目の前にいる男が指を切っただけかもしれない。

 でも、だったらどうしてお兄様のお腹から赤い水が……?


 ――――違う、それは、彼の血だ。


「……血?」

「詐夜子……っ」


 名も知らない誰かの男の人が、私の脳にある単語を叩き入れた。

 赤い水と呼称していたものが、明確な単語が頭に浮上する。

 その受け入れがたい言葉は……その名称は知っている。

 私の大切な宝物が、死ぬ時に流れるものだと知っているからだ。


「いやぁあああああああああああああ!! 燿昂ようこうお兄様!!」


 庭園に響き渡る私の声。もしかしたら、と想像できることがあったけれどお兄様の囁きで思考の全てがある結論に達した。

 あの男はお兄様を殺そうとしている、と。ここで選択を間違えれば、彼は死ぬと。

 私の細胞のすべてがそう告げている。


「お兄様! 死なないで!!」

「っ……詐夜子、」


 少し遅れてから慌ててお兄様に駆け寄って、必死に呼びかけた。

 柔らかい濡羽色の髪の下に覗く、気高い月白の瞳は苦痛に歪んで絞り出した声に思考の髄を震わせる。ああ、そんな風に、いつも通りに微笑まないで。

 もっと、もっと目じりから涙が止まらなくなってしまうから。

 冷静でなんて考えられなくなってしまうから。

 私はどういう処置をすればいいかもわからず、必死にお兄様に呼びかけた。


「にげ、て……詐夜子さよこ

「お兄様っ、燿昂ようこうお兄様! 止まって、止まってよぉ……っ!!」


 詐夜子は両手で燿昂の傷を必死に抑える。

 とめどなく溢れてくる熱い血が湧き出て、止まってなどくれない。私が指先で抑える想いを無視して、血は散った花弁に等しくお兄様の身体から漏れ出てしまう。


詐夜子さやこ……駄目だっ、はやく逃げて」


 嫌、嫌なのです。お兄様。

 散らないで、お兄様。

 花占いで散った花のように、一生を終えないで。

 まだ、お兄様は私とお話しするの。まだ、私に絵本を読んでくれるの。

 私から、奪わないで。

 一枚一枚の花弁が、私にとってはとても大切な物だったの。

 他の家族の中で、一番に私に愛情を注いでくれた方。誰よりも、私に心という物が何なのかを示そうとしてくれた方。

 私に、世界という物が本来美しいものだと伝えようとしてくれた方。

 そんな、私の世界の全てを占めていた人が、目の前で絶命しようとしている。

 息を切らせながらお兄様は私の顔を見上げて言う、逃げろ、と。

 私は傷の男に向かって睨んだ。


「貴方は、何が目的なの!?」

「どうせソイツも死ぬんだ、そんなもの知っておく必要なんてないだろう?」

「ふざけないで! お兄様は殺させない!! まだ、お兄様には私にたくさんのことを教えてもらわなくてはならないのだから!!」

「威勢がいいなぁ、大人になるのが楽しみにしたかったんだが……兄妹共々、死んでもらうか」

「……!!」


 絶叫した私を苛ついた目で睨みながら傷の男が襲ってくる。

 私はお兄様を庇うために前に出ると男のナイフが私の胸を切り裂いた。


「っつ―――――――!!」


 血が飛び散って少しはだけた胸元のことをいちいち悩んでいる暇はない。

 ふらつく足を無理やりにでもお兄様を守るために傷の男に立ちはだかる壁にならなければならない。


「へぇ、それでも立ってられんのか。大したもんだ」

詐夜子さよこ……っ、もう、いいから、っ」

「――――――お兄様が死んだら、絶対にお前を殺してやるわっ!!」


 胸に広がる痛みに私は胸に手を当てて声を荒げるのをなんとか堪えた。

 切り裂かれた傷跡が熱を持つのを感じる。

 ふらつきながらも、傷の男を睨みつける私に男は笑った。


「いい目だ、いつか俺を殺しに来い詐夜子――――――その時を楽しみにしておいてやる」


 血がぽたりと、地面へ滴り落ちる音を聞いて庭園の向こう側の扉から開かれる音と同時に聞き覚えのある従者の声が聞こえてくる。


「燿昂坊ちゃん! 詐夜子様!! 無事ですか!?」

「じい、や……」


 扉から出てきた華奢で、普段大声なんて上げない爺やを見て、私の体から力が抜けていく。


「貴様、何者だ!! お前たち、捕まえなさい!!」

「はっ!!」

「ッチ、またな――――詐夜子」


 近衛兵たちが、集まってきてくれて男は庭園から逃げて行った。

 私は安堵からか、その場から崩れ落ちた。


「詐夜子様! 大丈夫ですか!?」

「……じいや、あの傷の男を、」

「今、衛兵が向かっています! 喋らないでください、傷に響きます!」


 一人の衛兵が、お兄様の首筋を指で確認してじいやへと悲痛に言った。


「サルマン様! もう、燿昂様は――――、」

「……そ、んな」


 私は衛兵の言葉を聞いて、視界が真っ暗になった。

 私の大切な、お兄様が死んだ。あの、傷の男の手によって。


 ――――ゆる、さない。


 か細く絞り出した声で、詐夜子は囁いた。


「詐夜子様?」


 サルマンはその時、詐夜子の瞳に憎悪の炎が灯るのと同時に彼女が体を倒れかけるのを支えた。

 

「――――っ、」

「詐夜子様!!」


 胸にこびり付いた血の匂いに酔いながら、見たくもない現実が目の前にあるというのを拒否したい一心で、気絶したのだ。後のことは覚えていない。いや、ここできっと倒れてしまうのはとても怖かったけど、体がそれを許してくれなかった。

 ――――その時、告鵺国こくやこく第三王女である黒居詐夜子くろいさやこは死んだ日であることは、誰も知らない。

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