中原恵一 短編

ノルディ海峡にかかる橋

ノルディ海峡にかかる橋 第一話 崩落

　六月（ろくがつ）二十四日（にじゅうよっか）、ノルディ海峡（かいきょう）にかかる橋（はし）、＜レス・セルティー・ディス・ベーラ＞が、何者（なにもの）かによって突然（とつぜん）爆破（ばくは）された。海峡（かいきょう）によって分断（ぶんだん）されたヴァドリア王国（おうこく）の北（きた）と南（みなみ）をつなぐこの橋（はし）は、皮肉（ひにく）にもヴァドリア語（ご）で「平和（へいわ）の橋（はし）」と呼（よ）ばれていた。

　今回（こんかい）の事件（じけん）では、橋（はし）の崩落（ほうらく）に巻（ま）き込（こ）まれた汽車（きしゃ）が海（うみ）に転落（てんらく）し、多数（たすう）の民間人（みんかんじん）が犠牲（ぎせい）になった。数（すう）百年（ひゃくねん）に及（およ）ぶ北部（ほくぶ）と南部（なんぶ）の対立（たいりつ）の歴史（れきし）から見（み）るに、こうした出来事（できごと）は珍（めずら）しくない。その後（ご）長（なが）きにわたり続（つづ）くことになる内戦（ないせん）から見（み）れば、これはほんの始（はじ）まりの鐘（かね）の音（ね）に過（す）ぎなかった。

　しかし、その日（ひ）たまたま首都（しゅと）ハルホルトへ向（む）かう汽車（きしゃ）に乗（の）り込（こ）んだマリーシャにしてみれば――そう、当事者（とうじしゃ）にしてみれば無論（むろん）、とんでもない災難（さいなん）と言（い）うべきでしかない。

「ウソ……でしょ……」

　窓（まど）を開（あ）けて外（そと）を見（み）たマリーシャは目（め）を疑（うたが）った。黒煙（こくえん）を上（あ）げ、轟音（ごうおん）と共（とも）に崩落（ほうらく）する橋（はし）――南北（なんぼく）融和（ゆうわ）の象徴（しょうちょう）であるべきはずの平和（へいわ）の橋（はし）は、彼女（かのじょ）の目（め）の前（まえ）で無残（むざん）にも破壊（はかい）されてしまった。

　始（はじ）まりは突然（とつぜん）の爆発音（ばくはつおん）だった。昼頃（ひるごろ）、汽車（きしゃ）が橋（はし）の上（うえ）を南（みなみ）へ向（む）かって走行（そうこう）中（ちゅう）、ボォン、という鈍（にぶ）い地響（じひび）きのような音（おと）が聞（き）こえた。異変（いへん）に気（き）づいた機関士（きかんし）が慌（あわ）てて急（きゅう）ブレーキをかけるも間（ま）に合（あ）わない。

　ギギィー、という激（はげ）しい金属（きんぞく）音（おん）とともに汽車（きしゃ）は大（おお）きく揺（ゆ）れ、車内（しゃない）は悲鳴（ひめい）で満（み）たされた。

「神様（かみさま）ぁーっ！」

　神（かみ）に祈（いの）る間（ま）もなく、乗客（じょうきゃく）たちは初（はじ）め状況（じょうきょう）も何（なに）も分（わ）からずただ必死（ひっし）に座席（ざせき）にしがみついた。

　やがて車体（しゃたい）は歪（ゆが）んだ線路（せんろ）から飛（と）び出（だ）し、高（たか）さ十（じゅう）メートル以上（いじょう）ある橋（はし）げたから車体（しゃたい）の半分（はんぶん）ほど乗（の）り出（だ）して停止（ていし）した。

　一瞬（いっしゅん）、静（しず）まり返（かえ）った車内（しゃない）――

　爆発（ばくはつ）は最初（さいしょ）の一度（いちど）きりで、崩落（ほうらく）自体（じたい）はしばらくして収（おさ）まった。

　何人（なんにん）かの者（もの）たちが外（そと）の様子（ようす）を確認（かくにん）しようとした。マリーシャもそれに続（つづ）いたが、そこに広（ひろ）がっていた光景（こうけい）がこれだった。

　あまりの惨状（さんじょう）に乗客（じょうきゃく）たちはただ慌（あわ）てふためき、我先（われさき）にと車外（しゃがい）へ逃（に）げ出（だ）し始（はじ）めた。

「一体（いったい）何（なに）が起（お）こったんだ？」

「分（わ）からないよ、何（なに）が何（なん）だか……」

「とにかく外（そと）に逃（に）げろ！」

「ちょっと、押（お）さないでよ！」

　皆（みな）が逃（に）げ惑（まど）う中（なか）、マリーシャは心（こころ）ここにあらずという感（かん）じだった。

　――久（ひさ）しぶりにハルホルトに来（こ）られたのに……。

　大変（たいへん）な出来事（できごと）に巻（ま）き込（こ）まれているというのに、彼女（かのじょ）は現実感（げんじつかん）がなかった。

　北部（ほくぶ）の田舎町（いなかまち）出身（しゅっしん）のマリーシャはまだ二十歳（はたち）になったばかり。首都（しゅと）に住（す）む同郷（どうきょう）の友人（ゆうじん）を訪（たず）ねに来（き）たというのは口実（こうじつ）で、ハルホルトで都会（とかい）気分（きぶん）を満喫（まんきつ）したい、というのが本音（ほんね）だった。彼女（かのじょ）もつい先（さき）ほどまでは、前回（ぜんかい）来（き）たときに食（た）べたシュクラディーニが美味（おい）しかった、などとのん気（き）に考（かんが）えていただけだった。

　――どうしてこんなことになっちゃったのかしら。

　彼女（かのじょ）が窓枠（まどわく）を握（にぎ）りしめたままぼうっとしていると――

「嬢（じょう）ちゃん、気（き）は確（たし）かか？」

　不意（ふい）に、マリーシャの背後（はいご）から声（こえ）をかけるものがいた。彼女（かのじょ）はハッと我（われ）に返（かえ）り、ブロンドの髪（かみ）を揺（ゆ）らして振（ふ）り返（かえ）った。

　そこには深緑色（ふかみどりいろ）の軍服（ぐんぷく）を身（み）にまとい、口（くち）ひげを生（は）やした中年（ちゅうねん）の男（おとこ）が立（た）っていた。

「自分（じぶん）の自殺（じさつ）願望（がんぼう）に他人（たにん）を巻（ま）き込（こ）もう、っていうのは随分（ずいぶん）と殊勝（しゅしょう）なお人（ひと）だ」

　彼（かれ）は肩（かた）をすくめつつ苦笑（くしょう）すると、下（した）にある線路（せんろ）の方（ほう）を指（ゆび）さした。

　彼（かれ）に促（うなが）されるままそちらを見（み）やるマリーシャ。

　――ちょっとずつ動（うご）いてる……？

　じりじりと、しかし着実（ちゃくじつ）に。先頭（せんとう）車両（しゃりょう）に引（ひ）きずられ、客車（きゃくしゃ）も連動（れんどう）して少（すこ）しずつ前進（ぜんしん）している。このままだと海（うみ）へ真（ま）っ逆（さか）さまだった。

「悪（わる）いけど、どいてくれない？」

　彼（かれ）の後（うし）ろには、逃（に）げようとする他（ほか）の乗客（じょうきゃく）たちがイライラした様子（ようす）で立（た）っていた。マリーシャはようやく事態（じたい）が一刻（いっこく）を争（あらそ）う状況（じょうきょう）だということを理解（りかい）した。

「……すみません」

「これ以上（いじょう）の感謝（かんしゃ）はできないね」

　彼（かれ）は皮肉（ひにく）交（ま）じりにそう言（い）って窓枠（まどわく）から身（み）を乗（の）り出（だ）すと、彼女（かのじょ）を後目（しりめ）にさっさと出（で）て行（い）った。

　――とりあえず外（そと）に出（で）ないと。

　マリーシャは体（からだ）の震（ふる）えを抑（おさ）え、自（みずか）らを奮（ふる）い立（た）たせた。こんな日（ひ）に限（かぎ）ってロングスカートを履（は）いてきたことと荷物（にもつ）を車内（しゃない）に置（お）いてきてしまったことを後悔（こうかい）したが、命（いのち）あっての物種（ものだね）だった。

　彼女（かのじょ）が窓（まど）から身（み）を乗（の）り出（だ）して車外（しゃがい）へと脱出（だっしゅつ）した直後（ちょくご）、ガタァン、という大（おお）きな物音（ものおと）がした。

　人々（ひとびと）が一斉（いっせい）に振（ふ）り向（む）くと、そこには線路（せんろ）から乗（の）り出（だ）した先頭（せんとう）車両（しゃりょう）がまるで蝶（ちょう）の蛹（さなぎ）のように橋（はし）げたから宙（ちゅう）づりになっているのが見（み）えた。客車（きゃくしゃ）の重（おも）みとの綱引（つなひ）きで絶妙（ぜつみょう）なバランスを保（たも）っているものの、こうなるともう長（なが）くはもたない

「クソッ、落（お）ちるぞぉーっ！」

　パニックに陥（おちい）る群衆（ぐんしゅう）たちを目（め）の前（まえ）にして、マリーシャはやけに冷静（れいせい）になっていた。

　――これがこのまま海（うみ）に落（お）ちたらどうなるんだろう。

　橋（はし）の上（うえ）は逃（に）げ出（だ）してきた人々（ひとびと）で溢（あふ）れ返（かえ）っていたが、これでも全員（ぜんいん）ではない。車内（しゃない）には逃（に）げ遅（おく）れた乗客（じょうきゃく）たちがまだ多（おお）く取（と）り残（のこ）されている。

「ブレーキをかけろ、ブレーキを！」

「ダメだ、間（ま）に合（あい）わないっ！」

　ブレーキは全（まった）く効（き）かず、やがて道連（みちづ）れにされた客車（きゃくしゃ）も速度（そくど）を上（あ）げて走（はし）り出（だ）した。

「うわぁあーっ！」

　たくさんの人々（ひとびと）がただその哀（あわ）れな運命（うんめい）を見守（みまも）ることしかできない中（なか）、汽車（きしゃ）は頭（あたま）から海（うみ）へと落下（らっか）した。ドボォン、という音（おと）と共（とも）に水（みず）柱（はしら）が立（た）ち、大雨（おおあめ）のような水（みず）しぶきが辺（あた）り一面（いちめん）に飛（と）び散（ち）る。

　続（つづ）けて巻（ま）き添（ぞ）えを食（く）った客車（きゃくしゃ）も次（つぎ）から次（つぎ）へと落下（らっか）し、辺（あた）りは一時（いちじ）騒然（そうぜん）となった。

「売女（ばいた）が！」

「なんてこった……」

　命（いのち）からがら橋（はし）の上（うえ）に逃（のが）れた人々（ひとびと）は色（いろ）とりどりの卑語（ひご）を口（くち）にした。しかし、安全（あんぜん）なのは今（いま）のところだった。

「この橋（はし）もいつ崩（くず）れるか分（わ）からない。みんな早（はや）く対岸（たいがん）へ逃（に）げろ！」

　誰（だれ）かがそう叫（さけ）ぶ声（こえ）が聞（き）こえ、人々（ひとびと）は一斉（いっせい）に来（き）た道（みち）を北（きた）へと引（ひ）き返（かえ）し始（はじ）めた。

　一方（いっぽう）、マリーシャはなぜかその場（ば）にとどまったまま、蒼白（そうはく）とした表情（ひょうじょう）で泡立（あわだ）つ水面（すいめん）を眺（なが）めていた。

　――あの中（なか）に、まだ生（い）きている人（ひと）が……。

　ほどなくして、波打（なみう）つ水面（すいめん）から顔（かお）を出（だ）すものがあった。

「助（たす）けてくれぇーっ！」

　子供（こども）の声（こえ）だった。

　初（はじ）めその声（こえ）は一人（ひとり）だった。しかしそれは徐々（じょじょ）に増（ふ）え初（はじ）め、やがて橋（はし）の下（した）は何（なに）十人（じゅうにん）という人（ひと）のうめき声（ごえ）で満（み）たされた。

　溺（おぼ）れる人々（ひとびと）と、彼（かれ）らを見捨（みす）てて逃（に）げだす他（ほか）の乗客（じょうきゃく）たち。

　地獄絵（じごくえ）図（ず）ではあったが誰（だれ）もが自（みずか）らの命（いのち）が惜（お）しく、必死（ひっし）で生（い）き残（のこ）ろうとしていただけだった。

　そしてそこに救（すく）いの手（て）を差（さ）し伸（の）べるものなど、誰一人（だれひとり）いないよう思（おも）われた。

　――助（たす）けなきゃ。

　気（き）がつくと、マリーシャは自分（じぶん）の身（み）の危険（きけん）も顧（かえり）みず、崩（くず）れた橋（はし）の方（ほう）へ歩（ある）き出（だ）していた。

　一人（ひとり）逆行（ぎゃっこう）する彼女（かのじょ）を見（み）て、先（さき）ほどの軍人（ぐんじん）の男（おとこ）が叫（さけ）んだ。

「おい！　天使（てんし）も怖（こわ）くて近寄（ちかよ）らないようなとこへわざわざ飛（と）び込（こ）んでくのがいるぜ！」

　彼（かれ）は嘲笑（ちょうしょう）気味（ぎみ）に忠告（ちゅうこく）したが、彼女（かのじょ）は止（と）まらない。彼女（かのじょ）は崩落（ほうらく）した橋（はし）から下（した）の海（うみ）を覗（のぞ）き込（こ）むと、大（おお）きく息（いき）を吸（す）い込（こ）んだ。

　さすがに異変（いへん）を感（かん）じたのか、男（おとこ）は彼女（かのじょ）に警告（けいこく）した。

「分（わ）かったよ、はっきり言（い）うけどお前（まえ）はバカタレだ！　死（し）にたくなかったらそこから離（はな）れろ！」

　彼（かれ）の言葉（ことば）が聞（き）こえているのかいないのか、溺（おぼ）れている人々（ひとびと）をじっと見（み）つめる彼女（かのじょ）――その彼女（かのじょ）の青（あお）い瞳（ひとみ）には、先（さき）ほどまでの迷（まよ）いはなかった。

　――今（いま）あの人（ひと）たちを助（たす）けられるのは、アタシしかいない。

「諦（あきら）めろ、もうどうせそいつらは助（たす）からない！」

　男（おとこ）は再（ふたた）び大声（おおごえ）で叫（さけ）んだ。この時点（じてん）で彼（かれ）は彼女（かのじょ）が何（なに）をしようとしているのかある程度（ていど）察（さっ）してはいたが、実際（じっさい）に行動（こうどう）を起（お）こすとは夢（ゆめ）にも思（おも）っていなかった。

　しかし彼女（かのじょ）は、その場（ば）に居合（いあ）わせた誰（だれ）もがやりたくてもできないことをやってのけた。

「……何（なに）かを得（え）るには、海（うみ）を渡（わた）らなきゃいけないときもあるわ」

　あっ、と言（い）う間（ま）もなく、彼女（かのじょ）は彼（かれ）の目（め）の前（まえ）で海（うみ）へと飛（と）び込（こ）んだ。