中原恵一 短編

中原恵一

ドミソ汁

ドミソ汁

 いつものようにつま二人ふたり朝食ちょうしょくをとっているときだった。

しるのおわりを……」

 つまはなしかけようとして、わたし異変いへんづいた。

「あらやだ、アナタったら、『おみそしる』でしょ?」

 ハハ、とわらいながら、つまがおわんにお味噌汁みそしるれてわたしてきた。

「……すまない、わざとじゃないんだ」

 ずかしくなって、わたしんでいた新聞紙しんぶんしかおをうずめた。

「アナタ、こないだも『カレンダー』のこと『』ってってたわよ?」

 あれホントにおかしくって、とつまふたたわらった。その様子ようすがおかしくて、わたしられてわらってしまった。

「あぁ、それでお味噌汁みそしるのおわりは?」

 わたしはもう一度いちどつまいた。

「もう、そこにあるじゃない。しっかりしてよ」

 つまわたしかたたたいた。

 最近さいきん言葉ことば間違まちがいがえた。

 最初さいしょ違和感いわかんはそれだけだった。


 定年退職してからというものの、生活に張り合いがなくなった。

 出勤する必要もなく、ただ毎日家にいるだけ。習い事好きな妻は生け花にお茶、習字などを適度にたしなんでいたが、私は何もやることがなくなってしまった。思えば毎日仕事、仕事ばかりで、特に趣味らしい趣味もなかった。

 仕事を辞めたら、思う存分遊ぼう。

 そう思っていたときもあった。だが、いざ実際に定年を迎えてみると、頭も体も思うように動かず何をするのもおっくうで、ぼんやりと日々をやり過ごすだけになってしまっている自分がいた。

 得も言われぬ途方もない空虚感――それだけが私の心を満たしていた。


 その後、言葉の言い間違いは続いた。お釣りの計算を間違ったり、物をどこかに置き忘れたり。道に迷って帰ってこれなくなったとき、妻に車で迎えに来てもらったこともあった。

「アルツハイマーの疑いがあるかもしれません」

 久しぶりに訪れた病院で、認知症のチェックを受けた私は愕然とした。

「そんな……、まだ定年退職したばかりなのに」

「実は、そういう時が一番危ないんですよねぇー」

 重たい空気にならないようにしているのか、それともそもそも私のことなど気にもかけていないのか、医師はあくまでも軽い口調だった。

「私は、これからどうなるのでしょうか?」

 不安を前面に出す私を前に、医師は落ち着いた様子だった。

「まあ、まだ軽度ですから、お薬で進行を遅らせることもできます」

 そうは言われても。

「それって、治らない、っていうことですか」

 私は単刀直入に尋ねた。

「できるだけいい状態をキープすることを考えましょう。考えても、不安になるだけですから」

 医師は笑顔のまま、私の質問には答えなかった。それが優しさだとは分かっていたが、それでも納得はできなかった。

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