第5話 勇者、欲望渦巻く万神殿に赴く【2/2】または「百の柱が林立する聖なる家」

 インノケンティウスが座する権威の玉座。その玉座から落ちる暗き影の中から、召使いが歩み出た。

「こちらへどうぞ」

 もはや不穏な雰囲気を隠しもしない、聖遺物で武装し、血塗られた臭気を放つ召使いが、勇者と大司祭を廊下に案内した。


 灯り取りの窓もなく、ただただ照明魔道具で照らされた、長い長い廊下。

 ここで何が起こっても、決して外部から関知できないであろう、閉ざされた廊下。

 閉じられたなら一人の力では決して開けられないであろう、重苦しい扉で仕切られた廊下。


 インノケンティウス8世は、部下に『歓迎と“歓迎”』を用意させていた。

 この廊下は“歓迎”のほうだ。

 そして長い廊下の先には、歓迎のほうの準備が整っている。


 勇者は廊下へと進んでいく。重い扉が閉じられる。

 この廊下を抜ければ、『歓迎の宴』の会場だ。合図がなければ、廊下と宴会場との扉が開かれることはない。

 6人がかりで開ける、仕掛け付きの大扉だ。


 しばらくして、廊下と宴会場を仕切る重い扉を、信じられないほどの腕力で開ける者があった。

 合図はなかった。6人の扉係は、ひたすらに困惑している。

 その正体は、悠々と歓迎の宴に到着した、主賓である。

 すなわち、勇者ファラーマルズその人だ。


 宴の会場には、シモン・ペテロ、ブッタデウスの顔も見えた。

 どうやってか、すでにインノケンティウス8世も先回りして会場に到着している。


「おお、対立教皇インノケンティウスよ。なかなかの“もてなし”であったぞ」

「では次は、“食後の余興”を楽しませてもらおうか」


 歓迎の宴の場を突っ切り、インノケンティウス8世の目前まで歩みを進めた勇者。


 勇者を迎撃すべく用意された聖遺物を装備した暗殺者たちは、本来、そこで役目を完了するはずであった長い長い廊下に散乱していた。

 人間の頭部は、全体重の10%ほどを占めると言われている。

 彼ら暗殺者たちは、全員が体重のおよそ1割を減らしていた。

 勇者の“食事”になってしまったのだ。


 彼らが携えていた聖遺物は、ある物は腐れ落ち、ある物は聖性を失い、またある物はまったく逆の、邪悪な性質を帯びた魔道具に変化してしまっていた。


 歓迎の宴に出席していた者たちは、勇者の両肩が不自然に盛り上がり、モゴモゴと蠢いているのを目にしたであろう。

 恐るべきその王者の姿を、直視できたのであれば、だが。

 そして、インノケンティウス8世は面倒なことが起きるだろうという己の予感が的中したことを知り、同時に己の策謀が失敗したことを悟った。


 今度は、勇者と同じ目線に立ち、対立教皇は勇者と大司祭を祝福した。不機嫌な態度はそのままに。

「……我ら、聖家せいなるいえ派として、ともに歩んでまいりましょう」

「勇者殿は世を照らす太陽……我らはそれを助ける月でございます……」


 もちろん、納得しているわけではない。

 この勇者は、おそらく神の敵であろう。

 だが、従わねば命はない。

 信念などなく、ただただ権力と財力を積み上げるために生きてきた、インノケンティウス8世だからこそ可能な変わり身の早さだった。

 一般的な教皇であれば、最後の最後に良心と信仰心が勝り、邪悪の言いなりにはならなかったはずだ。ここで勇者に逆らって、体重を1割減らしていたであろう。



「賢明だな、対立教皇」

 そして勇者は、今一度、大きな声で会場の者たちに語り掛けた。



「今ここに、偉大なる派閥が誕生した!」

「この大聖堂を余の宮殿とし、『聖なる家』と呼ぶことにしよう」

「すなわち、『ガンゲ・デジュフフト』と!」

「かつて余は、百本もの巨大な石柱が林立し、土星まで届くほどの……そなたらにも分かるように言うならば、『大地と農耕の小神』が司る天の星まで届くほどの、大いなる宮殿を持っておった」

「この大聖堂は、それには遥かに及ばぬ。だが、清廉を旨とするそなたら聖光教徒にとってふさわしい、慎ましやかな信仰の小屋であろう」

「この小屋のもとに我らは習合しゅうごうし、この小屋と同じ名を派閥にいただこうではないか!」

「祝福せよ! 偉大なる聖家せいなるいえ派の誕生の瞬間である!」


 勇者ファラーマルズは……いや、今は、彼の本名であるザッハークと呼ぶことにしよう。

 ザッハークは、高らかに宣言した。

 権威の座への凱旋を。


『ガンゲ・デジュフフト』とは、中世ペルシャ語であるパフラビー語において、『聖なる家』を意味する。

 悪徳を為し、悪魔王から祝福されたザッハークが座するにふさわしい、欺瞞に満ちた虚飾の魔宮だ。


 女神そのものと、彼女に付き従う多くの小神をたたえる万神殿パンテオンになるべくして、この大聖堂は造られた。

 しかし、対立教皇インノケンティウスの策謀によって堕落し、欲望が渦巻く悪徳の中心地となってしまった。

 そして今、その悪徳にふさわしき主である魔王ザッハークがこの万神殿パンテオンを手中に収めた。

 万神殿パンテオンはこの時をもって、万魔殿パンデモニウムとなり果てるであろう。


 勇者ファラーマルズの……魔王ザッハークの宣言を聞いて、会場は静寂に包まれている。

 この場に居るのは、少なくとも高位神官以上の、聖なる力を有する者たちだ。

 いくら聖職売買で聖霊と地位を手に入れた腐敗聖職者とはいえ、聖なる存在であることに変わりはない。

 勇者(であり、魔王)の声にこもる邪悪な鬼気を察し、その強大さに金縛りにあったかのようであった。

 動けぬのだ。


 だが、何もしないわけにはいかない。

 パラパラと、祝福の拍手が鳴り始める。

 最初に動いたのは、シモン・ペテロだった。次いで、ブッタデウス、そして対立教皇。


 シモン・ペテロもブッタデウスも、超常の存在と化している。どちらかといえば、人類を超越した存在だ。

 しかしながら、対立教皇インノケンティウス8世は、超常的な力を持ちつつも、自身は生身の、ただの人間である。

 魔王の気配を跳ねのけるのは、簡単ではなかった。

 高位神官たちに混ざりながら、引きつった笑顔で拍手を送りはじめる。


 生前、インノケンティウス8世は邪悪な行いをし過ぎた。そのため教皇まで上り詰めておきながら、自分が信じる宗教の天国へ入ることができなかった。

 しかし教皇まで上り詰めたために、悪魔たちの側に行くこともかなわない。

 あるいは、彼は生前、魔女と魔術を徹底的に弾圧したため、魔法的存在と、無実だが冤罪により断罪された存在から、多くの恨みと呪いを受けていた。

 結果として彼の魂は次元を彷徨い、この世界、女神ディルが創りしディルマァトという名の世界に辿り着いたのだった。


 これは、この境遇は、インノケンティウス8世に下された罰なのかもしれない。

 贖罪の機会を与えられながら、なおも悪徳のままに堕落した彼に対する、罰なのかもしれない。


 そうであるならば。

 どうせならば、どこまでも堕ちてやろう。

 罪を犯しても、免罪符を買えばいい。

 いくらでも免罪符は造れる。

 なにしろ、発行しているのは儂なのだからな。

 暗い欲望と決意が、対立教皇のなかで燃え上がる。


 勇者であり魔王である者を派閥長にすることに、当初は反対していた。

 しかし、今は違う。

 この魔王の力を存分に使い、この世界でも面白可笑おもしろおかしく、絢爛で怠惰な日々を過ごしてやる。


 対立教皇インノケンティウスの祝福は、不機嫌な拍手から、心からの寿ことほぎの拍手に変わった。


 勇者に幸あれ。

 教会に光あれ。

 我らが派閥に繁栄あれ。


 それは同時に、このようにも聞こえる。


 魔王に幸あれ。

 正義に不幸あれ。

 この世界にわざわいあれ。


 欺瞞に満ちた祝福のうちに、この血塗られた宴は幕を閉じた。


 ……この境遇は、インノケンティウス8世に下された罰なのかもしれない。

 贖罪の機会を与えられながら、なおも悪徳のままに堕落した彼に対する、罰なのかもしれない。


 そうであるならば。


 この程度の罰で、終わるはずがない。

 身も凍るような運命がインノケンティウス8世を待ち受けていることを、彼はまだ知らなかった。

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