「およそ自ら監獄に飛び込む奴はいない。そりゃあそうさ、ここでは死ぬことすら許されないからな」。

 ある売れないジャーナリストは死刑囚とのやり取りの中で語られたこととしてこのような一文を引用し、短い記事を書いた。それは八年前に出版された「ゲイユ」という小さな雑誌の隅に寄稿され、そしてやはり誰一人見向きもしようとしてこなかった。手元のスマートフォンによれば、その雑誌はそれから間もないうちに発行されなくなりこの雑誌もある種の古書と化したが、誰も大切に保管しようとはせず、今では世界から「ゲイユ」はほとんど失われたようだ。国立国会図書館に一冊、そして今手元に一冊、あとはどこにあるのか見当もつかない。インターネットで検索してももはや何もヒットしない。

 私がこの雑誌を手に入れたきっかけは、二年前に失踪した父親の書斎だ。こじんまりとした部屋の隅には、あってもなくても変わらないくらいの小さな本棚があり、それを開くと七月の熱気の中を長年溜まっていた紙と黴の匂いが漂った。そこにはすでに絶版になった書籍が所狭しと詰められており、見るも無残な状況だった。ここしばらくの間に本棚は湿気を帯び変形したのだろう、一冊取り出すのにも苦労するほど圧がかかっており、その本棚から本を取り出すことは断念しようとした。そのとき、棚の上の余った隙間に横積みにされている書籍に気が付き、そちらはかろうじて原型を保ったまま取り出すことができた。「週刊ツガル」「ゲヱテにつゐて」「1997年手帳」……まったく無秩序に選ばれた横積みの書籍の中にあったのが「ゲイユ」だ。もし父が失踪していなかったら、そして私がこの書斎に立ち入っていなかったら。「ゲイユ」は永い眠りの中で静かに失われていっただろう。

 こうして手に入れた「ゲイユ」は、かくしてしばらく私の卓上を占領した。とはいえ、単行本サイズの「ゲイユ」はそれほど邪魔になることもなく、ときたまプリントの下に隠れては、思い出したかのようにときたま顔を出していた。ひと月あまり過ぎて九月に入り、単行本サイズの「ゲイユ」はついに私に読まれることになった。雑誌と察せられないように厳重にカバーをつけ登校をし、朝方の読書の時間――それは「朝読」と呼ばれていた――に開いた。

 やはりそれはあまりにうさん臭そうな雑誌だった。誰がこれを好んで買うものか、とすら考えた。間違いなく情報収集としては向いていないし、かといって読みごたえがあるわけでもない。あまりに中身がなく、目を通しているだけで軽い拷問を受けているような気分になった。それでも数日かけて読み進めていくうちに、最後の記事でもあった売れないジャーナリストの記事に差し掛かった。「およそ自ら監獄に飛び込む奴はいない。」その引用の後、ジャーナリストはこうまとめている。「人生においてもそうだ。監獄に飛び込んだと思ったところで、そこは監獄と思っていただけの場所かもしれない。監獄に飛び込む人はどこにもないのだ」。そんなことはない、と私は反論した。現にここは監獄だ。そして自ら志願してこの学校を受験し、合格し、入学した。監獄に自ら飛び込む奴はいる。その記事は私の逆鱗に触れた。私は音の出ないように静かにその記事だけを「ゲイユ」から切り離し、くしゃくしゃに握りしめ、窓の外にこっそりと放り投げた。この記事にはそれがお似合いだ。残りの「ゲイユ」だったものは、ショートホームルーム後に教室のゴミ箱に叩き込んだ。はれて国会図書館の「ゲイユ」は孤独になった。

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