いつもありがとう

服部零

第1話

 ...藍色の空から雨が降っていて、露の出す白い霧が窓に纏わり付いていた。

 その霧が放つ冷気が肌に触れていて、自身の体温がひどく痛々しく感じる。

永久に不完全燃焼の間々となった感情のせいで、自分がただ死んでるみたいだった。

 だから、また何か別の感情を欲していた。空のままの何かを埋めてくれる気晴らしが必要だった。

 雨から連想してく悲しみ。本当に何でもいいから俺の身代わりになってくれる言葉が欲しかった。それ一つが俺という人間の証になるのを期待していたのだから。

 そうして何かを求め始めれば、仕舞いには、自らいつもなら滅多に来ない筈の図書館に行った。

 図書館には誰も居ない。というか校舎に残る生徒の数は顕著に減っている。夕焼けすら見えないというのにだ。図書館に設置されてる窓際から校門を見下ろせば何人もの生徒が帰っている。そして廊下は怖い程に静まり返ってる。校舎に残ってる生徒は俺も入れてごく僅かだったようだ。


 本棚。その中に何かあるかもしれない。そう思えば木細工の棚を覗いた。

 木の板に寄り掛かるドミノのような文庫本がある。新品のフィルムを被った光沢の盛んな一冊から、手垢で汚れたフィルムの古い本まで。それはどこにでもある本棚の構成だ。

 気分次第でパラパラめくる。自分の心情に似てるものを汲み取って見て行く。だがしかし、そんなことじゃ満たされないと気づき始めていた。


「くっ...」 

 中身を見れば呆れるほどに力が抜けて行く。怒りに近い感情と笑いが込み上げてくる。その全てが何も知らないのに、ただ積まれているだけのように思えるからだ。

 SFからホラー。正体、種や仕掛けが最後まで明かされない不思議な生物。誰のために、なにを想って書いたのか、憂鬱なことは何も変わらない短編の随想。全てが無意味に思えた。答えは何もないように思えた。流行がまたコロコロと変わる。人生は絶望と希望を反芻させる。世間体が変わることだけは変わらない。

「...」

 そんな騒がしい世界に飽きている。

 自分自身の人生のつまらなさに絶望している。

 何が欲しいとか、要らないとか何も分からない。

 とうに自分自身を豊かにできるような投資は失敗している。落ちるか死んで終わらせるかのどちらかなのに。

「...なんで俺は図書館こんなトコ来てんだ」

 自分自身に呆れた声音だった。図書館に探すものは何も無いというのに、自分でもよく分からない自身の酔狂な部分が先程、本棚から文庫を一冊取り出していた。しかしそれもそうか。双葉蒼ふたばあおという人間はもう何もできないのだ。先日、医師から宣告を告げられた。曰く、もう学生の内は陸上競技に至るまでの回復は不可能であろうと医師から直々に言われたのだ。

 もう酔狂にでも頭を痺れさせなければ何もできない。 

 ...自分が満足でないからと何かを傷つけなければ済まない気持ち。何かに縋りたい。もう走ることもできない。痛み出す片足を堪えて歩くことが限界な惨めな自分。

 これからずっと、このまま足りないと思う人生なら。この人生を破り去りたい。そして長ったらしく続く醜態をここで終わらせたい。そして本当に心のどこか小さな場所に誰かに未来を変えて欲しいというものがあった。


「何探してるんですか?先輩」

「...ッ」

 ひどく昨夜の耳鳴りに似ている女の声がしたので、入り口の方を振り返って目を配って見る。

「...浅草」

 校舎の廊下から図書館の入り口を開いたのは、俺の知人の浅草透あさくさとおるだった。

 知り合いといっても年下で最近は入院したこともあり、退院してからずっと会ってないし、俺は浅草透に会いたくもなかった。

「もう歩けるみたいで良かったです」

 濁すように遠慮がちに距離を取る浅草は至って普通の反応。それがいつもの浅草であるから違和感はない。

 だからそんな普通通りに振る舞う彼女とはもう二度と会いたくはなかった。俺と彼女はもう全てに於いて違うから。

「先輩。顔色が悪いです」

 浅草はそっと歩み寄ってくる。

 うんざりする。というのもずっと、昔の友人にも後輩にも、増してや先輩も皆口裏を合わせるように顔色が悪いと言う。それのせいか、俺は少し人目を避けるようになっていた。

「ああ。ここ最近ずっと言われる」

「それは大丈夫なんですか?」

「関係ないだろ」

「...そうですね」

 浅草の空返事が聞こえた。

「なんで離れて行くんですか」

 浅草がこちらに近づくことをなぜだか、恐ろしく感じた。何かしてしまいそうで少し怖かった。

「先輩はまた痛がるフリですか?」

 浅草は見透かすようにそう言った。

 幼馴染のような後輩だった。昔から親しくて嫌な程に、俺の過去を知ってる。それだけで酷く体温が冷めていくような感覚が俺を襲っていた。

「......」

「なあ。浅草」

「なんですか?」

「俺は学校辞めてもいいよ」

 悲しいことも楽しいことも感じられない人間だった。俺は最後だと思って浅草に歩き始める。

「...」

 必要なことも不必要なことも何も無い、そんな意味のない人生であった。好きだった浅草の顔だけが見える。

「だからさ。今ならなんでもできそうだ」

 世の中、間違えだらけなことは変わらない。

 全員が何かを置き去りに変わっていく。それが良い事でも悪い事でも。

「...ねえ。先輩」

 浅草が発した言葉の後だった。

 彼女は俺に歩み寄ることをやめていた。そして思いっきり俺の頬に手の平をぶつけた。


 電撃のように弾ける音が聞こえた瞬間。

 電撃のような痛みと寒気で神経が刺さる。

「馬鹿」

 浅草のその一言で終わりだった。俺は終わりになると思っていた。

 ...なのに。

「なんで?」

 その全てが覆るくらいの温もりを浅草透は渡した。

「浅草?」

 ゆっくりと抱きしめられる。


「自分勝手で我儘な先輩だ。昔から」

「ほんと、先輩だけは変わらないです」

 初めて通を人間として見た気がした。

「ごめん。浅草...俺」

「別に構いませんよ」

 浅草の強がって笑いながら、でも今にも泣き出しそうな顔を初めて見て、彼女が成長していることに気づいた。そして俺は自分が異常だったことに気がついた。

「俺って...壊れてる」

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