第七章4

「……どこにでもいる普通の、少し暗い、影のある子」

 詩衣奈がゆっくりと口を開いた。

「こいつへの周りの認識はそんなだったのね。少なくとも小学校の頃までは。それがクラスの人気者にまでなった……。中学一年生の時ね? 口数が多くなって、誰とでも話せるようになった。だけど、それは私と同じくらいに喋るようになったってだけだったの。少なくともその頃はね? 要は、根暗だった弟が結局お姉ちゃんと似たような性格になった、みたいな? はじめの認識としてはそんな感じね」

 あの頃は、本かアニメかゲームか、だったな。本当、どこにでもよくいる普通の奴だった気がするよ。詩衣奈は俺とは正反対に明るい奴だったが、俺はただの、どこにでもいる根暗オタクだった。

 明るくなったのは良いことだ。そう思うものだろう。家族の認識もそうだった。詩衣奈だけはしきりに首を傾げていたけれど。

「中学二年の頃。絵里とこいつが付き合いだしたのよ」

 井ノ瀬さんが絵里を見た。ここまで一言も喋っていない絵里。井ノ瀬さんからすれば、部外者にしか見えなかった彼女が、ここに来て急に存在感を増したように思えたろう。そうか、全部話す気か。だから絵里まで連れてきたのか。気が重くなる。

「絵里はね? 今でもそうなんだろうけど……口数が少ない暗い子で、友達はそこにいる幼馴染の良子くらいだったの。そんな絵里がどうしてこいつと付き合うようになったのか――答えは簡単よね。こいつのその病気のせい。こっちが喋んなくても、こいつは一人で勝手に盛り上がって、勝手に喋ってくれるんだもの」

 そう言って詩衣奈は鼻で笑った。たぶん、絵里に対してだろう。井ノ瀬さんも察したのだろう。少し、表情が固くなった。俺が言うのもどうかと思うが、二人とも、同じような立場ってわけだ。

「自分の気持ちを上手く言葉にできない者からすれば大助かりってわけですわ」

「そ。それで迷惑がる子も、まあまあいるんだけどね? いつだかの――そう、うららさんだったっけ? みたいに」

 反省してますよ。

 バイト辞められちゃったし。

「こいつは相手が根暗だろうが、迷惑がっていようが、お構いなしに喋り掛けんの。と、いうより勝手に喋ってしまうのよ。ほら。私に似て顔も良いでしょ? クラスで人気者のイケメンが根暗な女子にガンガン話し掛けて、その上、こっちが聞いてて恥ずかしくなるような口説き文句を目の前で言ってくる。まー、絵里が好きになっちゃうのも無理ないわ。私だって自分がそんな立場だったらーって思っちゃうことあるもの」

 我が姉ながら……、あんたもちょいちょい自慢挟んできますね。

 絵里は体の前で腕を組み、もじもじとし出した。頬が少し赤い。

「たぶん、その頃は、こいつも舞い上がってたんだと思うのね? 自分の言葉で自分の本音を相手に伝えればしっかりと想いは伝わるってことに。口数少なかったからこそね。喜んでくれる。応えてくれる。正直に話すだけで想いは伝わる。その程度の認識だったのよ」

 その通りである。調子に乗っていた。自分で自分の言葉に興奮していたんだ。俺の言葉に喜んでくれている。応えてくれていると。

「こいつは包み隠さず、本音を喋ってくれるでしょう? その気持ちは伝わるのよ。相手に。それは口数が少ない絵里だってね。今までずっとひた隠しにしていた秘密や、言い辛いことを話すようになるのにそうは時間が掛からなかった。で。その内に、男女の……性行為もするようになって」

 肩を竦めたのが背中越しに伝わってきた。

「どうしてそんなことを……」

 知ってるのか、と言いたいんだろうな。姉弟とはいえ。普通話さないことだ。

 答えを返さず、詩衣奈は続けた。

「だけどこいつは別に、絵里とだけ喋るわけじゃない。基本的に誰とでも話す。それはクラスで腫れ物扱いの良子だって変わらなかった。絵里と親しくなったことによって、近くにいた良子とも話すようになったってわけね。――そうして、こいつは良子とも関係を結ぶようになった……どっちが先に手を出したんだかは知らないけどね」

「ふふ。クズ」

 羽伊奈が俺を心底軽蔑した目で見た。

 それは、そうと知りながら関係を結んでしまった良子も含んでいるのかもしれない。

「話はこれで終わらなかった」

 そう。ただの三角関係だったらどれだけ良かったか。これで話は終わらなかった。

「ただの三角関係で済むなら、井ノ瀬さんも気をつけてね。こいつ浮気性だから。で、終わるの。でもそうじゃなかった。こいつのこれはそんな生易しいものじゃなかった。こいつはね? 絵里の抱えていた秘密、クラスで浮いている良子が、実はどんな性格をしていて、自分にはどういう顔を見せるのか、どんな物が好きで、どんな物が嫌いか、一体、自分と絵里と良子は普段どんな会話をしているのか……。さらには、性行為の詳細な内容に至るまで――全部を全部、周りに言いふらしたのよ」

 あの頃からだろうか。

 自分で自分がおかしいと思い始めたのは。

「一応、フォローしておくとね? 井ノ瀬さんも覚えがあると思うんだけど、こいつって訊かれたことには何でも答えちゃうのよ。普通だったらまず隠すようなことでも、条件反射で話してしまう。我慢出来る出来ないとか、そういう問題ですらないのね? 反射なの、もう。

 そして、徐々にこの子のそういう性質は周りに知られていった。その結果が今言ったそれ。人の好奇心に終わりなんてないでしょ? まして、そういう男女のことについて、ようやく興味が出始めの中学生たち。野次馬めいた詮索は止まなかった。こい……椎那も口が止められない。自分で自分の言葉が止められない。椎那もようやく自分について疑い始めた。だけど、もう遅かった。学年中にその噂――というより事実――が知れ渡って、遂に絵里は学校に来なくなってしまった。不登校になったってわけ」

 大人しそうに見えた絵里が影でこんなことを……。好奇の目は止まなかった。

 マッチポンプだった。止めろよ、絵里が嫌がるだろ、とかなんとか言いながら、次の瞬間には俺自身が言い触らしてんだからな。そんな現場を一日の内で何回も見てしまった絵里の心境たるや――。

 不登校になるのもやむ無しだろう。あの時の絵里の目は忘れられない。

 そして、話はまだ終わらない。

「絵里の不登校を切っ掛けに椎那はイジメられるようになった。当然の報いっていうのか、椎那の行動は一部の生徒の反感を買ったのね。けれど、椎那の病気もあって、ただのイジメじゃ終わらなかったのよ。売り言葉に買い言葉。多少険悪っぽく見えたけど、良子は味方をした。それにその頃には、他にも複数の女子から告白されてたからね、こいつ。根暗と素行不良と特殊な性格した奴にはモテるのよ。すんごい厄介なことに」

「……」

「うっさい」

 詩衣奈の言葉に、井ノ瀬さんは何も言わずに無視を決めこみ、良子は悪態を吐いた。

 羽伊奈は何の反応も示さなかった。

「私たちの学年は、まーそりゃー荒れたわね。もう真っ二つって感じで。男子の中にも、椎那の、その何でも打ち明けてくれる性格を快く思ってくれてる奴らは一定数いたし。

 ……だけど、椎那の病気はどんどん悪化していった。その頃には精神科にも行ってみたんだけどさっき言った通り、意味は無かった。羽伊奈が言ったいくつかの、ズレた、当たり障りのない診断をされただけ。症例も今以上に少なかったしね」

 本当にここ一年くらいの間だ。テレビなどでは取り沙汰されたことはないが、インターネット上でぽつぽつと俺と似たような症状に悩む人の記事が出始めた。先ほど、羽伊奈の言った通り極めて稀で数は少なかったが。それでも同じ症状で悩む人がいることに微かな安心感が芽生えたことを覚えている。

 たしか、国内だとまだ俺を含めて七例のみ。

 同世代、つまり十代だと俺以外にもう一人いるだけだとか。

 どんな奴なんだろうな。絶対に会いたくないが。だって、ほら、うるさそうなんだもん。お前が言う? って感じだけどさ。

 詩衣奈の話は続く。

「授業中にも頻繁に喋るようになった。先生たちから椎那は目の敵。その内、親も学校に呼び出されるようになった。しばらくして、絵里の親が家に乗り込んできた。口を閉ざしていた絵里からようやく事情を聞いたみたいでね。まだ幼い娘に手を出したこともそう、精神的な被害も含めて裁判するとかなんとか……結局、平謝りしてうやむやになったんだけど」

 絵里がきゅっと縮こまった。責任を感じるようなことじゃないのにな。

「で。そんなある日、椎那をよく思ってなかった女子の一人に、椎那が街の精神科クリニックに通ってる所を見られちゃったのね。次の日にはその噂は広まってて……。クラスのお調子者が実は精神科通い――印象はよくなかったでしょうね。椎那に対する当たりがどんどん強くなっていった」

 ぎゅっと詩衣奈の腕の力が強まったのが分かった。

「……それで?」

 井ノ瀬さんが続きを促した。

 そう、話にはまだ続きがある。

 悪夢には終わりがないのだ。

「お金を盗られたの」

「へ?」

 ぽかん、と。

「お金。椎那と表面上は仲良く見えた一人が画策してたみたいでね。家に遊びに来た時に、うちの親の財布から銀行のカードが抜き取られたのよ。それから家電に椎那宛てに電話が掛かってきてね。暗証番号だけを訊かれて名乗らず電話が切れた……椎那のその何でも答える性質を利用したのね。もちろん、こんな杜撰な計画すぐに割れたわ。馬鹿よねえ。口座から現金を引き出せば足も付くのに。特定も容易。幸い、すぐ取り戻せたから良かったけれど。その子とその仲間たちは家裁送りで保護観察処分。高校には進学しなかったみたい。どうでもいいけど」

 どうでもいいと言いながらも詩衣奈の声は若干の憤りを含んでいるように聞こえられた。

 俺はと言えば、あの時の友達を思い出している。たぶん、あいつもあいつに言われてやったんだろう。俺をイジメて楽しんでいた筆頭。元クラスのリーダー格。

 しかし、そいつに対して責めるような気持ちは全くと言っていいほど湧いてこない。

 元を正せばあいつの秘密を好き勝手喋りまくった俺がどう考えても悪いからだ。

「それから、ご近所トラブルなんかもあったわ。この子、本当に誰とでも仲良くなるから。それこそ近所のおばちゃんともね。あれこれ聞いてまた別の誰かに話して、さらに家で今起きてる問題も言ってしまって――。他に、同級生との喧嘩、教師と口喧嘩に停学処分……そんなこんなでいよいよ椎那を隔離することになったの」

「壮絶」

 羽伊奈が呆れるように言った。

「そうね。私も色々やられたしね。シカトくらいだったら良かったんだけど……」

 詩衣奈の手を強く握った。

 止めろ。

 想いが伝わったのかどうなのか詩衣奈が口をつぐみ、話を元に戻した。

「……あのマンションは、だから、うちの親なりの申し訳無さの表れかしらね。その頃になって、ようやく椎那の症状が特定されたの。調べてるうちに似た症例がいくつかあった。羽伊奈が言った〈思考言語化症状〉。時間が掛かったはずだわ。日本での発症例は当時、四人にも満たなかったんだから。世界でも百に届かない数字。しかも、蓋を開けてみれば、先天的な脳の異常――かもしれない段階――だってんで治療法も何も無いし」

 そう言って肩を竦める。

「だから、あんな高校生――当時は中学生か――には分相応な部屋を用意したのね。申し訳無かったんでしょうね、うちの親も……あ、椎那にはまだこのことは言ってなかったっけ?」

 詩衣奈はそう言って深く深く溜息を吐いた。

 知らなかった。薄々気付いちゃいたけれど。でも気付かないふりして、このくらい当然だよな、と心のどこかで甘えていたのはあるかもしれない。部屋、変えてもらおうかな。愛着あるんだけど……。

「これが椎那が中学であったことの全て」

「どうして……そこまでされて、その……詩衣奈さんは……」

「双子の弟よ? 嫌いになれるわけないじゃない。離れて暮らしてる今だって、半身がいなくなったような気分なんだもの。だから――私は、何があっても椎那の味方」

 詩衣奈が頭を撫でてくれる。気持ちがいい。

 そう。椎那だけは俺を嫌いにならないんだ。

「……その、マスク、じゃあ……」

 井ノ瀬さんが俺の口元を見て訊いた。

「そう。治療法は無くても対処法はあった。勝手に喋るっていうのなら口を塞げばいい」

「そのマスク……井ノ瀬さんに見せて差し上げたら?」

 羽伊奈に促され、俺はマスクを外した。

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