第六章5

 ★


 井ノ瀬未無生。

 小動物みたいってのが第一印象だった。くるんとしたショートカットの癖の強い髪。小さな口に大きな瞳。ぶかぶかの制服。いつもぎゅっと体を縮こませている。そのせいでただでさえ小さいのにいつも上目遣い。

 可愛らしくって仕方ない。

 これが本当によくない。

 井ノ瀬さんは、す――、と黒板を指差した。

「あれ」

 おかしそうに笑った。黒板には昨日、俺が残した言葉が書かれている。

「あっ! ああ、これね! いやあ、昨日さー、メッセージでも残しておこうって思ったんだけど、冷静になってみれば、井ノ瀬さんの番号知ってたわ俺って思って。そんで途中で書くの止めて電話したの。消そうとしたんだけど、黒板消し見当たらなくってさー。

 ここ、水道も使えないし、雑巾もないじゃん? 制服の袖使うのも嫌だし。なんか持ってこようと思ってたんだけど忘れてた。あはは。なんかどっかに布落ちてんの見たことない? 明日も忘れちゃいそうだしさあ。いやあ、改めて見ると、こんなん残しておくの恥ずかし」

「いいよ。ずっと残しておこうよ。どうせ誰も来ないよ。二人がここにいた証拠みたいで。なんか見てて楽しい」

 井ノ瀬さんは俺の言葉を遮ってそう言った。

 そして、やっと俺が手ぶらなことに気づいたのか、不思議そうに首を傾げた。

「おべんとうは?」

「うん。今日は教室で食べようかと思って。置いてきた」

 言葉に眉根を寄せた。

「どういう……?」

「彼女いるって話したじゃん? マズいと思うんだよね。こうやって。女の子と二人きりで会ってるの」

 井ノ瀬さんは俺を見上げたまま何も答えない。口を半開きにして固まったままだ。

 いくぶん冷たい声の温度だとは自覚している。わざとそうしたつもりだ。

「まあ、ぶっちゃけて言えば、彼女はこの事、知ってるんだけどさ。合点承知之助ってやつ。意味違うかな? ま、余裕があるのか気にされてないのか――わかんないけど怒られないの。でもだからってさ、何も言ってこないからって、そこにつけ込むのは違うでしょって話。分かる? 理解できる?」

 彼女は口をぱくぱくと開け、ようやく言葉を紡ぐ。震える声で言う。

「し、知って――」

「うん。話した。俺、お喋りだし。なんかごめんね。秘密の会合みたいな雰囲気だったのに。会合ってか密会かな? そう言うと、より、怪しいよね」

 あからさまに傷ついたような表情になる。瞳にじんわりと涙が浮かんだのを見て、罪悪感が浮かでくる。こんなはずではない。もっとスマートにいく予定だったのに。さらっと告げてさらっと帰る。そういう空想をしていた。何か、言い過ぎているか。

「ああっ! 泣かないで泣かないで! でも、本当なの! ずっとこんなんやってたらマズいと思うの! 井ノ瀬さんかわいいし! ね!」

 果たして声は届いているのか。井ノ瀬さんは俯いた。瞳から、こらえきれなくなったように涙が零れる。こういうのは一度決壊してしまうともう止まらないのだ。

 つ、つ、と次々に涙の粒が彼女のスカートへと落ちて沁みていった。拳がぎゅっと握られ、スカートに皺が寄っているのがここからでも確認できた。

 一瞬、羽伊奈といつか話した、すぐ泣く女はどうとかいう会話が頭を過ぎって消えた。動作一つ一つがこちらを責め立てているようで、心が落ち着かなくなった。

 ああ……、どうにか、どうにかしないと――。

「あー! あー! ええっと、違うんだよ! 別に井ノ瀬さんが嫌になってこんなこと言ってるんじゃなくって! そう! 魅力的だからこそって言うか。ね? うっわ。俺、またこんなん言って。ああっ、くっそ」

 自分で自分の言ってる言葉に混乱している。

 俺はたぶんどんどんしどろもどろになっていってる。何か喋る度ボロが出ている。理解っているのに止められない。井ノ瀬さんは涙を流しながらも不思議そうな顔をしている。

「…………」

 何も言わず、すっと立ち上がる。椅子が床を擦れる耳障りな音が鳴った。

 そうして、井ノ瀬さんはつんのめるみたいに歩んで来る。

「? どうかし――っとっ」

 一瞬不思議に思ったが、転びそうに見えたために、その身体に手をやった。

 シャツ越しに、井ノ瀬さんの体温が伝わる。少し汗ばんでいるのが分かった。俺のワイシャツが井ノ瀬さんの小さな手によってきゅっと掴まれた。そのまま数秒。

 女の子の、同年代のかわいい女子の体が手のひらの中にある。

 心臓が早鐘を打っている。井ノ瀬さんは動かない。動こうとしない。

「い、井ノ瀬さん……」

「やだあ。明日も来て。小説また書いたの。読んで」

 震えながらも涙混じりの声。いつもよりも若干甘えを含んだ声。

 この短期間にもう一作。感心すると同時に躊躇いが生まれる。友人がいないと言っていた。俺以外に読ませる人もいないのだろう。ネットにでも投稿すればいい。新人賞にでも応募すればいい。それはどこか違うんじゃないか。彼女は、あんな酷い指摘を受けて、尚、もう一度書いたのだ。あれから一週間程しか経過していないにも関わらずだ。その熱意には敬意を払うべきなんじゃないか。もう一度俺が読んであげるべきなんじゃないのか?

「ネット、いや新人賞とか――いいや。違う。くそ。もう、どうしていいか」

 井ノ瀬さんはさらにぎゅっと抱きついてきた。俺が責任逃れをしようとしているのを察知したのか。

「うおっ」

 しかし、ただ抱きついてきたのではなかった。少しだけ、体重が掛かっている。そのせいでバランスを崩して脚が滑ってしまう。

 咄嗟に井ノ瀬さんに被害が及ばないよう俺は肩を掴んだ。

「いっつ」

 転んでしまった。

 完全にお互い抱きしめ合ってるような構図になってしまった。

「ごめん、こんなことするはずじゃなくって……」

 どぎまぎしながなら謝る俺に、井ノ瀬さんは腕をそっと緩めた。そして、俺の胸に両手をついてくる。伏せていた顔が露わになった。涙でぐしゃぐしゃになった顔が。

 その顔に、今の状況に、俺はどうしてもこの前のことを思い出してしまって、自然、口を付いてしまう。

「……なんか、先週も良子とこんなことあったな。あれとはちょっと違うけど……」

「!」

 井ノ瀬さんが瞳を見開いた。おもむろに制服を脱ぎ始める。

「なにしてんの!?」

 意味がわからない。驚いてる間にもシャツはほぼ脱ぎ終わっている。

 サイズが合っていないのか、彼女が華奢なのか分からないが、肩をちょっと動かすだけで、シャツは俺のズボンの上へぱさりと落ちた。

 上半身。付けているのはブラジャー一つ。少しだけ凹んだお腹に、少しだけあばらが浮き上がった胸周り。へその横にちょこんと小さなほくろが一つ。何でもない個々の特徴一つ一つが、人によってはコンプレックスにもなり得るだろうそれが、どうしてだか扇情的に見える。

 ごくりと生唾を飲み込んだ。

 ブラジャーは、淡いピンクをベースに、アンダーに当たる部分が紫のレースで装飾されている。着痩せするタイプなのか、思った以上のボリュームだった。

 サイズは――。

「けっこう着痩せするタイプ? B?」

 訊いていた。訊いてしまっている。

「……C。もう少しでDだよ? 触る?」

 不敵に微笑み、何でもなさそうに答える。無理でもしているのか。跨がられてそんな表情されたら誰だっておかしくなるだろう。

「へ!? いやいや!! 触りたいけどマズいって!! こんなところ誰かに見られたらまた停学喰らうとか、いや、そもそもこんな場所誰か来るはずもないんだけどっ! そうじゃなくって、もっと自分を大事にした方がいいよとかそういうんじゃなくって! ところで成長途中のおっぱいって夢があるよね、じゃなくねえや、えっと……!」

 ――その、冷たい温度に心臓が止まった。

 手と手が触れていた。強く握った彼女のその右手で、俺の右手がぐっと掴まれている。遅れて、ぶわっと全身に汗が滲んだのが自分でも分かる。

 ヤバい。

 汗あばんでいるだろうに嫌がる素振り一つない。全てを受け入れているだろう微笑み。

 ゆっくりとした動作だと抵抗されると思ったのか、ぎゅっと一息にその手を自身の胸へと持っていった。咄嗟で抵抗する暇もなかった。

 いつの間にか、彼女の涙が枯れている。

「――!」

 ブラ越しで、自称Cカップはあるという胸を押し付けられた。ぎゅうっと。

「……やっぱり、ブラ越しだとおっぱいって固いよね」

「なっ!?」

「はうあ!? 違くて違くて!! いや、違わないんだけど!! もうこの辺で止めとこうよ。ていうか、今更気づいたんだけど、太ももの感触も若干ヤバいんだって!!」

 俺の言葉に今度はぎゅっと太ももを締め付けてきた。

 制服のスラックス越しに彼女の柔らかさが伝わってきている。もう少し上に身体の位置があったらもっとヤバい――って、マズいぞ。この思考はマズい。

 井ノ瀬さんは、俺のあんまりな物言いにむきになっているのか、残った左手を自分の背中に回して、ブラのホックまで外そうと掛かっている。

「なにやってんの!? って、何度目だこれ!?」

 彼女の一挙手一投足、その全てに後手後手。こんなはずじゃなかった。

 フックで留めただけのブラ。そりゃ脱ぐのも早いだろう。

 ポロっと、形の良い胸が全て曝け出された。女子高生のおっぱい。ツンと張ったおっぱい。それが、今、目の前にある。

 手に触れる位置にある。

「うおう。太ももの感触やっば。柔らか。もうちょい上ならガチでヤバ。って、期待してるわけじゃないのよ? うわ、もうおっぱいが零れて。女子高生のおっぱい、同級生のおっぱい! マジで。マジで。乳首! 触りたい! 吸いたい! って、ちがうちがうちがうちがう! ちがくてちがくてー、えーっとぉ、えーっとぉ」

「いいよ。触って」

 言って、きゅっと上履きが鳴った。

 体を少しだけ上の方へとずらしてくる。スカートの下、下着越しでそれが触れ合っているのが分かった。膨れ上がったズボンの中のそれ。

 明らかにわざとやっている。

 ずっと握られていた手が、今度は自ら、彼女の胸に向かっていった。

 もう止められなかった、自分じゃどうしようもできない――。


 ガラリと扉が開いた。

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