Beasts & Flowers
ヴィルヘルミナ
序章 始まりの銃弾
人生最大の最悪の日
惚れた女の結婚式というのは、何とも言えない最悪の気分だ。相手の男が俺の親友というのも最悪に拍車を掛けている。
空は青く晴れ渡り、森の中の小さな教会の前には親族と大学の友人、知人たちが集う。少人数と言っていたのに参列者が百名近いのは、皆が二人を祝いたいという気持ちが現れているからだろう。
腕の時計に目をやれば、式まではあと三十分。タバコを咥えて着慣れないスーツのネクタイを緩めようとした時、聞き慣れた女の声がした。
「
竹矢 永信。俺の名前を気軽に呼ぶ女は、世界に一人しかいない。
「馬子にも衣装だなー、紗季香」
白いウェディングドレスに包まれた女は、俺の意地の悪い言葉を跳ね返すように輝く。艶やかな黒髪は結い上げられ、うなじへと視線を誘う。
「でしょー。私も鏡見てびっくりしたの! 仕立ての良いドレスの威力って凄いわよねー」
艶やかな唇は幸せの笑みを湛え、まぶしい輝きを増していく。その光は、無理矢理笑う俺の心に強烈な影を落としていると理解しているだろうか。
遥か遠くで銃声が響いた。周囲の人間は、会話に夢中で気にすることもないようだ。
「それにしても、こんなクマが出そうな山奥の教会選ぶことないだろ。さっきから聞こえてるの、猟銃の発砲音だろ?」
「低予算で完全貸し切りできるのがここしかなかったのよ。この周囲は禁猟地区だし、害獣対策の柵があるから安心して。祝砲って思えばいいじゃない」
紗季香はいつも俺の難癖を明るい言葉で消し去っていく。その前向き過ぎる思考と笑顔が好きだと正直に告げたら、どんな顔をするだろうか。
「籍は入れたのか?」
「あ、それはまだ。パスポートとかクレカの名義変更って時間かかるから、新婚旅行から帰ってからにしようと思って」
「流行りの空港離婚にはなるなよ」
「海外は初めてだけど、もう何度も一緒に旅行してるんだもの。それは無いわよ」
離婚してしまえばいい。俺の心の叫びは紗季香には届かない。言葉にする勇気も無く、情けないと自嘲しながら道化のように笑うだけ。
「あ、そろそろ戻らなきゃ。ケータリング呼んで立食パーティも用意してるから、沢山食べて帰ってねー」
「おう。皆で食い尽くしてやるよ」
軽く手を振って白いドレスの背中を見送ると、最悪な気分がさらに落ちていく。
幼馴染の俺たちは、昔からずっと三人で過ごして来た。男女の性差を超えた親友というのは表向きで、俺も伊聡も紗季香を狙い続けて互いを牽制しながら、微妙なバランスを保っていた。
大学三年の夏。三人の就職先が決まった直後に紗季香と俺が些細なことで喧嘩をして、半月会わない間に二人が付き合いだしていた。
大学四年になり、卒業を前にして結婚すると聞いた時は驚いた。卒業証書をもらう前に姓を変えておけば、後々変更する手間が省けるからという理由を聞いた時には、紗季香らしいと笑ってしまった。
最悪の気分のまま、式は進行していく。誓いの言葉は右から左。二人の背中を見つめて祝いの笑顔を作りながら、別れてしまえと心の中で呪詛のように繰り返す。
誓いのキスの瞬間だけは直視できなかった。羞恥心からか、二人の接触は一瞬で終わって密やかに安堵する。
俺は二人の親友であり、最大の理解者の仮面を被って、これからの長い人生を過ごすことになるのだろう。最愛の女の替わりはいない。別の女での穴埋めは無理だと、俺自身が知っている。
教会の中での式を終え、外に出ると薔薇の花びらが入った籠が参列者に手渡された。ライスシャワーではなく、フラワーシャワーの演出らしい。俺を含め、男どもは自分が薔薇の花びらを撒くという滑稽さに戸惑いつつ、苦笑しながら籠を持つ。
紗季香と伊聡が教会から現れると、主役は完全に白いウェディングドレスの紗季香だった。白いタキシード姿の伊聡は影が薄い。
伊聡は昔から印象が薄かった。成績はいつも学年で11番。トップになれる実力があるはずなのに、目立ちたくないという理由で調整する変わった奴だった。ランクを落として俺や紗季香と同じ大学へと入ったのも、同じ理由だ。
結婚が決まってから、伊聡は以前にも増して絡んでくるようになったが、俺は微妙に避け続けている。俺と二人きりで酒を飲みたいと何度も誘われたが断ってきた。俺に何の話があるかさっぱりわからないし、冷静に聞ける余裕なんてものは無かった。
薔薇の花びらが舞う中、二人が幸せな笑顔を振りまく。その光が俺の心の闇を黒く重く塗りつぶしていく。
目の前を歩いている紗季香の耳から、白い真珠のイヤリングが転がり落ちた。
「おい、イヤリング落ちたぞ」
「え? どこ?」
紗季香が足を止め、伊聡が一歩先で振り返る。
「俺が拾ってやるよ」
苦笑しながら腰を曲げて拾う。白い真珠を手にした時、頭上を掠める鋭い風切り音を耳が拾った。
「何だ?」
何かが起きた時、その光景がスローモーションで見えるというのは本当だった。
伊聡が目を見開いたまま、ゆっくりと後ろ向きに倒れていく。倒れた伊聡の後頭部から赤い血が地面に広がった。
地面にしゃがみ込んだ紗季香の白いドレスが波打つ。
「どうしたの? 何これ……血? 伊聡! ねぇ、答えて!」
紗季香の問い掛けに何の反応も示さない伊聡の眉間には、小さな穴が開いていた。銃創にしか見えない傷を目にした俺は、その弾を撃った相手を探す。数百メートル離れた木々の中、走り去る人影が見えた。
もしも俺がイヤリングを拾っていなかったら、俺が死んでいたかもしれない。
……狙われたのは俺か。
「いやあああああああ!」
紗季香の悲鳴が響き渡り、異常に気が付いた人々が慌ただしく動き始める。
犯人を追いかけなければと思いながらも、倒れた伊聡に縋りついて泣き叫ぶ紗季香を独りにすることはできずに俺は立ち尽くしていた。
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