止まない雪
詠月
止まない雪
あ……雪だ……
それは、新任の熱血顧問による長ったらしい終礼を終えた後。施錠を一年生に任せ、体育館から外へと一歩踏み出した時のことだった。
不意に視界に飛び込んできた真っ白な冬の世界。ついさっきまで見ていた古くさい茶色の床とは全く違う、自然を感じさせる景色に、疲れきっていた筈の部員たちの瞳が一瞬にして輝いた。
「わっ、雪じゃん!」
「冬だねー」
「久しぶりに積もるといいなあ」
無邪気に声を上げわっと騒ぎ出す皆の少し後ろで、私はそっと手を伸ばした。
……冷たい。
ほとんど水でできた雪はあっという間に溶けて形を崩す。感触も何もなく、ただ水だけが溜まっていく手のひら。体温を下げていく冷たさ。その冷たさが、もう二度と思い出さないようにと奥底へ仕舞いこんでいた記憶へと結び付いていく。
ああ……
「……さいあく」
思わず口にしてしまってからはっと我に返ったけれど、幸いにも私が溢した小さな呟きは気づかれなかったようで皆は元気に声をあげていた。
その様子は楽しそうで、少しだけ……
ほんの少しだけ、羨ましいな、なんて。
「真白? どうしたの?」
私たちよりも遅れて体育館から出てきた佑奈が、不自然に立ち止まる私を見て不思議そうに声をかけてきた。そうしてようやくいつもと違う外に気付いたらしい。
「あ、雪降ってるじゃん」
なんて軽い口調で口にしながら近付いてきて、すぐに寒そうに肩をすくめて。
「さむっ……みんな練習後だっていうのに元気だねえ。むりむり、わたしは早く帰りたい派だわ」
視線の先で写真を撮っている同じ部員たちの姿に佑奈は目を細めた。ハードな練習の名残で熱を持っていた体も、この気温には勝てずとっくに冷めきってしまっている。むしろ寒いくらいで、この温度差は毎年のことながら辛い。
「真白は?」
混ざらなくていいの?
そう問いかけてくる佑奈の目に私は曖昧に頷いた。
「……うん、いいや」
嬉しくない。皆みたいに、喜べない。
今すぐにでも背後の体育館に駆け戻って、止むまで隠れていたい。目も耳も塞いでこの冬の世界をシャットアウトしてしまいたい。
そんな思いを無理やり押さえ込む。
雪のせいで白い視界はどこを向いても同じで変わらない。それがひどく嫌で。
「雪、ねえ……」
不意に隣を歩く佑奈がのんびりと口を開いた。
「降るのはいいけどさ、せっかくならクリスマスに降ってほしかったなあ」
……クリスマス。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
「ホワイトクリスマス、一度でいいから見てみたいんだよね。絶対綺麗じゃん?」
「そう……だね」
佑奈に気付かれぬよう、私はそっと視線を地面に落とした。歩き慣れたはずの帰り道が長く感じる。
……やっぱり、私は皆のようになれないんだな。
改めてそう思った。
皆が綺麗と喜ぶ景色を、楽しむことができない。皆が待ち望む日を、同じように望むことができない。
クリスマス。
子供がプレゼントを貰う賑やかで楽しい日。
私に与えられたのは……最悪な、贈り物だったから。
「真白? 本当にどうしたの、体調悪い?」
おーいと顔を覗き込まれる。
私はううんと首を振った。
「……だいじょうぶ」
その言葉を向けた先は佑奈だったのか……自分だったのかは、よくわからなかった。
◆◆◆
『はいもしもし、川崎です……ああ、いつもお世話になっています、はい……』
部屋のドアを開けた時、一階から聞こえてきたお母さんの話し声。どうやら電話がかかってきたらしい。
休みの日なのに珍しいなあ、とのんびり考えながら私は階段を下りていった。ひんやりとした床の感触が薄い靴下の下から這い上がってきて思わず体を震わせる。暖かいはずのリビングを求めて自然と足が速まった。
『はい、変わりました。お疲れ様です』
電話の邪魔をしないようにそうっとドアを開ける。お父さんと代わったらしいお母さんがすぐに気付いて手招きしてくれた。
『おはよう真白』
『おかあさん、おはよう』
今日は早起きなのねえと優しく頭を撫でてくれて。それが気持ちよくて、私はその手に擦りよった。
とても、温かかった。
『はい……わかりました、すぐに向かいます』
受話器を置いたお父さんが振り返る。
『悪い、ちょっと出掛けることになった』
『ええーっ、せっかくのクリスマスなのにぃ……!』
『ごめんなあ、真白。夕方には帰ってくるから』
ぷくっと頬を膨らませた私の頭を今度はお父さんの手が撫でた。お母さんの手と同じくらい温かくて、大きな手。
『う……わかった……』
所詮子供が止められる事なんてないのだ。
『でも雨が降りそうよ? 駅まで送っていくわ』
『ありがとう、助かるよ。スーツじゃ運転できないからな』
『真白、少しだけお留守番できる?』
『できるもん』
むきになってそう声を上げれば二人は頼もしいねと笑って。手早く準備を済ませ玄関に立った。
『じゃあ行ってくるな』
『行ってきます』
『……うん』
スーツ姿のお父さんとコートを纏ったお母さん。
いつも見てるはずの光景なのに、なぜだかその時はひどく胸騒ぎがした。何がかはわからないけれど不安で、怖くなって手を伸ばしたんだ。
『はやく……はやく、かえってきてね……!』
突然の私の行動に一瞬目を丸くしてから。
『はは、今日はやけに甘えん坊だな』
『すぐに帰ってくるからね』
約束、と小指を絡めてくれたお母さんたちが玄関を開ける。重い扉の先に見えた外の世界は薄暗かった。閉まる直前まで、温かな笑顔を絶やさなかった二人。その姿が今でも強く脳裏に焼き付いている。そして。
……そのまま、二人が帰ってくることは二度となかった。
◆◆◆
駅のホームに無機質なアナウンスが響き渡る。
来たよ、と佑奈に背を押され乗り込みながら私は急いで回想を振り払った。
早く……早く、慣れないと。
忌々しいあの事故の日からもうすぐ六年。いまだ引きずったまま、二人のいない冬を受け入れられないでいる自分に嫌気がさす。
「じゃ、お疲れさま」
数駅で電車は佑奈の最寄り駅に着いた。
下りる直前に佑奈はこちらに向かってひらひらと片手を振る。
いつも通り。いつも通りなのに。今はそれが不安でしかたがなくて。
「あ……う、うん」
お疲れさま、って。私は上手く言えたのかな。
「また明日ねー」
ドアが閉まる。がたん、と一度大きく揺れて電車が動き出す。佑奈の姿が小さくなっていく。
一人きりになった車内は寒かった。
気を紛らすものがなくなり自然と視線は窓の外へと向かってしまう。もしかしたら止んでるかもなんて僅かな期待とは裏腹に、広がっているのは先ほどまでと全く変わらない光景だった。
当時小学生だった私から両親を奪ったクリスマス。その季節を象徴する雪。
「っ……!」
嫌だ。
私はギュッと目を瞑った。脳裏にまた両親の姿が浮かんでくる。
あの日の、二人の姿。「いつも通り」が突然途切れた、あの日の……
待って、と。頭の中で私は手を伸ばす。
行かないで。行っちゃダメ。
ここで引き留めないと二人にはもう会えないって、わかっているから。二人に精一杯手を伸ばす。でも二人は笑って外へ足を踏み出してしまう。それをただ見ていることしかできない。
ねえ……あの時私は、二人を止められた?
思うんだ。もし、あの時私がもっと我が儘を言っていれば。もっと引き留めていれば。二人は出掛けないでくれた? 今も、一緒にいてくれた?
……わからない。
肯定するのが怖くて、それ以上考えられない。
「わたし、は……」
小さく溢れた声は掠れていた。
スポーツバックを持つ手にグッと力を込めた時。
ピコン、と。軽快な音が耳に届いた。
「ぇ……」
戸惑いながらも開いた画面に表示された見慣れた緑のアイコンと、さっき別れたばかりの佑奈の名前。
【ねえ、あった!】
短いメッセージと一緒に送られてきた写真には、彼女が前話していた期間限定のコラボ商品が映っていた。人気でいつ見に行っても売り切れなのだと嘆いていたもの。どうやら今日も見に行ったらしい。ようやく手に入ったから報告してきたのだろう。
「なにそれ……」
他愛もない世間話、だ。私が感じていた恐怖も嫌悪感も、何もかも知らないメッセージ。
けれどそこには、確かに「日常」があって……
「……ふふっ」
思わず小さく笑ってしまった。
まだ消えていない日常。その存在がこんなにも温かく感じる。
……今考えたって、何も変わらないんだ。
二人はもう戻って来ないし、過去にも戻れない。それでも、もしあの時……なんて考えて後悔することも止められないだろう。冬が嫌いなのも雪が嫌いなのも。きっと治らない。このまま、この感情と私は一生付き合っていくんだと思う。
それなら。
「やめよう」
考えるよりも、「大切」をこれ以上失わないようにしよう。
私はもう一度窓の外へと視線を向けた。
最寄り駅まであと少し。雪はまだ止んでいないけれど、今なら一人でも歩ける気がした。
「あ」
そうだ、その前に返信しないと。
既読をつけたまま放置していたトークを改めて開く。いつも使っているいいねのスタンプを送ろうとして……
ちょっと考えて、止めた。
【ありがとう】
すぐに既読がつき、たくさんのはてなを浮かべたくまのスタンプが送られてくる。それにまた、私はクスッと笑ってトークを閉じたんだ。
止まない雪 詠月 @Yozuki01
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