海の泳ぎ方を教えて

石蕗千絢

第1話 不思議な鳴き声➀

 デッキからキラキラと照りつける茜色の夕日が、目を焼くように痛かった。しかしそれでも、自分は果てしない海の景色から視線を逸らすことをしなかった。


「セリーナ王女、間もなく日が暮れます。船室へお戻りを」


 セリーナは名残惜しそうに再度広大な世界を堪能してから、呼びかける男をゆっくりとふり返った。その瞳の奥には静かな怒りが燃えている。


「そのようなこと、言われなくとも承知しています。何度も同じ事を口にしないでいただけますか」


 実はこの言葉、三回目なのである。言われる度にセリーナは潮騒のせいにして、聞こえなかったふりをして無視し続けていたのだ。だが、この男はしつこく同じ文句をぶつけてきた。


 怒気をはらんだ物言いに、しかし男は気に触ったふうでもなく、ただ坦々とセリーナを見下ろしている。それが余計に神経を逆なでするようで、視線を逸らして自室へと足を向けた。


 遠ざかっていく潮騒が、さらに自分を虚しくさせているようで涙があふれそうになり、懸命に唇を噛んで抑え込んだ。


「私はあなたを見守る役目があります。あなたになにかあられては、こちらの面目が立ちません」


 自室に戻るのをこの目で確認するまでついてくる気の男を、セリーナは充血した目でにらみ返した。


「見守る?見張っているの間違いでしょう!あなたがなにを思っているかは存じ上げませんが、わたくしは逃げも隠れもするつもりはありません‼」


 セリーナは勢いよく言い放つと、自室まで駆け込んだ。こらえていた涙がとうに限界を超え、こぼれ落ちてくるのを腕で拭い、拭いきれなくなったところで、とうとう枕に顔を押しつけて泣き始めた。決して誰にも泣いていたと悟られないために、声を押し殺す自分は惨めで、さらに哀しい気持ちになった。

 

 嘘だ。

 

 さっき言った言葉も、自分の態度も、すべてセリーナ自身がついた嘘。

 本当は淋しくて、帰りたくて、でもそこはもう自分の帰って良い場所ではなくて。言いようのない孤独がセリーナという一人の娘をおそっていた。


 セリーナはフリージア王国という国の第三王女だった。おまけに正式な王妃ではない、つまりは寵妾の娘だ。王位継承権もなければ、お荷物扱い。だが、その母が生きている間は王女としての立ち居振る舞いを学び、会いたいときには母に会えるという生活を送る、幸せな日々を過ごしていた。この目で父を見たことはないが、これも国王である父の計らいだったのだろう。セリーナ自身は母と暮らせれば王宮を追い出されても良いという心構えだったので、その点を考えると厚遇だったのかもしれない。


 だが、そんな生活も一変する。

 母が病で亡くなったのだ。

 急逝してからというものの、セリーナは母の死を嘆く隙をあたえる間もなく、立場が悪くなる一方だった。つまり国王が愛していたのは母であって、自分はその付属物だったのだ。


 貞操が悪くなるのを嫌った国王は三年間あまりセリーナの処遇を決めかねていた。その間は、城の雑務をこなしたり、他の兄弟姉妹たちから嫌がらせを受けたりと、壮絶な日々をこなしていた。


 そして下した決断は、大海を挟んだ強国、トサル連合王国に与する国の王の妃として送り出すことだった。

 いきなり礼儀作法を学ばせはじめたことに対し疑問になっていたセリーナは、義姉からの嘲笑うかのような報告に息を呑んだ。自分は見たこともない国へ売り飛ばされ、縛られた生涯を生きるのならば、いっそ放り出して欲しかったとさえ思った。


 連合王国はフリージア王国なんて物ともしない大きな国だと聞いている。王国と関係が悪化している国同士の平和の象徴として、セリーナを妃とするつもりらしいが、これは実質人質としての意味合いが強いだろう。推測するに、妃を差し出せという文句に、切っても無害な娘をあてがい、いざとなったら切り捨てるつもりなのだ。はなから反抗心むき出しの態度に、笑ってしまいたくもなる。


 そこまで読めてしまったセリーナは、しかし城を抜け出すことも叶わず、始終逃げないよう見張りを付けられていた。こんなおいしい娘をみすみす逃がすほど、彼らは馬鹿ではなかった。


(———こんな人生なんていらないわ。生まれからやり直したい)


 セリーナはただそう願った。


 連合王国からの使者が来訪し、自分の身柄を預かり今に至るまで頭に浮かんできた言葉はそれだけだ。粗相のないようにだとか言いつけられてきたが、そんなものなんて従うつもりもない。待っている未来なんて暗澹だけなのだから、多少口が悪くたって未来も同じだ。


 泣き疲れたセリーナはベッドにうつ伏せになっていた体勢から、仰向けになって揺れる天井を見つめた。

 きっと今もドアの向こうにはトサル連合王国からの使者もといセリーナの見張り役が、道すがら何か問題があっても困るから、いつでも駆けつけられるように直立不動で監視しているのだろう。ドアには鍵なんてなくて、建前であてがわれた部屋だとすぐにわかる。


「……別に死にはしないわよ」


 セリーナはふてくされながら小さい声で反論する。

 生まれからやり直したいなどと言った手前、そんな勇気はないのは自分自身が一番知っている。海原を見て誰にも気付かれずに飛び込めば、セリーナは泳げないので海の底に沈んでしまえるのだが、やはり実行に移すには覚悟が必要で、飛び込むのをあきらめた。あの金魚の糞のようにくっついていた男は、まさしくそれを心配したに違いない。


「目が覚めたら全部悪い夢でした、なんてことがあれば良かったのかもだけど、現実そうはいかないわよね」


 一人の時間が多かったせいか、ひとり言が常に出てしまう。高望みをするつもりもないが、もう得体の知れない国の王子様の妃としての自覚だけは胸の奥に灯しておこうと心に決め、眠りにつこうと決めた。泣き止めば恐ろしいほど冷静な自分がいることに驚く。


 深い呼吸を繰り返しながら、不規則な波の音に身を委ねてセリーナはまぶたを閉じた。

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