第8話 戦いの果てに


 どれほどの時間が経ったのだろう。長かったようにも、ほんの一瞬だったようにも思える。

 その紅黒い光がおさまると、深い静寂の中、払暁ふつぎょう仄白ほのじろい光が二人の姿を影絵のように浮かび上がらせていた。洞穴ほらあなの入り口付近で頭を抱えてうずくまっている少女と、その少し手前、小さな草原の真ん中で脚を踏ん張り、少女をかばうように立つ青年の姿を。


「なんとか、間に合ったな………」


 ショーンは静かにつぶやいた。その声に、メラニーが顔を上げる。


「ショーン、おにい……ちゃん? ………こわかったよぉ!」


 ショーンはひざまずいた。両手を軽く広げ体勢を低くして、駆けてきた少女をしっかりと抱き止める。


「もう大丈夫だ。怖い思いをさせて、すまなかった」


 ショーンに抱かれて安心したのか、メラニーは彼の首にすがりついて泣きじゃくる。そんなメラニーを落ち着かせようと、ショーンは静かに語りかけながら強く少女を抱きしめ、髪をゆっくりと優しくで続けた。


「怪我は? どこか痛むところはないか?」


 ショーンの問いに、少女はふるふると首を横に振った。


「大、丈夫。どこも、痛く、ないよ」


 しゃくりあげながらメラニーが答えた。


「そうか。良かっ、た………」


 青年の深い安堵あんどの吐息。それに混じって、緊張から解放された彼の優しい声が、少女の耳元で静かに響く。

 と同時に、少女を抱きしめる青年の腕がいきなりゆるんだ。上体がぐらりと揺らぐ。

 腰の剣がさやごと、淡い光を放った腕輪に吸われるように消えていく。

 青年は少女の身体の表面をずり落ちるように、左半身を下にして地面にくずおれた。


「えっ? おにい、ちゃん? ――おにいちゃん、しっかりして!」


 動揺したメラニーが地面に膝を突く。そして、意識を失いぐったりと倒れているショーンを両手で強く揺さぶった。


「んッ! うぅ……」


 青年が身じろぐ。その口からかすかに苦しげなうめきがれた。

 荒く激しい息遣いきづかい。青年の身体がひどく熱い。

 ぬるりとした感触に驚いて、メラニーは自分の手を見た。


「――血?」


 茂みから彼の足元まで伸びる二本の筋が少女の目に入った。草が倒れえぐられ土がむき出しになったところも見える。先ほどの光に彼が押し出された跡だろうか。だとしたら……。


 メラニーは、うつ伏せに近い体勢で地面に横たわっているショーンを見た。

 険しい表情で苦しげにあえぐ青年。その服はところどころ破れて赤黒く血に染まり、右脇腹から背中の中心にかけては大きく切り裂かれた深い傷が見える。その傷より少し下には、焼け焦げたような大きな穴が開いていた。

 そしてその穴の中心には、埋もれるように微かにあの紅黒い光が―――。


「ひどいケガ……それにこれ、さっきの光? ――早くなんとかしなくちゃ!」


 そう言ってメラニーは血の気の引いた顔でふらりと立ち上がり、洞穴に向かって駆け出そうとした。

 その腕をショーンの手がしっかりと掴む。


「おにいちゃん! 放して! 早く手当てしないと――」

「無駄だ。昔、聞いたことがある。己の生命と引き換えに、相手の生命が尽きるまで、じわじわと、その身を焼き続ける。これは、そんな呪いだ。助かるすべなど、ありは、しなッ――い………」


 青年は激しい熱さと痛みに耐えながら、絞り出すように言った。


 ショーンの手を振り払おうとしていたメラニーの腕から力が抜ける。それと同時に、ショーンの手がメラニーの腕から離れて地面に落ちた。


「そんな――そんなのって………」


 メラニーは言葉を失い、その場にぺたりとへたり込んだ。


 ショーンは奥歯を強く噛み締めた。喉の奥からとめどなく湧き出る苦悶くもんの声がメラニーに届かぬよう、ひたすら押し殺す。その身が苦痛にもだえ暴れる姿を見せないよう、草を掴んで全身に力を込める。

 顔を上げることもできないまま、ショーンはメラニーに告げた。


「呪いが、うつるかもしれない。俺の背中の光には、絶対に、触れるな――」


 黎明れいめい仄明ほのあかり。まだ薄暗い中、少女は目を凝らして、痛みに震える青年を見た。

 少女の目には、ショーンの服の裂け目、赤熱した鉄を思わせる光を中心に、背中側からじわじわと広がってくる火傷が映る。焦げ臭い匂いの中に、血と、生き物の焼ける匂いが混ざってただよう。


 経験したことのない激烈な熱さと痛み――。

 気の狂いそうな激痛に、少しでも気を抜けば遠のいていく意識――。

 いっそ気を失ってしまったほうが楽なことはわかっている。けれどここで意識を失えば、おそらく少女に大切なことを何も伝えられないまま、青年は生命を落とすだろう。そうなれば、この少女は人通りの少ないこの山で路頭に迷うことになる。


(死ぬ前に……いや、意識を保てるうちに、この子が生き抜くために必要な最低限のことだけでも伝えなければ――)


 背中をじわじわと広がる激痛。ショーンは歯を食いしばり全身を硬く強ばらせながら、必死に意識をつなぎ止めようとしていた。


「あたしの、せい? あたしがあのとき出てこなければ――」


 青白い顔で呟くように言うメラニーの言葉を、ショーンは静かにさえぎった。


「いや、それは違う。これは、俺が望んだことを果たした結果だ。悔いはない。それに、巻き込んだのは、俺のほうだ。……君を狙えば俺がこうすることを、あの男は、見越していた。君が出てこなくても、やはり、俺がこれを、食らっていただろう。いずれにしても、俺は、こうなる運命、だったんだ。この呪いが、君に及ばず、本当に良――」


 ショーンは突然言葉を詰まらせ、目を見開いた。

 じわじわと背中の表面を焼き進んでいた熱が、同じように身体の深部にも進んでいたらしい。一度は痛みが落ち着いた呪いの中心部に、これまで以上に激しい痛みが再び襲いかかった。呪いの熱が、とうとう内臓をおかしはじめたのだ。


「ッああぁ――!」


 彼は叫び、反射的に背中を丸めようとした。けれど焼かれていく背中の皮膚が引きつって縮み、それを許してくれない。


「おにいちゃん!」


 メラニーの悲痛な声が聞こえる。

 固く閉じたまぶた。内臓を焼かれる苦痛に顔をゆがませて、ショーンはその身をよじりながら大きく仰け反らせた。


 声を上げまいと、彼は胸の前で右の拳を固く握り、必死に歯を食いしばる。しかしその激痛にこらえきれず、喉の奥から苦悶の声が漏れ出てしまう。

 弾かれたように彼のあごが上がる。痙攣けいれんする身体。魂を絞り出すような声が絶え間なく湧き上がり、ショーンの喉を突き破る。


「ぐふッ……メラ……んッ! あアッ!」


 そんな状況にもかかわらず、ショーンはなおも少女に何かを伝えようと、どうにか言葉を紡ぎ出そうとする。しかしその声は言葉にならず、苦しげな呻きに化けてしまう。彼はうっすらと目を開き、左手をメラニーのいるであろうほうに向けて無意識に伸ばしていた。

 メラニーが彼のその左手を小さな両手で包み込み、胸の前でぎゅっと握りしめてくれる。あたたかい雫……少女の涙がその手にいくつも落ちてくるのを感じた。少女の手は微かに震えている。けれどそのぬくもりはほんの少し、彼の苦痛を和らげてくれる気がした。焦っていた彼の心が、不思議なほどにすうっと落ち着いていく。


「おにいちゃん! もう、いいよ! しゃべらなくていいから――」


 メラニーの必死に訴える声を聞きながら、ショーンは身体から少しずつ力が失われていくのを感じていた。途切れ途切れに吐き出す苦しげな吐息。神経を焼き切られたのか、下半身にはすでに感覚がない。視界もかすんでよく見えない。

 どうやらもう、時間がない。少女に伝えなければならないことはたくさんあるのに、動揺した今の少女には届きそうもない。


「うおおおあああああァ――ッ!」


 瞼をグッと閉じ、青年は突然 えた。彼は激痛に耐えその身を震わせながら、焼けただれていくその背中を、渾身の力で無理やり丸めていく。


「おにいちゃん! ダメ! もういい! お願い、もうやめて!」


 メラニーは必死に止める。しかしその声を無視して彼は続けた。

 黒く炭化した背中の一部の皮膚がメリメリバリバリと音を立て、裂けてがれ落ちていく。そんなことには全く構わず、彼はうっすらと目を開き、吼えながらどんどん背中を丸めていく。そうしてなんとかメラニーに再び顔を向けたところで、ショーンは力尽き地面に頭を落とした。

 激しい苦痛に神経が麻痺まひしてきた。小さく呻き、弱々しく喘ぐショーン。どうやら今の行為で生命をだいぶ削ったようだ。身体がひどくだるい。せっかく少女のいるほうへと顔を向けられたのに、もう頭を上げることもできそうにない。

 青年は力なく横たわりながらも、辛うじて動く右の腕を持ち上げた。半ば放心状態で彼の左手を握りしめる少女。その小さな両手を自身の左手ごと包むように右手を乗せる。


「俺の、声……聞こえるか?」


 青年が呟くように呼びかけると、少女がこくりとうなずいた。それに安心したのか、青年の表情がわずかにゆるむ。


「顔……上げると、すぐ、そこ………茂みの先に、細い、山道が……見えるだろう。陽が、昇ったら、その道を東へ……太陽の、見える方向に……進め。しばらく行けば……街道に、当たる。少し遠いが、街道を、左に……しばらく歩けば、集落もある。ここにいる、よりはずっと、人通り……あるはずだ。……きっと、誰かが君……帰して、くれる。一緒に、行って……やりたいが……どうやら、もう、身体が……言う、ことを、聞い……くれそ……に、ない。無駄な力……使うな。俺の、しかばねは……このままで、いい。荷物は、持って、いけ。あれが、あれば、何日か……生き延び、られ……だろ」


 ぼやけた視界。次第に浅くなる呼吸。途切れ途切れの言葉が、だんだん力を失ってかすれていく。そして、薄れた苦痛の代わりに強い倦怠感けんたいかんと眠気が彼を包み込む。


「死んじゃいやだ! いやだよ………おにいちゃん……」


 今にも消えてしまいそうな少女の掠れ声。少女の両手に力がこもり、震えている。しかし青年の左手はもう、感覚をなくしてしまっていた。つい先ほどまで感じていた少女の手のぬくもりを、その手の震えを、今はもう感じることができない。それにもうこれ以上、彼自身がこの強烈な倦怠感と睡魔にあらがえそうもない。微睡まどろみの中にいる如く混濁こんだくした意識の中、彼はうわごとのように呟いた。


「……生き抜いて、君を守っ……送り届……かった。………君に、昔の俺……同じ、思い、させたく、なかっ……のに……」


 そんな自分の言葉に一瞬驚いたように目を見開いたショーン。動かない身体。しかし、まだ辛うじて右手は動いてくれそうだ。

 ショーンはぐったりと地面に横たわったまま、最後の力を振り絞って震える右手を伸ばし、メラニーの頬に当てた。


「や……くそ……く、果た……せ……なくて、ごめ……。メラ……ニ……、君は、生……き……ろ」


 その親指がメラニーの涙をぬぐうように僅かに動くと、力を失ったショーンの腕が地面にぱたりと落ちた。


「ショーン……おにい……ちゃん?」


 彼の瞳から輝きが失せ、瞼がゆっくりと半開きに閉じられていく。

 苦しげな吐息も、もう聞こえない。

 彼の全身の筋肉が弛んでいく。

 少女はまだ柔らかくぬくもりのある青年の胸に触れて耳を当てた。抗うように打ち続ける心臓の微かな鼓動。しかし、この音も間もなく消え去った。

 そして最後に、背中の傷の中心から、あの紅黒い光がゆっくりと消えていく。まるで彼の生命を燃やし尽くしたと言わんばかりに……。


「やっぱりダメだよ……あたしには連れていけない……」


 ショーンのかたわらに座って項垂うなだれていたメラニーはぽつりと呟くと顔を上げ、彼の亡骸なきがらを激しく揺さぶりはじめた。


「ちがうよ――ちがう! おにいちゃんは、約束を守ってくれたんだよ! ちゃんとあたしをくれた! 生きるって……生きて答えを探し続けるって言ってたのに………なのにこのまま死んじゃうなんていやだよ! 今度はあたしが助けるんだからぁ!」


 メラニーの身体が柔らかな光を放つ。

 まるでそれに呼応するように、ショーンの腕輪も緩やかに光を帯びはじめた。腕輪の光は二頭の龍の姿となり、二人を守るようにぐるぐると回りながら大きくなっていく。

 それら三つの光はどんどん強くなり、辺り一面をあたたかく包み込んでいった。

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