ハムレット

シュセツ

ハムレット

 彼はテレビのあるドキュメント番組を見ていた。なぜこの番組を見ているのか彼自身にも分からない。たまたまチャンネルを変えるのも億劫に感じてそのままにしていただけだった。そのドキュメント番組は、ある企業の内部告発者をあつかっていた。自分の会社の不正を黙って見過ごすことができずにいたある男性が、内部告発をした結果、その不正はただされたものの彼自身は退職を余儀なくされてしまう。その後の告発者とその家族の生活は、転落としかいいようのない惨めな有様となっていて、番組はその部分を丁寧に報じていた。

 「まったく」彼はつぶやいた。

 「なんて馬鹿な事をしてるんだろう。正義をつらぬいたところで、自分や周囲の人まで不幸になってしまっては意味無いのに」

 彼は数日後に期限のせまるレポートの準備をしていた。たいして興味もない番組をだらだらと見ている場合ではなかった。彼は番組の途中でテレビを消した。

 「なんとか今日中にレジュメを仕上げて、明日から本論にはいらないと」

 彼の目の前にはノートパソコンが置かれ、新規書類は白紙のまま煌々と光を放っている。そのわきには図書館で借りてきた自分では買えないような希少な参考文献や資料としてプリントしたものなどが積んである。それらを眺めているうちに、机の上がレポートには関係のない本や滅多に使わないような文房具までが乱雑に置いてあるのが気になってきた。

 「なぜ、これに気付かなかったんだろう。だからレポートがはかどらないんだ」

 そして、机のまわりの片づけが一通りすんだところで、ふと本棚に目がいった。

 「なぜ、これに気付かなかったんだろう。こんなに本棚の本が雑然としていては、探してる本がすぐに見つからないじゃないか」

 見ると本を適当に本棚に入れていた結果、本の種類がばらばらになっていて、どこになんの本があるのかよく分からなかった。

 「おや」彼は一冊の本を手に取った。

 「こんな本買ったかな」彼は読み始めた。買ったまま忘れてしまい、時間がある時には見向きもしなかった本が、なぜか今はとても興味があるものに思えてきた。

 「なぜ、この面白さに気付かなかったんだろう。でも、今はよそう。レポートにとりかからなくては」彼は本棚の整理をはじめた。

 彼は英文学を専攻していた。レポートの課題は、シェイクスピアのハムレットに関するものだった。

 自分の弟に毒殺されたうえ王位を奪われたデンマーク王は、幽霊となってまで、わが子ハムレットにその叔父にあたる弟への復讐を果たすよう望む。しかし、弟に加担して王を殺害したうえ、不貞の末にその弟と結婚した妻ガートルードは許してやれとハムレットにさとす。なぜ、王の亡霊は妻の方は許すのかというのがレポートの課題だった。

 「これさ」彼はつぶやいた。

 「ガートルードが夫の殺害の共謀までしたかどうかはテキストからは分からないと思うんだけどな。まあ、でもこの前提で進めないと、また面倒くさいこといわれそうだし」

 彼はノートパソコンのキーボードに手を置いて、真っ白な新規書類をみつめた。

 「気分転換にコーヒーでも入れよう」

 彼はコーヒーを飲みながら考えた。

 「妻ガートルードは王の生前、王にしがみついて離れようとしないほど、激しく王を求めていたというけど…」

 「王の亡霊が甲冑かっちゅう姿っていうのも、別に戦争で死んだわけでもないのに大袈裟だよな…」

 彼はレポートの課題についてあれこれ考えているうちに、知らず知らずこの間の彼女との一件に思いがおよんでいた。レポートがはかどらない理由は、ハムレットのような古典には興味がないというのもあるが、この前彼女と過ごしたホテルでの事が頭から離れないというのも大きかった。初めて彼女と肌をあわせるという大事な場面だった。

 「ああ、なんであの時だめだったんだろう…」

 彼はやんでもやみきれない思いがこみあげてきた。

 「なんか、あの後彼女の態度が少し変わったような気がするのは思い過ごしだろうか…。すこしてきぱきとしてきたというか…」

 「どうして化粧落としていいなんて聞いてきたんだろう…」

 「自分から、『もう出ましょうか』って言ってたな…。…」

 とめどもない思いが次から次へとよぎるなか、目の前の空白の新規書類がふと目に入った。するとこんな時にレポートの課題をだした担当教授への憎しみのようなものがわいてきた。

 「まったく」彼はつぶやいた。

 「なんで今更ハムレットなんだよ。だいたいあの教授の目のにごりかたは普通じゃない…」

 その時、不用意に動かした手がコーヒーカップにあたり、飲みかけのコーヒーが参考資料の上にさーっと広がった。

 「あっ」彼は声をあげたまま、急いでいたほうがいいのか、くと余計に広がって見苦しくなるのかとっさに考えた。とりあえず彼がティッシュに手を伸ばそうとしたその時、なぜか急に便意をもよおしてきた。よりによってこんな時にと思いながらも便意を我慢することに彼は不思議な愉快を感じていた。

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ハムレット シュセツ @Corrina

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