第二話 初めてのC、さよならC 

 職業訓練校では「組込みシステム技術科」という機械の制御系のシステム構築を学ぶ6ヶ月のコースに入った。生徒は約40人、20代と30代が多く、40代も1割程度、50代はヤスオ含め2名であった。女子は全体の2割程度見受けられた。IT会社出身で、上級レベルの情報処理資格を持つヤスオは内心自信満々であった。しかし、いきなり電子回路の実習でつまずく。講師の指示通りに基盤に電子部品を組み付けるのだが、なかなか想定通りに動作しない。部品の選択や配線になにかしらの誤りがあるらしかった。それでも1桁までの計算機を組み立てたときは、計算機の原理が実践で理解できて純粋にうれしかった。小学校時代の理科少年に戻った感覚だった。IT系の仕事に長年携わったわりにはコンピュータの基本原理を理解していなかったので、疑問がひとつひとつ解消することにも充実感を得られた。電子回路を2週間程度学んだあとは、いよいよ本題のC言語によるプログラミングである。さまざまなプログラミング言語のベースであるC言語を知ることは高い山に登るようなモチベーションがあった。演習で思い通りの動作結果を得たときも学習の喜びを再認識できた。しかし、応用編になると全くついていけなくなった。組込みシステムは家電や自動車を制御するもので、機械が相手のプログラムを組まなければならない。メモリやビットを意識して機械の仕様に合わせて発想するいう世界には全くお手上げであった。ビジネス用システムでは給与計算とか在庫管理とか、処理内容や流れがわかるので、プログラムも理解できる。しかし、機械制御の処理フロー自体が理解できないので、ましてそれを指示するプログラムを読んでも意味は見当もつかない。6ヶ月のコース半場で組込みシステムの技術者を目指すことは諦めた。さよならC言語。おそらく大半の受講生もそうであったようだ。幸いにはカリキュラム後半は一般的なコンピュータ技術の基礎知識としてネットワークやサーバ構築技法を学ぶ内容になったので、最後まで脱落せずに欠席もせず、修了することはできた。

 最後の半月は修了課題にあてられた。自由に課題を設定しシステムを自作しプレゼンするものである。ヤスオはそれまでの社会人生活で事務畑が長かったので、事務効率化を図るためのツールとしてEXCEL VBAを利用することとした。VBAとはEXCELを操作するためのプログラム言語である。参考書を図書館で借りて独学で複数の帳票を集約するプログラムを作成した。50代にして学び直しができたことは本当に恵まれた経験であった。


 職業訓練校に集う面々は様々であった。隣の教室には住宅リフォーム系コースが開講していたが、住宅リフォーム系は女子が多く、社会経験を積んだ30代女子の集団にはなんともいえない色香がただよう。一方、我が組込みシステム技術科は地味で垢抜けない集団であった。そんななか、少ない女子に男子が群がり、マンツーマンでお気に入り女子に指導するオヤジもいて、地下アイドルと陰キャの群れという雰囲気であった。全体としておとなしい集団だった。企業で活躍し順調に出世の階段を昇る勝ち組はこの場所には来ないだろう。皆、何かしらの挫折があり、やり直しのためここにやってきたのだ。ヤスオの隣は、40代前半のいわゆる就職氷河期世代の男子であった。それまで非正規雇用で郵便局窓口業務に従事してきたが、技術を身につけて正社員として道を目指すということだ。組込みシステム技術科の中で一人ヤスオが気になる人物がいた、50半ばのヤスオより2歳年上の先輩氏である。大手新聞社を早期退職した彼は、昼休みには皆と群れることなく、近くの公園のベンチで過ごしていた。修了が近づいた日、その先輩氏を誘って食事をした。彼は公立高校から一浪で旧帝国大に入り、新聞社に就職したということだ。ヤスオも高校時代にその大学や新聞記者という職業に憧れていたことがあった。趣味やスポーツの好みに共通点があり、そして早期退職でセカンドキャリアを目指すという発想、自分と近い匂いのする人種であった。ヤスオは大学受験の際、浪人せずに入れるところを受験し、その後も手頃な就職をしたが、先輩氏の人生はヤスオのオルタナティブを体現しているかのようであった。もし、浪人して憧れの大学に入ったとしても、結局同じところにたどり着いたのかもしれない・・・

 

 職業訓練校の目的と存在意義は就職である。残り2ヶ月頃から就職活動が始まる。生徒のプロフィールが学校のホームページに掲載され、また採用実績のある企業にDMでプロフィール紹介が送付される。そして企業から訓練校にオファーが届くという仕組みである。オファーが届くと、講師から生徒に書類が手渡される。生徒としては毎朝のその時間はドキドキと心落ち着かないときである。ヤスオはIT系の実務実績があり、上級レベルの情報処理資格やコンサルタント資格を持っており、ハイスペック人材を自認していた。年齢のハンディはあっても採用されないことはないだろうと軽く考えていた。しかし、オファーは若手または実績ある40代に集中し、声のかかる生徒とそうでない生徒はだんだん二分していった。就職活動が始まり一ヶ月して、最もオファーの集中する優秀な生徒に様子を伺うと、意外にもまだ決まっていないとのことだった。オファーは多くても業務内容と条件が伴うことは少ないようだ。50代のヤスオにも4件のオファーはあったが、応募に見合う会社は1件のみ、そこへの面接にはスーツとカバンを新調して望んだ。中堅のシステム会社であった。面接は人事担当+開発現場2名の計3名、約1時間の質疑応答だった。訓練校には同社からヤスオ以外にも3名へオファーがあったが、面接時間や面接官の人数からヤスオが本命だっだのかもしれない。それでも採用にはならなかった。ヤスオの経歴から即戦力のITコンサルまたはプロジェクトマネジャーを期待したのであろうが、ヤスオのスキルはそのレベルには満たないことは本人が自覚していた。再教育が必要な中高年の採用は合理的ではない。客観的に考えればあたりまえのことである。

 ヤスオの就職は難航した。職業安定所経由で約10社、ネットでも相当数応募したが、ことごとく不採用、または通知もなかった。応募職種もプログラマを断念し、多少の経験のあるシステムエンジニア、プロジェクト管理等、当初の希望からずれていくのだが、それでも書類審査さえ通らない。やがて、営業、インストラクタ等、職種を問わず応募した。正社員ではなく、派遣にも応募した。派遣会社の営業マンは「ヤスオさんのキャリアなら時給2400円でいけますよ!!」と威勢よく声を掛けてくれたが、なかなか実案件の紹介はなかった。転職を繰り返したヤスオは中途半端なゼネラリストであり、企業の求めるスペシャリストではなかった。資格も経歴も武器にはならなかった。労働市場的にはIT人材は深刻な人手不足といわれていた。しかし、求められているのは即戦力の経験者または将来性のある若手だった。

 コロナ不況といわれたその年、訓練校では就職決定率が全体に低下し、若手でも苦戦していた。修了を前に半数以上は就職先未定であった。その頃になるとヤスオはネット求人中心にエントリしていた。その中で、小中学校IT支援員という仕事の募集に目が留まった。学校現場へのパソコン導入が国策として進められる中、大量の支援員の求人が発生したのである。早速応募し、面接を経て無事採用通知を受け取った。ビジネスではなく、子ども相手ということに希望や明るいものを感じたので、すぐに入社意思を伝えた。なんとか、訓練校修了前に就職先を決定することができた。すると、その当日および翌日に好条件のオファーが2件届いた。ほぼ2ヶ月各企業からふられ続けたにも関わらず、何故か重なるものである。IT支援員を白紙にするか一瞬迷ったものの、縁を信じて後からのオファーは断った。


 なお、就職活動に際してはいわゆる転職斡旋会社の支援サービスも利用していた。メガバンクの子会社を早期退職する際に、退職支援として基本給6ヶ月分の退職金割増と転職斡旋会社の支援サービスが手当されたのである。転職斡旋では有名企業であり、契約書に記された数百万円の受託金額を目にした時、その金額を転職斡旋会社に支払うなら退職金を上積みして欲しい、と率直に感じた。シニア社員の退職により数千万円のコストが浮くわけであるから、退職させる側としては転職斡旋会社に数百万円支払っても十分割に合うという算段なのであろう。いずれにせよ、どれだけ優良な働き口を紹介してくれるのかと期待もあったし、50代の転職でもなんとかなるどだろうという安心感にはつながった。

 その会社のキャリアコンサルタントおよび営業との面談で、プログラミングに挑戦したい旨を告げると、あっさり、年齢的に難しいと首を横に振られた。それでは、自分が就けそうな職種には何があるかと尋ねると、クレジット会社での勤務経験があるから、、、債権回収関係の仕事ですかね、、、という渋い反応であった。債権回収の電話を掛けまくる自分の姿を想像すると、未知の世界に向けて早期退職に踏み切ったときの前向きな気持とは全く相容れないものであった。

 結局のところ、数カ月間の就職活動の間、その転職斡旋会社からは1社の紹介も無かったし、何の精神的あるいは技術的バックアップも得られなかった。IT支援員の仕事に決定しサービス終了のメールを送付すると、就職先に関する詳細情報の返信を求められた。発注者である元の勤務先とは成功報酬の契約も結ばれていたので、その就職先情報をもとにさらに数百万円の利益を得たのであろう。自分が金を支払ったわけでもないが、何か口惜しい気持ちが残った。


 ところで、職業訓練校在籍の6ヶ月間は、失業保険給付金を月20万円程度受け取ることができた。大変ありがたい制度ではあるが、税金や健康保険を支払うと、妻と2人の生活は厳しい。週20時間までは労働が認められるので、バイトに就いていた。しかし、たかだかバイトであっても、応募してもなかなか採用はされない。小売店を中心に応募したが、長期勤務を前提に採用するので、6ヶ月の期間限定での応募では7社に断られ続けた。やっと採用されたところは、生活協同組合の個人配送のトラックへの商品の積み降ろしの仕事であった。17時〜20時までの勤務時間で、肉体労働であるから学生が多いかと思いきや、若者は皆無で、ヤスオより年配の壮年の人たちが働いていた。3時間という労働時間は、退職後の小遣い稼ぎに丁度いいのだろう。お金をもらって筋トレができると思えば、悪くない仕事であるが、夏場の暑さは、高校時代の部活を思い出させる苦しさだった。荷物を抱えたままバランスを崩してプラットフォームから転落する危険もあった。労働力不足といわれる日本において年寄りの肉体労働が配送業務という生活インフラを支えていた。

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