第3話 数ならぬ心の咎になし果てじ


数ならぬ心の咎になし果てじ


       知らせてこそは身をもうらみめ


            西行     


          (653・7645)(日本古典文学大系・歌番号)


日出子は繁華街にあるジャズ喫茶のドアを恐る恐る開けた。


今日は来ているかしら、来ていないかしら、と、胸がドキドキする。


細長い店内の一番奥の薄暗い所にたむろしている人がいるなら、


その中に谷川さんはいる。


奥にうごめく人影がなければ、がっかりするが、居れば居るで、心臓が張り裂けそうになる。


日出子は、ドアを開けると一瞬で人影のうごめくのを見た。


ああ来ていると思った瞬間、悦びよりも緊張が心を占めた。


さりげなく奥から一番遠い入り口近くの席に座った。


日出子はレモンスカッシュを注文して、英語の問題集を開いた。


目は英語の上をなぞっているが、頭には何も入ってこない。


谷川洋二郎のことで頭がいっぱいだった。



谷川洋二郎が生徒会長に立候補した。


講堂でした選挙演説の時に、途中で言葉が詰まって、一秒ほど沈黙した後に、


「あっ、忘れた!」と言って頭をかいた。


その時、日出子の心にビビッと電流が走った。


素朴な人、可愛い方と日出子は思ってしまった。


それ以来日出子は勉強が手につかなくなった。


期末試験の勉強も手つかず、物干し台に上がっては月を眺め星を眺め、洋二郎のことを思った。


洋二郎は、仲間とたむろして遊んでいるにも関わらず、東大を受けるという噂が流れた。


日出子は洋二郎が好きだと女友達にも言えなかった。


お好み焼き屋で生計を支えている母子家庭を卑下していた。


大学教授の父を持つ洋二郎に告白できる身分でないと、心まで閉ざそうとしていた。


だが抑えても抑えても、洋二郎が好きで好きで抑えきれなかった。


洋二郎に自分のことを気付いてもらいたいと、せっせと喫茶店に通ったけれど、洋二郎に自分の心は通じなかった。


たむろしている連中の中の一人が、たまに帰りがけに日出子に気づいて、


「おっ、大内も来ていたのか」と声をかけるぐらいだった。


日出子は洋二郎が振り返りもしないで出ていくのを、いつも見送るのみだった。



日出子は洋二郎に告白する勇気はなかった。


やがて洋二郎は東大に進み、日出子は地元の短大に入った。


東大を卒業して官吏の道を歩み始めた洋二郎は、地元には帰ってこなかった。


日出子は、あの時告白していれば自分の人生は変わっていたかもしれないと考えることもある。


でも、すぐに、告白したとしても、しがないお好み焼き屋の娘では、あの方に受け入れてもらえるはずはなかったのだと思い返す。


日出子は、洋二郎が東京の上司のお嬢様と結婚したということを聞いても、洋二郎が忘れられなかった。


日出子は、一生独身を通し、いつまでも洋二郎を恋していた。

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