第2話 鳥辺野を心のうちに分け行けば  西行

鳥辺野を心のうちに分け行けば

       いぶきの露に袖ぞそぼつる

              西行

紫陽花は亡き美樹夫の墓に詣でていた。

大学生だった美樹夫と紫陽花は、結婚を誓った仲だった。

卒業旅行にドイツに出かけた美樹夫はアウトバーンで交通事故に巻き込まれて亡くなった。

以来、紫陽花の身体を数多くの男性が通過して行った。

が、美樹夫のように心をぎゅっと捉えてくれるくれる男性はいなかった。

美樹夫とは、社交ダンス俱楽部で知り合って、パートナーになった。

社交ダンス倶楽部は、大学の中ではマイナーなクラブだった。

ディスコが全盛の時代に、社交ダンスなんて、時代遅れで噴飯ものだと言われていた。

だが、美樹夫は鹿鳴館時代に深い思い入れがあって、男子としては珍しくコスチュームの美と、踊りの形式美に惹かれていた。何の決りもなく、情熱のままに踊り狂うディスコよりも、型を踏襲して踊る社交ダンスの方が貴族的で気品があると言った。紫陽花も鹿鳴館時代の踊りに極上の優雅を感じるのだった。

趣味が同じだった二人は、深い絆で結ばれていた。

手を伸ばせばもう指の先にあると思っていた幸せは、美樹夫の事故死で吹き飛んでいった。

美樹夫との想い出は、二十五年経った今も色あせることはなかったが、どの想い出の上にも悲しみのヴェールが被せられた。

それは、一度仕上がった絵の上に、淡い青色の絵の具が塗られたような感じだった。

晩秋の海岸で、紫陽花と美樹夫は戯れていた。

靴を脱ぎ棄て、波に足を入れた二人は、美樹夫がズボンのポケットから取り出したリンゴを海水で洗って紫陽花にわたすと、紫陽花は皮のまま齧った。すると美樹夫がそれを取り上げ、笑いながら齧った。紫陽花も負けじと美樹夫が一齧りしたリンゴをまた取り上げて齧った。二人はおかしくて抱き合った。その拍子にリンゴは海に落ちて、泡立つ波の中で、独楽のようにくるくる回っていた。

その輝かしい想い出も悲しみのヴェールで覆われる。

今となっては、それは自分一人が見た映画のワンシーンのようだった。

紫陽花は後悔していた。父の反対を押し切って美樹夫のドイツ旅行について行っていたら、美樹夫はスピードを出し過ぎたりはしなかっただろうと。

紫陽花は美樹夫のいない空白を埋めるように、大勢の男と交わった。しかし、美樹夫の空白は、誰によっても埋められることはなかった。

父母が望む結婚ができないまま、25年が過ぎていた。

紫陽花はダンススクールの先生になっていた。

今では独身の美しい先生として人気があった。

紫陽花は墓石を洗い、樒をあげ、お線香を立てて手を合わせて拝んだ。

心の中で、一緒にドイツ旅行に行かなかったことを詫びていた。

山茶花のようにあっけなく散っていった美樹夫の命。紫陽花は、その山茶花の花びらを拾い集めて、抱きしめたいと思った。その時、美樹夫の手が、紫陽花の肩を掴んだような気がした。

「美樹夫さん」と言って振り返ったけれど、誰もいなかった。

紫陽花は、今も癒えない悲しみを抱いて、家に帰ってきた。

紫陽花が玄関の戸を開けると、母が奥から飛び出してきて、

「今、楚代子(そよこ)さんに会わなかったかい?」

と急いで聞いた。

「会わなかったけど」

「そうかい、たった今出て行ったんだけど。楚代子さんが、結婚すると言って、お相手の方と一緒に挨拶に見えたんだよ」

「そう」とあいまいに言って、紫陽花は奥に入った。

紫陽花は、美樹夫の手が、肩を掴んだわけが分かったと思った。

ダンススクールのパーティに来ていた楚代子の婚約者の貞夫が、デモンストレーションでタンゴを踊った紫陽花に一目ぼれし、払っても払ってもしつこくアタックしてきた。貞夫の情熱に負けて、紫陽花は貞夫と一夜を共にした。

15歳も年下の若い貞夫の攻撃に、紫陽花は身も心も茫然自失し、立ち上がることもできなかった。

これが愛弟子楚代子の恋人でなければ、断ち切ることはできなかっただろう。

愛弟子を欺いている罪の意識にさいなまれ、貞夫への思いを断ち切ったばかりだった。

貞夫は、楚代子は大切にするし、絶対口外しないから付き合ってほしいとあきらめてくれなかったが、紫陽花はきっぱりと思いを断とうとしていた。少しでも、気を緩めれば紫陽花自身が、自滅しそうだった。

美樹夫の気配を肩に感じたのは、美樹夫が自滅しないようにと、紫陽花を助けてくれたのだと、紫陽花は感じていた。



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