恋文の物語

 彼らが出会ったのは、平成がはじまって間もない頃です。まだ携帯電話は普及もしていませんでした。場所は北関東の、とある商業高校です。元々は女子高だったその学び舎に通う生徒の大半は女子生徒で、彼女もその中のひとりでした。彼女の名は、波瑠音はるねと言いました。


 彼女はクラスで目立つタイプの生徒ではありませんでした。どちらかと言えば、みんなと会話を楽しむよりも、ひとり静かに小説でも読んでいるほうが好きな生徒だったのですが、とはいえ周囲の中で悪目立ちすることもなく、穏やかな学校生活を送っていました。


 彼女の凪いだ日々に、さざ波の立つような出来事がありました。


 彼女たちのクラスの担任が途中で変わることになったのです。元々はまったく別の先生が担任をしていたのですが、その先生が体調を崩して、休職してしまったのが、その理由です。前任となってしまった先生は、根は悪いひとではないのですが、すこし思い込みの激しいところと感情的になりやすいところがあり、苦手意識を持っている生徒も多くいました。それでも急な休職ということで生徒たちは寂しさを口にしましたが、それでも彼らの学校生活は続いていきます。新しく担任になる先生は誰か、というのは、ほとんどの生徒にとってはそれ以上に重要なことでした。


 彼が、新しい担任の先生でした。別の学年を教えることが多かったので、彼女はその時、彼の顔さえ見るのがはじめてでした。いえ、もしかしたら見たことは一度くらいあったのかもしれません。正しくは、はじめて気に留めた瞬間と言えばいいのでしょうか。


「み、みなさん。坂野先生がすこしの間、お休みすることになりましたので、わ、私が代わりに、みなさんの担任することになりました」


 緊張がこちらにも伝わってくるような話し方でした。当時の彼は二十代前半で、まだ教師になったばかりの、若く不慣れなその姿に、生徒たちは、ほんのすこしからかうようなまなざしを向けていました。


 やがて真面目な生徒は、彼のその自信のなさを嫌い、不真面目な生徒は、彼の御しやすい雰囲気を小馬鹿にしました。


 彼女は、そのどちらのタイプにも属さない生徒のひとりでした。

「波瑠音はああいうタイプに弱そうだよね。母性本能、くすぐられるでしょ」

 と言ったのは、彼女と仲の良いクラスメートでした。


「そ、そんなことないし」

「嘘だー」

「本当」

「そのわりには、いつも話しかけに行ってない? どうでもいいことまで。坂野の時は、全然そんなことしてなかったじゃない」

「偶然、偶然」


 この時はまだ、彼女自身、自分の想いには気付いていませんでした。自覚するようになったのは、その本心を彼女よりも先に察した周囲のからかいでした。


 当時の彼女は日記を付けていました。


 古風な言い方を好む彼女は、恋心を自覚した瞬間を、

〈恋慕の情に気付く〉

 と当時の日記に記しています。


 想いを伝えたい、と思いながらも、結局は言えないまま流れていく時間に焦りを感じていました。囃し立てる周囲の言葉が、ためらいに繋がったのかもしれません。静かに、穏やかに、ふたりで話す日なんて、ほとんどなかったからです。


 彼女はラブレターを書こうと決めました。

 直接会って、口で言えないなら、この方法しかない、と。


 放課後の教室で残っているのは、その日、彼女だけでした。夕暮れの陽に染まった景色の中で、淡い青の便箋を一枚広げて、頭を悩ませていました。


「あれ、こんな遅くまで」

 と声が聞こえました。教室の出入り口に、彼は立っていました。


 ふたりきりになりたい、と願っていた時は、まったくなれなかったのに……。彼女はふいに訪れた機会に、どきり、としました。


「先生」

「それは手紙?」

「恋文を書こう、と思いまして」

 自分の想いがばれてしまってもいい。そんな気持ちで、彼女は言いました。


「恋文なんて、ずいぶん古風な言い方をするね。相手はクラスメートの子かな? ……と、申し訳ない。そんなの言いたくないか」


 この鈍感、と彼女は言いたくなりましたが、こういう性格のひとだから、彼女は惹かれてしまったのでしょう。


「違います。でも身近、という意味では近いかもしれません」

「丁寧に綴った言葉はきっと相手にも伝わるよ。……そりゃ、まぁ答えがつねに良いものであるとは限らないけど、ね。でもたとえ結果がどうであったとしても、過程はやっぱり大事だよ」

「先生、一緒に考えてくれませんか?」

「えっ、い、いや」彼は、びっくりした表情を浮かべて、言葉を詰まらせました。「それは自分で考えるべきだよ」

「嫌ですか?」

「嫌ではないよ。ただ部外者の僕が関わるのは、その送りたい相手に失礼になるんじゃないかな」

「たぶん……、いえ絶対に失礼にはならないですよ」


 だって部外者ではなく、当事者なのだから。彼女は心の中でそう付け加えました。


 彼は迷いましたが、結局、彼女と一緒にラブレターの文面を考えることにしました。誰かに手伝ってもらったなんて、絶対に言ってはいけないよ、と添えて。


「一緒に考えてくれて、ありがとうございます。……想いがどうしても伝わって欲しくて、私、ズルしちゃいました」


 書き終えた便箋を封筒に入れると、彼女はそれを両手で持ち、彼に差し出しました。

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