#5 ナイフと銀河
階段をおりて、だれもいない廊下をとおり、裸電球に照らされた宿の玄関を出ると、点滅信号のある山道を渡った。左右に伸びる道はまっくらで、クルマがやってくる様子はなかった。アスファルトの上で黄色の光が明滅しているだけだ。
女が言ったように、杉木立のなかを細い道が折れ曲がりながら下っている。その方角からは、沢を流れる水の音が聞こえてくる。わたしは信号機の明りを頼りに、ゆっくりと道をたどりはじめた。
む。硫黄のにおいが鼻をつく。聞いてきたとおり温泉があるようだ。向こうに明かりが灯っている。わたしは暗がりを選んで道を下っていった。
「どこへ行くのかな」
心臓が飛び上がるかと思うくらい驚いた。杉の木の陰から声をかけてきたのは宿の主人だった。
「お客さん、明りも持たずにどこへ行くんだい」
「あ、あの……」
じろじろとわたしの様子を眺めている。わたしは来たときのままの格好で、手にはリュックをひとつ提げていた。男はじっとリュックを見ていた。
「温泉があると聞いたので」
「まだ支度が終わっていないが……。ははあ。『ひかりのくに』か。あれはあの話が好きで、これと見た泊り客にはすすめるんですよ。そうですか。読んだんですな」
男は意味ありげにそう言うと、「こっちです」とわたしの先に立って歩きはじめた。まさか死ぬために谷川へやって来たとは言えない。わたしはおとなしく男に付いて歩きはじめた。
森の中の脱衣場まで案内すると男は、自然石でできた湯舟は危ないので一緒に入るのだというという。さっさと裸になると、先に湯けむりたなびく方へ消えてしまった。木で作られた粗末な脱衣場だった。夜風が吹き抜けて身体が縮み上がるほどに寒い。裸になったが、風呂に入るのにこんなに頼りない心持になったのはじめてだ。脱衣駕籠に入れたリュックにはナイフが入っている。なんだか後ろめたいのだ。
「まだかね」
「は、はい」
男から温泉に入るときの注意をいくつか聞かされる。なるほど、湯けむりで不確かな足元は舗装されておらず危険だった。男に続き手探りで湯に入った。熱い。水面からもうもうと立ち上がった湯気が視界を覆う。
「ごらんなさい。今夜の星はいつもにも増して綺麗だ」
男の声に空をふり仰ぐ。そのとき、さあっと冷たい風が吹きおろしてきて、周囲に満ちていた湯けむりが吹き払われた。
星が見えた。温泉の真上だけ、まっくろに広がる杉木立が切り取られている。黒い森に現れた空の裂け目。その裂け目から一面の天の川が――銀河が、遠く宇宙からわたしのことを見下ろしていた。
荘厳であって美しい。街の空にはない光景だ。畏怖か、それとも感動か、わたしの身体は震えていた。
「手を見たんだよ」
振り返ると、いつのまにか男は湯船の外に立ち、わたしを見下ろしていた。手にわたしの大型ナイフを持っていた。
「だから、わたしらには分かったのさ。あんたも同じだとね」
男がナイフを振りかぶった。銀河を映して、ナイフの刃がきらりと光った。
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