第16話 予定は未定
中島が部屋に戻り、明日使用する脚本の執筆を始めてから数時間。
時刻は21時を少し過ぎていた。
するとホテルの入り口から、腕を組んだ男女がロビーに入って来た。
「いらっしゃいませ」
フロントにいた金子は挨拶で迎えたのだが、本日予定しているお客はもういないはずだと、頭によぎる。
山道を歩いて来たとは思えない程、男女二人は楽しそうだ。少しお酒も入ってる感じもしなくはない。
いつも通り金子は、お客の名前を訪ねる。
その名前を聞いた瞬間、ドクンと大きな音が自分の心臓から聞こえた。
金子は冷静を装い、手続きを進める。同時進行で奥にいるベルボーイの矢吹を呼び出し、間宮に気付かれないよう、矢吹の耳元でこの男が間宮だという情報を伝える。
しかし間宮はやはり酔っているのか、横にいる女性とイチャイチャしており、金子たちのことには全く興味がないといった感じだ。
「間宮様。失礼ですが、チェックインは明日と伺っておりますが」
「あぁ。そうだった。実は西表島には少し前から滞在していてね。今泊っているホテルに飽きてしまって一日早く来たんだよ。部屋は空いているかね?」
ホテルに飽きた。その言葉が金子を益々不安にさせる。
「あ、空いております。少々お待ち下さい」
「ありがとう」
そう言うと、間宮は直ぐに女性に話しかける。
「それからもう一つお伺いさせていただきたいのですが」
「なんだね」
「間宮様のご予約情報には、お連れのお客様のお名前が、男性のお名前で登録されておりまして。その、こちらのお客様が宿泊されるということでしょうか」
「そうだが。何か問題でもあるのかね」
「……いえ、念のため、確認でございます」
「伊藤小百合よ。あなた、いちいち細かい人ね。」
どういった関係なのか。宿泊予約情報のカムフラージュと、二人の親密そうな関係から察するに、おそらくいけない関係だろう。確か間宮は結婚している。金子は思い出した。
「ねぇ、まだ?」
突然冷めた目で金子を見る伊藤。
「失礼致しました。矢吹君お願い」
「それではお部屋までご案内致します」
二人を案内する矢吹の表情は、珍しく真剣だ。
間宮はテレビで見る印象とほぼ同じだった。スーツ姿ではなく、ラフな格好をしていたが、それでも品格があり、一般のお客とは何か違う雰囲気があると、金子も矢吹も感じていた。
エレベーターに乗ったことを確認し、金子は支配人の元へ急いだ。
矢吹は自身の後ろでいちゃつく二人を、背中で感じていた。この男が日本に影響力のある政治家。間宮敬一郎なのか。
「なぁ百合子~」
「なぁに? けいちゃん」
「西表島はどうだ? 楽しいか?」
「そうねぇ。とにかく暑いし、自然ばかりだから少し退屈」
「そうかそうか、それはすまなかった」
「でもけいちゃんと一緒だから、それだけでいいの」
「あはは! あはははは!」
アニメみたいな笑い方じゃないか。矢吹は後ろを振り返って、間宮の姿を見たくて仕方がなかった。
間宮の部屋がある20階に到着した。
廊下の一番奥にある、このホテルで一番高価な部屋へ向かう矢吹はふと思った。間宮が予約していた部屋は、ここだっただろうか。確か、もう一つ下のランクの部屋だったはずだ。
なるほど。機転を利かせた金子が、この部屋に変えたのか。さすがは金子。頼りになる。
「おい君」
「はい、なんでしょう」
矢吹は立ち止まらず、間宮に返事をする。
「このホテルは、確か大浴場があったと思うのだが」
「えぇ。10階にございます」
「なんでも古代ギリシャ建築に寄せた大浴場だと聞いている」
「はい。ホテル・ヘラクレス自慢の浴場でございます」
「はっはっはっは! それは楽しみだ。百合子、後で行こうな」
「古代ギリシャを感じることが出来るのね! 素敵」
間宮のアニメ笑いの余韻が終わるころ、ちょうど部屋に到着した。
矢吹はキーを差し込み、扉を開き、二人を通した。
「お荷物はこちらに」
「あぁ、ありがとう」
「それでは」
矢吹は慎重に荷物を置いて部屋から出る。
「君」
「……はい」
「これ」
「……なんですか?」
「うん? チップだよ。いらないのかね」
日本人のお客からチップを貰うことなどない。矢吹は飛びつくようにチップを受け取ると、過去一しっかりとした声で挨拶をして部屋から出て行った。
チラッとチップを確認すると、まさかの福沢諭吉と目が合う。
矢吹は高まる鼓動を抑えられず、長い廊下を全力疾走した。
仕事中に久しく感じたことのない高揚感。
矢吹の目は輝きに満ちていた。
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