2.
椎尾は赤い顔をしてふらふらと軽井沢の林の道を歩いていた。
知人とのバーベキューが終わり、今晩泊まるコテージに戻るところなのだ。
夏といえども軽井沢の夜の風は冷たい。ポケットをまさぐりコテージの鍵が見つかったころには高価な酒は少し抜けていた。
「ガチャ」
鍵を開ける音に交じって誰かの声が聞こえた気がする。
椎尾が辺りを見回すと背後に腕を組んで立っている男がいた。
「椎尾さん、ドンペリはおいしかったですか?」
デイバッグを背負い帽子を深めにかぶったその男に椎尾は心当たりがあった。
ついこの間まで会社の共同経営者だった出渕である。
彼はゆっくりと椎尾に近づいていった。
「お、お前、どうしてここに・・・?」
「パーティーをやってると聞いたもので、
ちょっと見に来ちゃいました」
「・・・」
椎尾はコテージのドアに手をかけたまま固まっていた。
「一体何のパーティーだったんです?」
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「ドサっ」
コテージの中に入り、部屋の中央にある木造りのテーブルにデイバッグを下ろすと、出渕は椎尾に向けて見せるようにファスナーを開けて中からノートパソコンを引き出した。
「ボクの作ったAIは ウチのビジネスの中核ですよね。
あ・・・、もう自分は社員じゃないから「ウチ」はおかしいか。
「アバカス・エージェントさん」かな?」
出渕の考案したシステムは AIがネット上のありとあらゆる情報を収集して株価の予測をし、効率的な投資を行うものであった。
さらに株だけでなく仮想通貨や競馬などのギャンブルまで組み合わせて収益を上げる仕組みが人気を呼び、椎尾と二人で設立した アバカス・エージェントは飛躍的な成長を成し遂げたのだった。
出渕はノートパソコンを操作しながら話を続けた。
「あの会社もだいぶ大きくなりましたよね。
今は何の会社かひと口で言えないくらい」
アバカス・エージェントは出渕と椎尾の共同経営という形で始まったが、出渕はビジネスそのものにはほとんど興味がなかった。
彼が AIシステムの改良・発展に没頭している間、椎尾は会社を大きくするためにさまざまな分野へと手を広げていった。
ときにはビジネス上の失敗もあったが、出渕はほとんど口を出さなかった。彼のAIシステムは会社にとって絶対的な強みであったのだ。多少の損害など気にもならなかった。
「まさかボクが追い出されるなんて思いもしませんでしたよ」
アバカス・エージェントの成長の裏でさまざまなベンチャー企業の吸収・合併が行われてきた。ときには 乗っ取りと言えるような卑劣な手段がとられることもあったのだ。
出渕にとってそのようなやり方は受け入れ難いものであった。人から恨まれるようなやり方をせずともこの会社は成長できるハズである。
それに、もとは自分たちだってベンチャー企業のひとつだったのだ。夢を奪い取られる起業家の気持ちは痛いほどわかる。
出渕と椎尾の目指す方向は既に大きく離れてしまっていた。
「まあ、考え方の違いですからね。
ボクの意見が受け入れられないのなら仕方がないし。
別にずっといっしょにやっていかなくてもいいですし」
出渕はパソコンの画面をくるりと椎尾の方に向け、Enterキーにそっと指を置いた。
「今日は退職金をもらいにきたんです。
10億ほど、ボクの給与振り込み口座に入れてください」
「はあ? じゅ、10億だと?」
椎尾は眉をひそめながらパソコンの画面に注目した。
「全てのデータを消去しますか?
[OK][キャンセル]」
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「な、なんだそれは?」
「ボクが関わるすべてのプロダクトを消去します。
この人差し指が2ミリ沈んだら、あの働き者のAIはこの世から消えてなくなっちゃうというワケです」
「なんだと!?」
「あ、急に動いたりしないでくださいよ。
びっくりしてポチっちゃいますから」
椎尾はイスから浮かした腰をゆっくり下ろし、ポケットからスマホを取り出した。
「10億だぁ? ふざけんなよ」
「今後AIをずっと使い続けると考えたら、ライセンス料としては格安ですよ。
10分以内に振り込みが確認できなかったら、このままポチって帰ります」
「10分? ちょ、待てよ」
「そのスマホでできるでしょ?
ポケットマネーからでも構いません。
会社の金もだいぶポッケに入ってるようだしね」
「バカヤロ、個人の金で 10億なんて簡単に動かせるかよっ!」
「へえ、動かせないだけで、あるってことかぁ」
「ちっ、
・・・・ちょっと待ってろよ」
椎尾はあぶら汗を垂らしながら、一生懸命スマホを操作している。
「よし、今 送金画面を見せるから」
出渕が椎尾の手元に目をやった瞬間、そのスマホのストロボが光った。
「ピカっ!」
「うっ・・・」
目をつぶった出渕の人差し指は Enterキーから離れ、次の瞬間彼の腹部に鈍い衝撃が加わった。
「うぐぅっ・・・!!」
コテージの床に沈み込んだ出渕が目を開けたときには、ノートパソコンは既に椎尾の手の中にあった。
「ふざけたことぬかしてんじゃねえよ。
何が 10億だ。会社を大きくしたのはオレだろ」
苦悶の表情を浮かべた出渕はうずくまったまま応えた。
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「あんた、覚えてるか? パスワードを」
「パ、パスワード? 」
椎尾が奪い取ったノートパソコンの画面にはデータ消去の確認画面が表示されている。
「全てのデータを消去しますか?
[OK][キャンセル]」
もちろんキャンセルだ。
椎尾がバカげた選択肢を閉じると、その背後に隠れていた画面は死へのカウントダウンを開始していた。
「全てのデータを消去します。
実行まで [487.365秒]
[キャンセル]」
487秒・・・、あと8分かそこらで出渕のAIが消えてしまうということか。
椎尾は震える手で「キャンセル」ボタンを押した。
「パスワードを入力してください」
「こ、、、これか」
ようやく言葉の意味を理解した椎尾は目の前でうずくまる出渕をにらみつけた。
出渕はホコリをはらいながら、ゆっくりと立ち上がった。
「本社の金庫にしまってあるじゃないですか。
紙切れに書いた あの 64ケタの数字ですよ」
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会社設立当初 出渕の作ったAIのデータを管理するためのパスワードを決めたことがあった。
最も重要なパスワードは簡単に推測できるものであってはならない。
出渕は手早くプログラムを書いて 64ケタの乱数を生成した。
何の意味もない64ケタの数字の並びはとても人間が覚えられるものではない。
このパスワードをメモした手帳の切れ端は 本社の社長室の金庫に大事にしまわれているのであった。
「この時間 あんたの秘書は会社にいない。
パスワードを知りたければ 10分以内に10億入れるんだ」
椎尾は眉間にシワを寄せ、カウントダウンの数字を見つめている。
「10億なんて ムリに決まってるだろ」
「あ、そう。
そんならボクは帰ります。もう用はないんで」
出渕はケロっとした顔でデイバッグを肩にかけ、コテージのドアに手をかけた。
「そのパソコンは好きに使っていいですよ。中古のボロいやつですけどね。
あ、それ壊してもカウントダウンは止まりません。サーバーで動いてますから」
そう言い放つと出渕はドアをバタンと閉めて出ていってしまった。
もともと 10億などというのは口実で、単なる復讐の演出に過ぎなかったのだ。
「ふざけやがって」
椎尾は手に持ったノートパソコンをそっとテーブルに置き、イスに腰かけた。
「パスワードを入力してください」
カウントダウンを止めるパスワードの入力画面を見ながら、椎尾はニヤリと笑みを浮かべた。
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