もう何度でも

倉橋玲

もう何度でも

 年の瀬は変わらずどこも騒がしい。

 青年は、いつもよりざわめいている昼下がりの町をのんびり歩きながら、どこか興奮したような世間の雰囲気に緩く目を細めた。

 年の巡りが近づくほどに高まるこの時期特有の活気は、一年の締めくくりである今日の日に最高潮となる。誰もがこの時をひとつのお祭りのように捉えているからか、冬の盛りにも関わらず、そこかしこの空気に一種の熱が溢れていた。青年は特にそういった、目に見えざるものに敏感であるため、余計それらを強く感じる。

 年の瀬を迎える準備をとっくに済ませている彼が、わざわざこうして出掛けているのは、この空気を味わうためだった。このなんとも言えぬ、ぷつぷつと煮詰められたような熱を、肌身に浴びたいのだ。大晦日なのだ、という実感を強く持てるのが好ましいのである。

 素敵だな。すれ違った、買い物袋を手にせかせかと道を行く婦人を横目に、ふと青年の口からそんな言葉が漏れる。袋からは掃除道具がいくつも見えていたから、彼女はきっと、これから大掃除をするのだろう。都合が合わずにこなせなかった掃除を、それでもどうにか年開け前にやってしまおうと急いでいる、といったところだろうか。

 他にも、今夜放送される歌番組の話を電話口でしている女性や、年越しそばなのだろうカップ麺を袋から覗かせて歩いている男性も見かけた。

 彼は、素敵だ、と、今度は自覚を持って口にする。目に入る光景たちは、確かに年の終わりを告げている。

 良いものは、何度見たって良いものだ。そう思って、青年は小さく笑った。

 暫くそうして大晦日の空気を堪能したあと、彼は家路につくことにした。玄関に正月飾りや門松を置いている家々を見つつ、途中で近所に挨拶をしたりしながら、自宅の前に辿り着く。

 正月らしい飾りひとつない、古い平屋の引き戸の鍵を開け、その中に素早く身を滑り込ませると、さっと戸を閉める。玄関の内側にかけられた注連縄しめなわに一度目を向けてから、彼はかしゃりと戸に鍵をかけた。

「ただいま」

 帰宅の声にいらえがないことにはとうに慣れたものだから、彼は気にせず廊下を進む。青年以外に人の気配がない家は、とても静かだった。

 年越しまでにはまだ時間があるが、年迎えの準備はとっくに終わっている。他にすることもないので、青年は居間の炬燵に潜りこみ、のんびりその時を待つことにした。




 ふと青年が時計を見ると、あと数分で短針が一周しきる頃だった。その瞬間を楽しみにしているせいか、いつも時間が過ぎるのがやけに早く感じられる。家でのんびりしていると、余計に時が加速するようだった。

 小さな音量で付けっぱなしにしているテレビの中では、どこぞの寺院の境内が中継されている。お参りをする人々や、鐘を鳴らす僧、本堂の中の仏像。それらから視線を外して時計に目を戻し、ナレーションや読経の声に耳を傾けながら、残り数分を待つ。何度迎えても、この時間はいつもどきどきして、興奮や不安に胸が塞ぐような心地がした。

 遠くではこの地域の除夜の鐘が、年を迎えるべく鳴り響いている。電波を介さず届く、煩悩を払うという音。だが、青年にはあまり効果がないらしい。

 やがて、心待ちにしているその瞬間まで、秒針があと半周、という時間になった。騒ぐ胸に手を当てながら、青年は心の内でカウントダウンを始める。残り時間は少しずつ、しかし着実に、ひとつひとつ時を刻んで消えていく。

 そして、除夜の鐘の百七つ目が聞こえた。

 さん。

 にい。

 いち。

 ぜろ――――と彼が胸中で呟くと同時に、世界がぐねりとうねる。

 流石に慣れてきたとはいえ、この感覚が不快なことには変わりない。脳が絞られるようなそれに、青年は頭を押さえて耐えた。視界の端では、テレビが世界ごと歪みながら砂嵐を表示し、悲鳴を歪めて引き伸ばしたような不協和音を奏でている。

 ただそれも、ほんの十秒にも満たない間だけのことだった。唐突に、ばちりと全ての感覚が元に戻り、世界の歪みが正された。青年がテレビに目を向ければ、芸人が海外で様々な体験をする深夜のバラエティ番組が流れている。

 それを確認し、テレビの電源を落とした彼は、次いで携帯電話の画面を見た。表示されている時刻は、深夜零時四十五秒。


 ただし、十二月三十一日の・・・・・・・・、だ。


「ああ良かった、今回もきちんと、無事にめぐりましたよ」

 心から笑って、浮かれ弾む声で青年が言う。その声が向けられたのは、部屋の中にある床の間だった。より正確に言うのであれば、床の間に飾られた門松にぐったりと身を預けている、大きな白い蛇、だ。

 蛇は声に反応するでもなく、ただじっと虚空を見つめている。

 そんなことは気にも留めず、青年は蛇に歩み寄った。幾重にも張られた注連縄と、幾つもの札で囲まれたそこの前に立ち、彼はただただ嬉しそうに口を開く。

「また今日が来ました。年のめぐりの最後の日が。また今日も、そしてこれからも、ずっと、何度でも」

 十二月三十一日。大晦日。一年の最後の日。

 これをもう何度繰り返したのかは覚えていないが、日を跨ぎ、再び十二月三十一日が訪れる喜悦は、いつになっても青年の中で薄れることがない。

「これからも、ずっと一緒にいてくださいね」

 祈るように口にするそれは、青年がずっと抱え続けている願いだ。

 彼がまだ幼い頃、年が明けた早々に、彼の両親は帰らぬ人となった。事故による急逝。残されたのは彼ひとり。親戚たちがばたばたと慌ただしく動いている中、幼い彼はできることもなく、ただ玄関先に座り込んで、突然奪われた二人のことを考えていた。

 寒い中ずっと玄関先にいたのは、実はすべて冗談で、ひょっこりと両親が帰って来るのではないか、と思っていたからだ。そんなことはあるはずがないと判っていて、それでも彼は、そこにいた。慌ただしさの中、片付け忘れられた門松の横で、膝を抱えてじっと父母の姿を待っていた。

 そうやって待ち続けて、どれくらい経った頃だっただろうか。ふと気づくと、隣の門松に、大きな白い蛇が身を絡ませていた。赤い瞳がじっと、幼い彼を見下ろしていた。唐突なそれに、だが不思議と恐怖は感じず、彼はしばらく蛇の目を見つめた後、ぽつりぽつりと自分の話をした。

 父母が消えてしまった。改めて口にすると、ぽろぽろと涙が落ちてくる。そのまま小さくしゃくり上げ出した彼の頬に、撫でるように拭うように、蛇が身を添わせてくれた。温もりも何もないのに、つるりとした鱗の感触は温かいように感じられて、酷く安心して、より一層に彼は泣いた。

 そしてそれが落ち着いた頃、現れたときと同じように、いつの間にか白い蛇はどこかへ行ってしまっていた。

 それからずっと。

 ずっと、青年はさみしかった。

「あなたが消えてしまって、本当にさみしかった。父と母がいなくなった悲しみは、あなたが癒してくれたのに、当のあなたはいつの間にやらどこかへ消えて、探しても見つからないものだから」

 今度はその分の穴が、青年の胸にぽっかりと空いてしまった。

 それから多くの出会いがあり、支えられ助けられることはあっても、どれもその穴を塞ぐことはなかった。笑い合った友人にも、この家に住み続けたいという我侭を叶えてくれた親戚にも、色んな人に感謝の気持ちはあるのだけれど。それでも、あの日あの時、あの瞬間に、青年に寄り添ってくれたのは、他ならぬあの白蛇だけだったから。

 あの蛇が何であったのかを調べ、共に在るための術を模索し、準備を続けて、そうして今年、ようやくあれから十二年が過ぎた。

 玄関先の門松に白く長い姿を見たときの狂喜は、計り知れない。

 そして奇跡的に、彼はここに、大切なものを閉じ込めることに成功した。

 めぐらぬ年は、思わぬ副産物だった。白蛇を留めたのち、春を迎え、夏が来て、秋が過ぎ、冬になって、師走が迫るにつれ、世界はどうなるのだろうと考えていた。白蛇を隔離している今、何事もなく一年が終わるのかどうか、ほんの少しだけ気に掛かっていた。だがまさか青年も、次の年がやってこないとは思ってもみなかったのだ。

 自分以外の誰にも気づかれることなく、世界は昨日になったはずの日を繰り返す。それを初めて認識した時、彼は少しだけ怯えた。怯えて、それから、あまりの僥倖に心から笑った。

 これでずっと一緒にいられるのだ、と。

 蛇と共に過ごすからなのか、自分が原因だからなのか、青年だけがこの日々の異物になっている。終わらぬ十二月三十一日。録画したビデオのように、何度でも同じことを繰り返す、壊れた世界。青年が己のエゴで、時の頸木くびきを壊したのだ。

 しかし、それが何だと言うのだろう。青年の心は満たされた。白蛇と共に在り、穴は綺麗に塞がった。彼にとって、それだけが重要なのだ。

 この美しい白の傍にいられること。それ以上の望みなど、ありはしないのだから。

 青年はそっと注連縄の一つに触れた。本当はこれを越えて、滑らかな鱗に触れたいところなのだが、結界を越えることはできない。僅かでも綻びは許容できない。

 代わりに彼は、赤い瞳と視線を合わせて、心からの想いを告げる。

「大好きです、としがみさま」

 蛇は何も語らない。幸福に酔う青年には、赤に宿る憐れみも何も、いつだって通じないままだった。

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