猫人小伝妙『ドキュメント承久の乱』

今村広樹

前哨戦

「にゃんということだ……」

 後鳥羽院から政子に対する御言葉をみて、義時は唖然とした。政子は

「鎌倉殿の後を継がせるために、どなたか親王さまを鎌倉に下向させてほしいですにゃ」

と、二階堂行光にメッセージを託したのである。後鳥羽院は御使藤原忠綱を下向させ、返信させた。内容はまず

「後鳥羽院は右大臣の薨御を、大変お嘆きですにゃ」

と、まずは当たり障りのない悼みの言葉から始まったそれは、だしぬけに

「長江と倉橋の地頭を改易しにゃさい」

と、院宣に変わったのである。

 そのうち長江の地頭は義時であった。

 つまるところ後鳥羽院は、朝廷の幕府に対する優位と、もし拒否したら、親王下向を拒否し、義時個人に逆賊の烙印をおそうという腹なのである。

 それに対して、政子と義時の使者として北条時房が1000の兵を連れて上洛した。

 義時の院宣にたいする返答は

「亡き最初の鎌倉殿が恩賞として任命にゃされた地頭は、大した罪もにゃいのに解任できませんにゃ」

と、拒否であった。それに対して後鳥羽院も

「将来、この国を2つに分けてしまうようなマネはできにゃい」

と、皇子下向を否定する。時房は困ったようにしばらく考えて

「では、これは如何でしょうにゃ」

と、ある提案をする。



 頼朝の姉は京の貴族に嫁いでいて、2匹の娘を産んでいた。そのうち1匹は西園寺公経という貴族に嫁いで綸子という娘を産んだ。その綸子は摂関家の九条道家に嫁いで、三寅という子を産んだ。つまり実朝から見て遠縁の子どもがいたのである。

 時房の案はその三寅を下向させようということであった。後鳥羽院は1000の兵を目の当たりにして、強気な態度を和らげて

「皇族ではにゃいただの猫にゃら、関白・摂政であっても願い通りにしてやろうにゃ」

と、返した。

 こうして、数えで2歳の赤ん坊が鎌倉殿に就任することになった。かれは若君とよばれ、政子が幼いかれの代わりに政務をとるようになった。

 世はそれで彼女を『尼将軍』と呼ぶようになる。



 一連の出来事に前後して、阿野全成の遺児時元と、頼家の遺児禅暁が誅され、義時の後妻の兄伊賀光季と大江広元に嫡子源親広が京都守護となった。

 こうして運命の承久3年を迎える。

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