もう一つの大勝負

 紡は自室に着くや否や、稽古着を包んだ風呂敷を投げ出した。

 それからいそいそと着替えを済ませて、机の上に置かれていた封筒を手に取り、大きく息を吐く。


 願を掛けた麟との試合は、見事勝ちを得る事ができた。

 先程までは、長らく目標に掲げていたその勝利の喜びを噛み締めていたが……今日はこのまま床に着く訳にはいかない。

 この後に紡にとっての、もう一つの大勝負が控えているのだ。


 何度も何度も推敲して書き直した手紙。

 最早これは恋文とは呼べないのかもしれないけれど……紡の中でずっと抱えてきた想い。

 絃への想いの丈……伝わって欲しい気持ち、そして願わくば、二人通じ合えたらと。


「……ええい。朝夕紡、男を見せろ!」


 紡は、なかなかその場を離れられない自分を叱咤する。

 きっと、手酷く振られることはない。

 そう自惚れるだけの好意を絃から受け取っている自覚は、紡にもあった。

 だからこそ、自分もそれに見合うようなものを返したいと、彼は思ったのである。


 もう一度気合を入れる為に、紡は結えていた髪を解き、まとめ直す。

 汗で多少ベタついているのが気になったが、絃を待たせている以上、さすがに湯浴みをしている時間はない。


 鏡を見ながら元結で髪を結び、机の上に置かれていた缶に手を伸ばす。

 蓋を開けると、中には可愛らしい淡赤色のリボンが収められていた。

 何度も使われたそれは少し草臥れてはいたが、持ち主が大切に扱っている為か大きな傷みは見られない。


「尚更、似合わなくなっているのだろうな……」


 紡はリボンを髪に結びながら、それを絃から受け取った日のことを思い出す。

 確かあれは、まだ二人が出会ってあまり日が経たない頃のことであった。

 あの頃に比べると紡は背が伸び、少しは顔立ちも大人びたものだと思っている。

 当時はまだ姉達に抱いていた女性への恐怖感から、絃に飛び付かれそうになる度に逃げ回っていたのだったか。

 今となっては懐かしい思い出だが……同時に多少の羞恥心も湧き起こる。


 とはいえ、今はしっかりと目を合わせて会話することが出来るし、ある程度なら触れ合っても平気な……筈だ。恐らく。


「色々と情けない姿を見せたものだ……」


 嘆いても時は戻らない。

 だからこそ、今日はどうしても失敗する訳にはいかないのである。


「お坊ちゃん、めかし込んでお出かけですかな〜?」

「ぶっ!?」


 すぱぁん!といい音を立てて袴の背板を叩かれ、油断していた紡はその勢いでつんのめる。

 咄嗟に机に片腕をついて事なきを得た紡は、苦虫を噛みつぶしたような表情で振り返った。


「繭子姉さん……」

「何よ、試合のこと労いに来てあげたんだからもっと歓迎しなさいっての」


 不服げに言う紡の姉。

 紡は何とも言い難い心持ちで、ありがとう、と返しておく。

 どうやら物思いに耽っていたせいで、障子が開く音に気づけなかったらしい。


「しかしあんたも偉くなったものねぇー、主将なんて。ほんの数年前までこんなちびっこくておねしょして泣いてた癖に」

「そ、そんなに最近の話じゃない!今の俺には関係ないだろ!」


 関係ない、と言いつつ顔を赤らめて否定する紡。

 繭子はそれを尻目に、さぞ愉快そうに笑う。


「あはは!いや、でも実際安心したわよ。もうあたしが気を揉む必要は無いんだなってね」

「姉さんが……気を……?」

「はっ倒すわよ」


 信じられないという目を向ける紡の目の前で、繭子は平手打ちの真似事をした。


「……あたしが言うのも何だけど、どこかに出掛ける用事があったんじゃないの?そんなリボンまで結んじゃってさ」

「はっ!?そうだ、こんな事をしている場合じゃない!」


 紡は障子の外を見る。

 太陽は傾き、いくつか浮かんだ雲を目指して、烏の群れが寝所へと向かっていた。


「姉さん。俺は出掛けるから、悪いけど話はまた今度に……」

「ああ、別に良いわよ。改まって話す事なんて別にないし?『やりたいこと』はやったもの」

「この人は……」


 紡は呆れに呆れたため息をついて、頭を抱える。

 しかし彼女の戯言にこれ以上構っている暇はない。

 紡は手にした封筒を大切に懐に仕舞う。

 それから「失礼する」と小さく言って、繭子の背後を通り、部屋を出た。


「はーい、いってらっしゃい〜!」


 繭子はニマニマとした笑みを浮かべながら、紡の背板に挟んだ白い紙を見つめる。


「頑張って考えたものなんだし。折角ならお披露目しないと……ね?」


 紡の背が廊下の曲がり角に消えたのを確認してから、繭子は機嫌よさげに部屋から出ると、後ろ手に障子を閉めた。

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