連射王
川上 稔/電撃文庫・電撃の新文芸
序章『19XX』
―1―
土の地面が、夕刻の光を浴びて広がっている。
平たい地面の傍らには、朱の光に染まった白い大きな建物が有った。
学校の校舎だ。
校舎を見上げる土の大地、グラウンドには、幾つもの影が有った。
影を生むのは、グラウンドの北側に点在する白いユニフォーム姿の群だ。
彼らは野球を行っている。
西側ネット前のベンチには黒板式のスコアボードが有る。四月二十一日、部内の紅白試合、今は三対二で九回裏、二死の状態。三塁にだけ走者がいる。
バッターは左打ちで七番。カウントは2ストライク2ボールだ。
バットを肩に構えた中背のバッターに、ベンチ右側に陣取った部員から声が飛ぶ。
「高村先輩! ヒットでいいんです! ヒットで!」
声を掛けられたバッター、高村は、ベンチの声に応えない。
対するように、ベンチ左側に陣取った部員がピッチャーに声を掛ける。
「仲先輩! あと一球! あと一球!」
あと一球コールに、ピッチャーの仲が首を軽く回す。
対する高村が、バットを肩に載せるように構えた。
その時だ。ふと、高村が目を細めた。
彼は遠くを見る。バックネットの向こう、校舎と校舎を結ぶ渡り廊下を。
―2―
高村が見たのは、渡り廊下を歩いて行く一人の少女だった。
長いポニーテールを揺らす彼女は、カメラの三脚を肩に担いでいる。
そして彼女はこちらに顔を向け、手を振って来た。
しかし歩きながら手を振ったがため、三脚がバランスを崩して肩から落ちそうになる。
高村は、慌てて三脚を支えて隣の校舎に入って行く彼女を見て、
「馬鹿」
小さく、自分にしか聞こえない声で呟いた。
すると、まるでその声が聞こえたかのように、一つの言葉が高村に飛んで来た。正面、ピッチャーの仲が口を開いたのだ。
「タカ」
彼は、ベンチの監督が眉をひそめるのも構わず、
「気、入ってるか?」
問い掛けに、高村は答えない。が、代わりにベンチの後輩が返事を飛ばす。
「入りまくってますよね高村先輩! 今日も守備は冴えてるし、バッティングでも一年にいいとこ見せて下さいよ!」
その呼び掛けにも、高村は答えない。
ただ彼は、脚を広げ直し、心の中でこう思った。
……どうだろうな。
高村は仲を見る。ボールをグラブに隠して握った仲の両腕には血管が浮いている。あの力を抜き放つように投げるのが仲の投球だと、高村はよく知っている。ああいう状態の彼が、いつも手を抜かないことも。
そして対する仲が、またこう言った。
「本気、出せるか?」
―3―
出ているか、とは訊かれなかった。
だから高村は思う。どうだろうか、と。
後輩達は、今日も守備がよかったと、そう言った。
しかし高村は理解している。守備とは、投手対打者のような人と人との勝負とは違い、飛んで来たボールに対する練習量の勝負なのだと。
守備にとって、何よりも大事なのは、ありとあらゆるボールを捌く機械のような動きと判断であり、それは反復練習で身につくものだ。
そして高村は、練習好きであることを自覚している。小学校の頃に始めた野球を、好きだとは思っている。
だが、
「仲」
高村は、ピッチャーを見た。
「本気で来るか?」
「当たりめえだろ」
そうか、と高村は頷き、こう思った。
……やりにくいな。
苦手だ。
この追い詰められた状況が、ではない。
……本気で来る相手って、苦手なんだよな。
高村は野球が好きだ。
捕球練習も、打撃練習も、グラウンドを周回することも、何もかも。
しかし、
……どうなんだろう。
スコアボードのスコアを見ても、カウントを見ても、切迫感を感じない。ただ、追い詰められた状況に自分が立っていると、そう感じるだけだ。
どうにかしようと、戦おうと、そういう気が入っていない。
何故なら、
……楽しいだけじゃ、駄目なのかな。
高村は野球が好きだ。
ボールがグラブに食い込む感覚も、バットで投球を殴る感覚も、スパイクで土を撥ね上げる感覚も全て好きだ。
しかし、
……やりにくいな。
高村はこう思う。何故、そういう楽しいこと全てを、点数を取るために使わなければならないのだろうか、と。
野球はそういうスポーツだと言えばそれまでだ。点を取ることが目的である。
今も、
「――っ」
仲が振りかぶった。身が縮み、しなるようにしてこちらに踏み込んでくる。
腕が曲線を描き、白の球が、
「しゃあっ」
投じられた。
その瞬間。高村の目は判断する。外角低めのカーブを使ったボールだな、と。
直後。キャッチャーが身をわずかに動かし、ボールがミットに叩き込まれる音がした。
乾音ともいえる音がして、皆がこちらを見る。
審判役の部員が、わずかに迷ってから、
「ボール!」
ベンチの皆が吐息をした。片方は安堵で、片方は落胆の息を。
そしてキャッチャーから仲にボールが戻った時、高村は見た。仲が舌打ちしたのを。
……悔しいのか。
重なるように、ベンチから声が飛ぶ。
「高村先輩! ナイス判断ー!」
違う、と高村は内心で断じる。打ち気だったら振っていただろう、と。
今のような仲の投球でバットを振らされた相手を、高村は幾人も見てきた。
今のは、仲の殺し球だと解っている。
振らなかったのは見切っていたこと以上に、見慣れていることと、
……打つ気が、あまり無いんだよな。
高村の視線の先、仲は、今の球が決まらなかったことに対しての苛立ちを隠してない。横を向き、土のマウンドを軽く踵で蹴り崩している。
……本当に悔しいんだろうなあ。
だとしたら対する自分も、本当だったら、今の見切りを喜ぶべきなのだろう。カウント2―2という追い詰められ方から、2―3というタイに持ち込んだのだから。
今、点の取り合いを続けられるかどうかが、高村の打席には懸かっている。
ベンチの皆も、
「あと一点!」
一点コールを送って来る。
あと一点。
それが有ればゲームはまだ続くのだと、皆がそう言っている。
……点の取り合いか。
だが、高村の野球とは、
……キャッチボールから始まってさ。
思い、思い出す。
小学校の頃に所属していたチームは弱かった。幾ら頑張っても点が取れず、人数も少なかったことから、監督自身がこう言っていた。まず、ボールやグラウンドと親しむことを楽しむ野球を、と。
だからだろうか、今の野球は、
……やりにくい。
仲や、他の部員達に対した時、自分には何か足りないものを感じる。
特に、仲のようなピッチャーを前にした時、気圧されるのが常だ。ただ飛んで来るボールとは違い、こちらを倒そうという意志を持って来るのだから。
だけど、何故、自分がそう思われなければならないのか、高村には解らない。
敵だから、ということは頭では理解出来ている。
だが、自分の方ではそう思えない。
今も、打てればいいとは思っているが、仲を打ち負かそうとは思えない。
……全くもって俺は――。
と、そこまで思い、高村は自分が思考の中に沈みかけていることに気付いた。
……まずい。
「ん」
意味もなく、高村はボックスから身を外し、バットを構え直した。
だが、思いは心から外れない。心に有るのは、まずいという、何に対してまずいかは解らない焦燥と、
……俺、大丈夫かな。
高村は今年度で三年になった。
受験の年だ。
同級生の多くは予備校や塾に通い始め、推薦を取ろうとする者も出て来た。
だが高村は、何をしたいか、どこを目指すかも解っていない。
それでいて、好きではあるが、それ以上ではない野球を続けている。
最近、高村は漠然と思っている。
……俺――。
否定の出来ない思いとして、
……俺、何事にも本気になれない人間なんじゃないかな。
野球も今年で一区切りとなる。進路も大事な一区切りだ。
しかしどちらに対しても、他人から遅れている自分がいる。
どうなのだろうか。
もし自分が、何に対しても本気になれないのだとしたら、どうなってしまうのだろうか。
……どうだろう。
何か、一個でもいい。たった一つでも、本気になれるものが見つかれば。そうすれば、自分はやっていける気がする。自分は、本気になれる人間なのだと。
だから何でもいい。一瞬でもいい、本気になれたと信じ、解るものが有るならば。
自分が本気になれる人間なのだと解れば、選ぶ進路にも自信が持てる。本気になれるものを見つけ、それを得るために進学をしようと、そう言える。
……どうだろう。
この区切りの年に野球を続けていけば、野球に対して本気になるだろうか。
進路を決めるために、色々な学校や職業を調べれば、これなら本気になれると思えるものに出会えるのだろうか。
解らない。
解らないまま、今、眼前で仲が振りかぶった。
速球が来る。
……やりにくい。
先ほどのような技術的な投球だったら、見切ればいい。そういう球は遅いからバットも合わせやすい。
しかし速球は違う。何よりも、こちらを倒そうという意志で押して来る。
気が引ける。
本気で掛かって来る相手に対し、気の入っていない自分が抗していいのだろうかと。
「く」
声を漏らしながら、高村はバットをスイングした。
……本気に――。
なれ、という願いは、しかし果たされなかった。
生まれた思いは、疑問詞で、
……なれるのかな。
バットを振り抜きながら、ミットに球が食い込む音を聞きながら、高村はこう思った。
……俺、本気になれる人間なのかな。
夕刻の涼しさを肌で感じながら、高村はこう思う。今の、己の問いに対する答えは、出るのだろうかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます