紫陽花が散った

ういんぐ神風

紫陽花が散った

「……理不尽だ」

 麻生はそう呟きながら、真っ白の建物、病院の廊下を駆け抜けていた。右手にはギプスを巻いていた。

 先昇れば、昨日の出来事。画廊のはしごから落ちた結果だ。

 情けないけど、踏み外した自分が悪い。

 当分、絵を描けないだろう。

「はあ……」

 大きなため息を吐きながら、先週の絵画コンテスト結果が脳裏に蘇る。

 一生懸命に春のテーマで描いた作品、『紫陽花』をモチーフにした油絵を応募した結果。陳腐の作品とののしられ、結果は最下位になってしまったのだ。

「……何がいけなかったんだ?色の使いが濃かったのか?」

 麻生は自分の作品について振り返る。血と涙で創作したものが、最下位になった理由がわからない。

 わかるのは、その絵画はイメージした色になっていない。

 そう考えると、ため息を吐いてしまう。

 どうして、絵画はそんなに難しいのだろう。

 どうして、自分が描いた絵はこうも陳腐な者しか描けないのだろう。

 どうして、自分には才能がないのだろう。

 ふと、病院の窓から外を見つめる。

 そこにはぽろぽろと雨粒が窓を叩いていた。

 外は言うまでもなく、雨であった。いまの季節は梅雨。6月中旬の雨だ。こうも雨が降っても珍しくはない。

(……憂鬱だ)

 はあ、とまたもため息を吐く。

 そんな憂鬱な気分の中。麻生は病室の廊下を歩き、ナースセンターに向かっていた。今日は定期的診断だ。主治医からは一週間には一回右手の様子を診療していた。その診療が終わったあとのことだった。

 あとは帰宅すれば、終わり。

 丁度、病室の前を通ったときだ。

けふけふと、咳をする音がする。

 足を止めてふいに音元の方を覗いて見た。


 ……そこには紫陽花が咲いていた。


 いや、そこには一人の少女がベッドの上で半身起こしている。彼女の髪は長く綺麗な紫陽花の色をして、腰まで届く長さ。整った鼻筋に、黒い双眸。顔の形が整えて、美しい容貌。

 凛とした姿に、麻生は見惚れてしまったのだ。

 彼女は美しい、アジサイの花のようであった。

 そんな彼女は咳を終わると、こちらへと見つめる。

「あ……」

「あ……」

 先に誰が言葉を漏らしたのか、わからない。もしかしたら、同時に声を上げたのかも知れない。けど、そんなことはどうでもいい話だった。

「ねえ、そこの君。わたしとお話をしましょう」

 と、綺麗な微笑で彼女は麻生へ顔を向けた。

 最初、麻生は戸惑った。

 彼女のところへ行くのを躊躇した。

 なぜならば、他人と仲良くすることは怖かったのだ。

 何を語ればいいのか、わからないのだ。

「わたし、ベッドの生活でつまらないだ。外の世界を教えてよ」

 彼女は懇願するように麻生のことを呼ぶ。

 ふいに彼女の表情を見ると、水滴が瞳に溜まっていた。彼女が秘めていた孤独さがこちらまでに伝わってくる。

 このまま無視して、行くのは背徳感を感じるため、麻生は仕方がなく、病室の中に踏み入った。

「……先に言っておくけど、僕、話をするのが苦手なんだ」

「いいわ。ここで退屈するよりはいいわ」

 麻生は彼女のベッドの近くにある椅子へと腰を掛ける。

 すると、彼女は満面の笑みでこちらに顔を向けた。

「わたしの名前は紫凛。よろしくね」

「僕は麻生結弦。見ての通り右手を骨折している最中だ」

「ああ、可愛いそうに。それじゃあ、色々と不便よね。ペンも握れないわね」

「本当に困っているんだ」

 右手が骨折することで、自分は絵画を描けない。

 麻生の主な先行は油絵だ。筆を右手に握り、キャンバスの前に描く。

 中学生の時はいろんな賞を取ったが、高校に入ってから一度も賞を受け取っていない。これが才能のないことを神様から啓示か。

「わたし、あなたの腕が早く治るおまじないをしてあげるね」

「え?」

「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んでいけ」

「……別にいたくはないだけど……ただ、不便だけ」

「ああ!ごめんなさい。もう一度、おまじないをかけ直すね。ちちんぷいぷい、早く治れ」紫はおまじないを言霊にして、両手を麻生のギプスに触れた。

 無論、効果はない。

 ただのおまじないだ。治癒効果はない。

「それじゃあ、お話をしましょう」

「……僕から話すことはないよ」

「そんなことはないわ。あなたが好きなものを聞かせて頂戴」

「……そうだな」

 麻生はそう言いながら、再び窓の外を見つめる。

 そこには紫陽花が咲いていた。雨に耐えながら、咲き誇る花。

 ギリシャでは水の器として知られている。

 そして、自分のことを話し始める。

「……僕は画家だ。絵描きをしている。以上」

「まあ!素晴らしいわ。ねえ、あなたが描いた絵画を見せてくれない?」

「嫌だよ。僕の絵はへたくそなんだ」

「画家なのに?どうして下手なの?」

「だって、僕が描いた絵はコンクールで最下位だった」

「そんなことないわ。あ、そうだ。今度その絵を私に見せて頂戴。わたしが褒めてあげるわ」

「いやだよ……その恥ずかしいこと」

「ね!?いいでしょ?わたし、あなたが描いた絵が見たいわ」

 断ろうとする麻生だったが、彼女は顔をぐいぐいと近寄せる。

 彼女の瞳はキラキラと輝いている。

(……こ、断り辛い)

 と、取り乱した彼女に麻生は汗をかき、顔を後方へと下げた。

 けど、彼女の好奇心を勝てることもないので、しぶしぶと返答するようになった。

 沈黙の数秒間、麻生は諦めた。

「…………わかった。でも、いまはだめだ。まだ描いている途中だから。描き終わったら見せるよ」

「本当!ありがとう!」

 麻生の嘘にぱっと明るい表情になる紫に麻生の心拍数が跳ね上がる。

 紫の笑みは天使のようだった。彼女は心を純粋無垢で清らかな心を持っている。そんな彼女がなぜ、ここに入院しているのか。麻生はそう考えながら彼女の笑みを眺める。

「あ、見て。紫陽花が咲いているわ」

「紫陽花?」

「わたしが愛をこめて育てた紫陽花」

 彼女はそう言うと、窓の外を眺める。雨の向こうには花が咲いていた。紫陽花だった。凛として立っている紫陽花。雨にも負けずに堂々と咲いていた。

「紫陽花の花ことばは知っている?」

「……辛抱強さ?」

「正解!あなたって物知りなんだね!」

「いや、たまたまだよ」

 そう言って、麻生ははあ、とため息を吐く。

 なんだか褒められている気分がしないことだ。自分は物知りではない。もしも物知りだったら、今苦痛している、色の出し方を完璧にこなせる。

 いまはもうガス抜き、筆が止まり、スランプ状態になっていた。

「わたしはね、重い病になっているの」

 そんな紫はふっと難しい言葉を語っている。

 思わず、え?と声を漏らす。

「神は、乗り越えられる試練しか与えない。神様はきっとわたしにこの病という試練を与えてくれたのだわ。わたしはきっとこの病を克服して、また再び紫陽花を育てれるわ。愛情をこめてね」

「そうなるといいね」

「ううん。きっとそうなるの」

 にっこりと笑み彼女に、麻生は赤面になってしまった。

 鼓動が早くなり、彼女の顔を真っすぐに見つめることができなくて、目を逸らした。

 これが恋なのか?

麻生はそう思うと、余計に彼女の顔を見ることができない。


 次の日、麻生はまた再び病院に戻って来た。

 今日は診療する日ではない。けど、紫のことを放っておくが出来なかったから、今日も彼女とお話できればいいな、と思った。

 だが、麻生が彼女の部屋に入ると、彼女は寝たきりだった。昨日は元気で良好だったのに、今日は不良だった。腕にも点滴している。紫は半分しか瞳を開けて窓の方を見つめる。

きっと紫陽花を見ていたのだろう。

「……あ、こんにちは。来てくれてありがとう」

 と、麻生のことに気付くと、紫は元気よくベッドから半身を起こし、にっこりと笑う。

 自分が背負っている病の苦しさを払拭したように、彼女は何もないように笑顔のままでいた。

 そんな彼女を見て、麻生は息を切らすような心が痛みを感じる。

 そして震えた声で彼女に問う。

「……なんで……」

「どうしたの?」

「なんで君はそんなに笑えるんだ?君は自分自身の状態をわかっているのか?」

「うん。わかっている」

「なっ!?」

 そう答える紫に麻生は言葉を失った。

「わたし寿命は一ヶ月もないことは先生から言われているわ」

 紫の声はどこか震えていた。死について恐怖を感じていた。

「けど、これでいいの。わたし、神様のところに行けるのだわ。そう考えるともう何も怖くない」

「……ふざけるな!そんなのいいはずがないだろ!

 麻生は怒りを覚えて、思わず彼女を怒鳴る。

 ……神は存在しない。もし、存在していたら、神は無責任で無謀の奴だ。

 なぜならば、こんなにいい子が治らない病になるわけがない。

 そう感じた彼はぷるぷると身体を震わせながら、怒った。

「ねえ。君なら、わたしの最後の願いを聞かせてくれないかな?」

「最後の願い?」

「……君の絵を見せてよ」

 紫の言葉に麻生は言葉を失う。

 自分の作品は受賞もできない、へたくそな絵だ。

 そんなものに彼女が見たらがっかりする。

 紫にもう一度見ると、彼女は笑みのままこう語る。

「……ね、お願い」

「…………わかった。見せるよ。でも、期待はしないでね。僕もそんなに絵が上手いわけはないからだ」

「いいわ」

「出来上がったら見せるよ。だから、また今度ね」

「ええ。また今度」

 そう言いつつ、麻生は急いで走り出す。

 廊下を駆け抜け、歩路を走る。自分の画廊へと向かう。

 そして、急いで自分が応募した作品、キャンパスの前に立つ。

 あの紫陽花の絵画が目の前に広がっている。

「ダメだ。この絵はダメだ。なんで、僕はこんな絵を描いたんだ。色が出てこない。ダメだ、これは彼女に見せられない!」

 と、麻生は自分の絵を見てそう叫んだ。

 この絵はダメだ。色の扱いが出来ていない。

じゃあ、足りない色はなんだ?

麻生は頭が割れるほど、急いでその絵画の失敗を考える。


 ……愛をこめて育てた紫陽花。


 ふと、頭に紫と会話した言葉が蘇る。

 すると、彼はぴんと閃く。

「そうか!この絵に足りていないのは、愛情だ。」

 そう語りながら、麻生は急いで筆を取り、油彩に入れる。

 利き腕ではない、左腕一本で精一杯紫陽花を描く。

 前回の失敗を踏まえて、絵画を描く。今度は愛情をこめて、紫陽花に描く。自分自身が描きたいものを描く。細かい色を重視する。

 紫があの紫陽花を育てたように、今度は自分が絵画を愛するように描くのだ。

 右手が使えなくても、愛情があればきっといい絵が描ける。

「ごめん、紫。僕が出来るのはこれだけしかない」

 彼女が徐々に弱まっていくのを傍観する事しか出来ない自分に苛立つ。けど、彼女の心を救済できる。

 なら、やることは一つだ。

 綺麗に咲いた紫陽花を彼女に見せるのだ。

 

 次の日。

 麻生は左手キャンバスを抱えながら、彼女の病室へ駆け出す。

 病室の前には『面会謝絶』とプレートが飾っていた。

 今度は点滴だけではなく、気管内チューブを付けていた。複数人の看護師や医者に囲まれている紫。

 そこで麻生は悟。彼女の寿命はもうそんなに長くはない。

 だから、彼女が意識あるうちにこれを見せなければいけない。

 彼は病室へかけ抜く、周囲を追い払うようにキャンバスを彼女に見せた。

「紫!これが僕の絵だ。紫陽花だ」

 キャンバスを彼女の方へ差し出した。

目を瞑っている彼女の弱弱しい手を掴み、キャンバスに触れさせる。

……眠り姫は目覚める。

「紫!起きてくれ!」

 だが、彼の行動は治療の邪魔であった。

 彼の背後に立っている先生は機嫌を損なわれ、麻生を追い出そうとする。

「君!今は診療中だ!ここから出ていけ」

「紫!早く起きて、僕が描いた絵だ!約束通り、紫陽花を持ってきたぞ!」

「誰か警備員を呼べ、診療の邪魔だ!」

 聞く耳もたない麻生に、医師は警備員を呼ぶように看護婦に命令する。

 すると、数秒も立たないうちに警備員がやってくる。駆けつけた警備員が麻生の根っこを掴み、彼を引き摺り出す。

 麻生は彼女から徐々に離れていく。

 あともう少しなのに、あともう少しで紫を彼女に届けられるはず。

(……お願いだ!目を覚ましてくれ!紫陽花がもう目の前に咲いているだ)

 その祈りが彼女に届いたのか、ほんのわずかな奇跡が起きた。

 彼女はゆっくりと、僅かに瞳を開けると、こう小さくつぶやいた。

「……ありがとう。綺麗な紫陽花を見せてくれて」

 その絵は今までのない、紫陽花が色鮮やかな一面の絵画にだった。

 だが、紫が呟くと、途端に彼女の命は途絶えた。

 神のところへと帰依したのだ。


 ……紫陽花は散った。

                       

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紫陽花が散った ういんぐ神風 @WingD

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